狼よ、見ているか
流れる血を、消えゆく唸りを、刀身が掻き分ける肉の感触を、目に、耳に、魂に焼き付けよ。
それは憤怒の化身。怒りの炎は不滅、お前の身に宿った。
己を傷つけるものを決して許すな。
誇りを傷つけるものを決して許すな。
家族を傷つけるものを決して許すな。
我等『牙の民』。魂は繋がり、一人は一族であり、一族は一人である。
故にお前の牙は、我等の牙だ。
*
比較的緩やかな山間部に砦がある。
そこは他国に侵攻するために急造された代物である。丸太を並べ作られた外壁はなかなかに立派であるが、中に立つ兵舎と厩舎は控えめな造り。仮設であろうテントがいくつも有り、基地として完成していくのはまだまだこれからといったところだ。
「おい、遂に『山狩り』だな」
青空の下、外壁に設置された物見櫓に背筋を伸ばして立つ兵士が、姿勢はそのままに口だけ動かす。皮鎧に身を包み、先の尖ったスパンゲンヘルムを被り、手に槍。顔には軽薄な笑みが張り付いていた。
「被害は既に甚大だ。これで終わればいいが」
同じ格好で隣に立つ、実直そうな兵士が答える。彼は遠く消えゆく山狩り部隊の背中を不安そうな目で見つめていた。物見櫓にいるのはこの二人だけのようだ。
軽薄そうな兵士が、実直そうな兵士を眇める。
「大丈夫だろ。探知師をありったけ連れてんだぜ。空でも飛べねぇ限り、逃げきれやしねぇさ」
「逃げるとも限らないだろう」
「おいおい、あの大部隊に立ち向かうってのか? 馬鹿げてるぜ」
軽薄そうな兵士は笑うが、相手はむっすりと顔をしかめた。
「敵は多く見積もって2、3人。それで私達に戦争を仕掛けるような馬鹿げた相手だから山狩りなんぞしている」
「確かに……ならどうだ」
「なんだ」
「この山狩りでこっちが何人やられるか賭けようぜ」
その軽薄な提案に、実直そうな兵士は首を振る。
「お前」
「俺は、そうだな。2人だ。近い方が勝ちで50ラーダ」
「不謹慎すぎる……5人だ」
「そうこなくっちゃ! おっと7人以上はノーゲームだぜ」
軽薄そうな兵士が相手の肩を軽く叩く。
「国のガキにいいみやげ買ってやりてぇからな。勝っても負けても恨みっこ無しだぴゅ」
そんな彼の首から、突如矢が生えた。
「なっ……」
実直そうな兵士が後ずさる。目の前の相手がごぼごぼと血を口から吹き、首を掻きむしりながら、その場にくずおれていく。数瞬して、彼は射抜かれたのだと気づき、
「てひゅ」
敵襲だと叫ぼうとしたが、全ては遅かった。
*
簡素な厩舎で小柄な男が馬の世話をしていた。隊の中で彼が軍馬の世話係として任命されていたため当然だが、何より彼自身の性に合っていた。
人よりもよっぽど付き合いやすい。のんびり屋の彼は分かりやすい馬が好きであった。
そんな彼だからこそだろう。微細に変化した馬の様子にすぐに気が付いた。
……少し落ち着きが無くなったか?
目の前にいる鹿毛馬の鼻筋を優しく撫でる。しかしそれでも気はそぞろ。周りを見ると全ての馬が同じような様子であり、意識は厩舎の入口に向いていた。
男が振り向く。
そこに、『それ』はいた。
『それ』は半裸であった。隙の無い鍛え上がった体。防具は鉢金と股間のみ。体に巻かれたベルトに様々な武器が差し込まれている。
『それ』は異様であった。日に焼けた顔と体中に施された虎のような黒い縞模様の化粧。こちらを見据えて離さぬ爛々と輝く黄金の瞳。表情は一切ない。
馬達が落ち着かぬ理由が分かった。
『それ』は人の形をした獣であった。
むせかえるような獣臭。心胆寒からしめる殺気。一足で12人掛けのテーブルすら飛び越えてしまうだろう跳躍力。砲撃のように放たれる膝蹴り。
食われたのだ。しょうがない。
小柄な男は恐怖に身が竦み、何も出来ずに『それ』に頭蓋骨が粉砕されてしまったが、どこか納得しながら死んでいった。
*
広い部屋の中で、見事な髭を貯えた厳格そうな男が机に向かっていた。顔は皺が目立ち老いを感じさせるが、肉体は精強そのものである。それを質素な机に窮屈に押し込み何をしているかといえば、手紙を書いていた。
作戦行動中に正体不明の何者かに襲撃され物的人的被害を受けていること。このままでは作戦自体に遅れが出かねないこと。事実をつらつらと簡潔に書き上げ、最後に物資と人材の支給を要請する文面で締める。
彼は筆を置き、ふと顔を上げた。
何やら外が騒がしい。
立ち上がり、外の様子を見ようとしたその時、控えめに扉がノックされる。彼は再び椅子に腰かけ答えた。
「入れ」
「失礼します!」
扉が開き、きびきびとした動きの若い兵士が入ってきた。背筋を伸ばし一礼。上げた顔は緊張に引きつっていた。彼はその顔に見覚えがあった。
確か、入隊したばかりというのに碌な訓練もないまま、こんな前線に手配されてしまった不幸な男。名は何と言ったかな。恋人は国にいると言っていた気がするが……
「ギルバート将軍、報告申し上げます! 西方の厩舎にて火災が発生しました!」
彼が色々と思い出そうとしている内に若い兵士が喋り出してしまう。相手に悟られぬよう見事な髭の中で苦笑いをすると、彼は顎で先を促した。
「続けろ」
「はっ。火のついた馬が四方八方に駆け巡り、被害が拡大! 人手が足りず、消火活動は後手に回っております!」
「この騒ぎはそれでか。こんな時に……」
ギルバートは髭をゆっくり摩る。そして、思慮深げに目を閉じた。
こんな時に? 偶然と見るべきではないか。
彼が黙りこんでしまったからか、若い兵士はおどおどと告げた。
「こちらにも火の手が迫る恐れがあるため、ギルバート将軍におかれましてはどうか避難のご準備を」
「キミ、馬は使えるかね」
「は? ま、まぁそこそこは」
若い兵士が戸惑った様子で答える。ギルバートは頷くと、彼に背を向け、再び机に向かう。少しして振り向いた時には、蝋で封がされた手紙が手にあった。ギルバートは立ち上がり、その手紙を兵士に差し出す。
「それでは頼まれてくれ。山狩り部隊に戻るように伝え、そのまま国のエンデル将軍までこれを届けるように。終わったら一日休んでから戻ってこい」
「で、ですが伝令の者なら別に」
「これは命令だ。他の厩舎が無事な間に行かねば、走ってゆくことになるぞ。足は速いのかね?」
「わ、わかりました! すぐに!」
若い兵士は差し出された手紙を慎重に受け取り、慌てて部屋から出て行った。ギルバートは小さくため息をつき、部屋の片隅に飾られている、赤い刺繍が立派な鋼鉄のラメラーアーマーへと視線を向けた。
ここは戦地となるやもしれぬ。
*
狂乱の暴れ馬が炎を靡かせ迫る。
しかし、相対するブリガンダインの大男は慌てなかった。巨大なグレートソードを両手で構え、
「ふぅん!」
裂帛の気合と共に横薙ぎ一閃。暴れ馬の首は見事に斬り飛び、血しぶきをまき散らしながらぐるぐると宙に舞う。胴の方はといえば、首を無くしたことに気付かないようにしばらく走った後、前脚からつんのめるようにして転がり倒れ、動かなくなった。
「お見事です!」
大男が引き連れていた兵士達が手を叩き、歓声を上げる。
彼は笑みも浮かべず、落ちてきた首のたてがみを素早く掴み、細い目でまじまじと見つめた。
綱が切られている。将軍の言う通り、これは人の仕業だ。
『姿無き襲撃者』だろうか。いや、正体を探るのは自分の役目ではない。
大男はギルバート直属の部下であり、彼の命を受けて、混乱に陥っている砦内の指揮を執りにきていた。
後ろの兵士へと振り返る。
「敵が潜んでいる。必ず三人以上で組みを作り消火活動にあたれ。索敵も十分するように。これを他の者に急ぎ伝えろ」
「敵、ですか?」
兵士の一人が疑問を口にした。
その気持ちは彼もわかる。山狩りの部隊が出立する前、この砦周辺の探知は念入りに行われたはずなのだ。人っ子一人見逃すはずもない。だが、実際には。どうして、どうやって。
彼は手に持った馬の首を地面に打ち捨て、疑問を振り払うように踏みつぶした。
「口答えは許さん。散開」
「はっ」
*
ブリガンダインの大男は指示を通りがかりの者にも出しながら、ある建屋の前まで移動する。そして、その入口を塞ぐように、グレートソードを地面に突き立て、直立不動となった。
彼はギルバートの盾。将軍を守るのが彼の役目。
彼は細い目を開く。そして、首を捻り飛んできた投げナイフを紙一重で躱した。
「後をつけてきたか、鼠め」
グレートソードを雄大に構える。
「嗅覚と悪知恵は褒めてやろう。だが、全ては無意味」
彼はギルバートの剣。敵を斬り滅ぼすのが彼の役目。
彼は細い目で、目前の体中に異様な化粧を施した半裸の男を睨みつけた。
「お前はここで死ぬからだ」
大男の言葉に、半裸の男は眉一つ動かさず、腰に吊り下げた得物を無言で抜き放つ。
両手にハチェット(手斧)。その先端からは血が滴り落ちた。
異様な男は、獲物を前にした獰猛な獣の如く、腰を低くし身をたわませる。
火の粉が二人の間を舞った。
*
「おい、水が足りねぇ! スクロールも持ってこい!」
「敵!? あの『姿無き襲撃者』か!」
「探知師は何をしてんだ! 見張りもだ!」
「くそ、俺の馬が」
「み、見張りが死んでる! 本当に敵がいるぞ!」
「あっちにも死体だ! 何人やられた!?」
「火事と敵、どっちをやりゃいい!?」
「どっちもだよ!!」
「母ちゃん……」
*
どこかから響いてきた火が爆ぜる音を合図に、縞化粧の男は地を蹴り駆けた。
迎え撃つ大男はグレートソードを更に高く掲げる。間合いに入った瞬間に一刀の元に叩き斬る算段。
しかし、縞化粧の男は間合いの少し外で急制動し、鍛えられた肉体を躍動させ。
「!?」
至近距離でのハチェット投擲。
正中線めがけ正確に飛んでくる斧は右にも左にも回避しきるのは不可能。大男がとる行動は必然的に一つ。
「ふぅん!」
構えたグレートソードを思い切り振り下ろし、ハチェットを叩き落した。その大男を暗い影が覆う。彼は顔を上げた。高く上がった太陽を背に、宙を飛ぶ縞化粧の男。信じられぬ跳躍力。巨体には自信のある大男にあって、一度相対した敵が自身の頭上から襲い掛かってくるような経験は皆無であった。
獣め。
グレートソードを握る手に力を込める。返しの刃で叩き落す。それで終わりだ。大男の額と腕に青筋が浮かんだ。
しかし、逆光で大男は気付いていなかった。縞化粧の男の頬が膨らんでいることに。気づいたのは、相手の口から放たれた何かが光を反射し、それが彼の右目を無慈悲に貫いた後であった。
「ぬおぉぉぉ!!」
欠ける視界。熱、直後に激痛。それでも大男は気力漲らせグレートソードを切り上げる。しかし、距離感とバランスを崩しながら放った一撃は、軌道がゆらめき縞化粧の男の脇腹を浅く裂くだけに留まった。かの勢いは止まらぬ。振るわれるハチェット、交差。
混乱する砦内において、その一瞬だけ奇妙に静まりかえった。
「ぶふっ」
ブリガンダインの大男は首から多量の血を吹き出し、その血だまりにゆっくりと倒れる。
その最後を、縞化粧の男は一瞥もすることはない。彼の黄金の瞳は、真っすぐに前だけを見ていた。
*
ラメラーアーマーを着込んだギルバートは考えていた。
『姿無き襲撃者』とは何者か。
大層な通り名であるが、今までは探知魔術で探れなかったわけではない。作戦行動中の末端への襲撃が相手の主だった干渉であり、組織ゆえの動きの鈍さで相手の身軽さに翻弄されて姿が確認出来なかっただけだ。それゆえ、行動目的を襲撃者自体に絞ってしまえば、いずれ問題は解決すると見込んでいた。
だがそうではなかった。
それこそが相手の狙い。相手は探知されないための技能を元より持っていたのだ。それを今日この日のために、ひた隠していた。全ては過去の自身を囮とし、今の自身を本陣にねじ込むために。一歩間違えば破滅、場当たり的、しかし狂気すら感じる目的意識。敵国の妨害ではない、恐らく個人的な怨恨。
自分は恨みを買わないような人間ではない。ただ、このようなことが出来る相手が果たしてどれだけいるだろうか。
ギルバートは目を閉じ、髭をゆっくりと摩る。
ふと、草原の風とむせるような血の臭いが脳裏に蘇った。
その時、部屋の扉が荒々しく砕かれ、半裸の男が飛び込んでくる。
異様な縞化粧。そして、黄金の瞳。ギルバートは確信した。
彼は腰のロングソードを引き抜きながら、落ち着いた様子で言った。
「キミは『牙の民』の生き残りか」
縞化粧の男は、何も答えなかった。
*
「キミは『牙の民』の生き残りか」
ギルバートの問いに、男は憤怒の眼差しで答えた。
もう自分と、目の前の男を隔てる物は何もない。
何も。何も。あの時とは違う。
血流が沸騰し、髪が逆立つ。
魂の奥底に刻まれた光景が、悲鳴が蘇ってくる。
ようやくここまできたのだ。
無表情であった男は、みりみりと音が聞こえそうなほど力強く両頬を持ち上げ、顔をくしゃくしゃにする。
壮絶な笑みであった。
*
3年前のことである。
男は移動型の狩猟民族『牙の民』の一人であった。
季節ごとに狩場を変え、時には自分より大きな獲物にすら立ち向かうこともある。命の危険に陥ることも飢えに眠れぬ夜も数え切れぬほど。だが、尊敬する家族、守るべき家族に囲まれた男は、そんな日々に満足していた。
だが、その日々は唐突に終わった。
どこかの国の軍隊が、前触れもなく一族を襲撃したのだ。
いち早く気づいたのは男の父であった。
父は床板を外し、大人一人がようやく入れるような空間に、男を押し込んだ。
男は戦うと言った。救うべきは母や妹だと叫んだ。父は言った。
「残すべきは、牙。お前がいつか、我等の牙を敵に突き立てるのだ」
その言下に放たれた父からのふいの一撃に、男は気絶した。
悲鳴と煙の臭いに男は目を覚ました。
床板の隙間からその顔が見えた。床板の隙間から一族が死ぬ音を聞いていた。
爪で皮膚を削り、飛び出したい衝動を抑えた。
ここで飛び出せば父の行為が無駄になる。
男は血涙を流し、目の前の顔を決して忘れぬと誓った。
全てが終わり、男は床下から這い出る。
外に出た男が見たものは、変わり果てた集落の姿であった。
誰も、一人すらも、女子供でさえも、等しく皆殺されていた。
胸を大きく斬り裂かれた父が立ち、言った。
「報復せよ」
背中を刺し貫かれた母が立ち、言った。
「報復せよ」
辱められ尊厳を失った妹が立ち、言った。
「報復せよ」
自身に宿る憤怒の獣が吼えた。
「報復せよ」
男は為すべきを理解した。
*
ギルバートは縞化粧の男の顔を見て、対話の無駄を悟った。
『牙の民』が持つ魔力吸着塗料。魔力特性自体は弱いものの、特筆すべきは魔力系の探知を全て無効化できる点だ。その技術を得れば、他国との争いで自国は優位に立つことが可能であった。我が国は何度も使者を『牙の民』に出して、自国民としての協力を要請した。しかし、彼等は頑なに従わなかった。
遅々として進まぬ交渉に、王は恐怖し始めた。あの技術を他国に売り渡す気ではなかろうか? あの技術を用いて我に牙を剥くのでは? その怖れがあの虐殺を決定した。他の国に渡すくらいならば、そして、あわよくば。愚かな判断であった。
王を諫めることが出来なかったギルバートは、他の者に任せることができず、自身で指揮を執り、あの夜の襲撃を行った。徹底的に、全てを殺し、全てを奪った。そのつもりであった。
ギルバートはこのことを縞化粧の男に伝え「だから仕方が無かった」などと許しを請うつもりも「だからお前の本当の敵は我が王だ」などと矛先を変えるつもりも、毛頭無かった。
ただ、知らせてやりたかった。こちらが死ぬにしろ、あちらが死ぬにしろ、今伝えねば目の前の男は永遠に一族が滅びた理由を知ることが出来ないからだ。到底納得は出来ぬだろうが、なぜ、どうして、という苦悶の救いにはなる。その救いを与えることが、一族を滅ぼした張本人としての義務だとギルバートは思っていた。
しかし、男はそれを拒絶していた。
殺すか、殺されるか。それ以外の全ては不純物。理由すら、言葉すら、名前すらも。
そう訴える感動的なまでの純粋な殺意。
獲物を前にした獣の笑み。
ならば、かける言葉は一つだけであった。
「……かかってこい!」
*
ギルバートが挑発するよりも早く、男は床を蹴り砕き駆けた。頭を低くし、一直線に向かう。対してギルバートは弓を引くかのようにロングソードの切っ先を男へと突き付けた。その切っ先がゆらりと動く。まだ間合いには早い。気が急いているのか。
「!」
違う。肌が張り詰めるような奇妙な感覚を男は敏感に感じ取る。
「はぁっ!」
まるで見当違いの間合いから放たれるギルバートの突き。だが、男はそれを大袈裟に横っ飛びで躱した。その瞬間、男がいた床の後方が大きく抉れ飛び、木片をまき散らす。
「見抜いたか」
ギルバートは感心したように片眉を上げ、再びロングソードを構えた。
「風魔将と呼ばれる剣の冴え、篤と味わうがいい」
*
花瓶が割れ、地図が千切れ飛び、椅子が砕ける。
間合いの不利を悟ったからか、縞化粧の男は縦横無尽に走り回り、反撃の機を探っているようであった。
しかし、ギルバートは近寄らせない。無慈悲に、淡々と、構え、突く。
対して半裸で転げまわる男は、細かい傷を全身に負っていた。
この戦いはギルバートが圧倒的に優勢である。
間合いもそうだが、ここは相手にとっては敵地のど真ん中。これだけ暴れまわれば、もうすぐ異変に気付いた兵士がここへとなだれ込んでくるであろう。そうなれば相手にはもう為す術がない。つまり、ギルバートは時間を稼ぐだけで勝てるのだ。
だからこそ、彼は油断しなかった。
どこかで必ず仕掛けてくる。その前に潰すが最良。
ギルバートはロングソードの切っ先を、まるで音楽でも指揮するかのように揺らす。
すると、部屋中に飛び散った家具や床の破片が回転しながら男に向かって飛び掛かった。
縞化粧の男は目を見開き、柄に厳重に皮を巻き付けたハチェットを狂乱したかのように振り回し、破片を次々に叩き落していく。それでもいくつかは刃の嵐を掻い潜り、男の体に突き刺さった。
致命的なものは全て叩き伏せたか。素晴らしい身体能力。ただ、それだけだ。
ギルバートはロングソードを真横に振るう。男は飛びのくが、傷で動きが鈍ったか。遂に風の刃がかの太腿を大きく裂いた。
*
傍にあった質素な作業台の影へと転がり込み、男は太腿から溢れる血を無表情で見つめる。
男には分かった。最早この傷では助からぬ、と。
しかし、どうでも良かった。この砦へと乗り込んだ時から……いや、3年前のあの日から、命など捨てているのだ。
男は体に巻いたベルトから小さなナイフを引き抜いた。
*
大きな炸裂音と共に、男が隠れていた質素な作業台が宙に舞った。
これが最後の足掻きか。
ギルバートは見事な髭の中で口角を少し上げた。
上に注意を引いての下からの奇襲。ならば台は一先ず放置し、相手を仕留めた後に叩き落せばいい。
そう算段を整えたギルバートはロングソードを構え、男が物影から飛び出すのを待つ。
だが、出てこない。
作業台が迫る。
この攻撃をふいにする気か?
ギルバートは動揺する。その時、血飛沫が舞うのを彼は目のどこかで捉えた。
それは、迫ってくる作業台から出ていた。
違う。その影。
「ぬおぉぉぉぉ!」
ギルバートは叫び、ロングソードを斬り上げる。
風の刃が飛ぶ。真っ二つになる作業台。体を小さく丸め両腕を眼前で交差させた男が現れる。貫通した刃が男の左腕を斬り飛ばす。しかし、そこまでであった。
*
血塗れの男が、残った手でハチェットを振り上げる。
それを、相手の脳天に向け、渾身の力を込め振り下ろした。
甲高い硬質的な音が部屋中に響く。
ハチェットの刃はロングソードによって受け止められていた。
*
「惜しかったな」
ギルバートは息を吐いた。遠くから兵士達の声と足音が聞こえてくる。
もう目の前の男には何をする力も残ってはいまい。
彼はここまでの奮戦を見せた敵の目を、賛辞をもって見返した。
全身の毛が逆立った。
その目は、無念でも、諦めでも、憎悪でもなく、まるで勝利を収めた者のような
ギルバートは気付いた。
男が持つハチェットの柄の皮が一部めくれていることに。
そこから、文字や奇妙な図形が見えることに。
呪文書。
血判をすることで魂の損耗と引き換えに奇跡を起こす、魔術装置。
柄の皮に裏打ちしていたというのか。
男が、獣の笑みを浮かべる。
次の瞬間、二人の体が巨大な火柱に包まれた。
*
狼は何よりも家族を大事にする。
そして、家族を傷つけるものを決して許さない。
どのような相手だろうと、何年かかろうと、無様に狡猾に無慈悲に喉元へと牙を突き立てる。そのためならば己の死すら厭わない。
正に『憤怒の化身』。しかし、激しい怒りの裏には深い絆がある。
そうした在り方こそ『牙の民』なのだ。
身の内に宿す狼。それに恥じぬ生き様を見せよ。
*
父よ、母よ、妹よ、一族の者よ、そして、狼よ。見ているか。俺は、成した。
【狼よ、見ているか 終わり】




