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インフィニット・ディズ  作者: 笠緒
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第二章 ほんとの自分

 小春日和、という表現が相応しい、どこまでも青が続く空だった。

 紅葉に色づき始めた街路樹が、冷たい風に吹かれカサカサと乾いた音を青に響かせる。(ひとみ)は移り行く季節を視界に捉えながら、さらりと肩口の髪を宙へと靡かせた。

 いつもよりも睡眠時間が少なく、また夜遅くにアルコールを摂取したので、全体的にむくんでいるような気がする。身体のコンディションとしては最悪の一歩手前のような状況だが、それでも彼女の綺麗に塗られた口紅(リップ)は、自然と弧を形どった。

 カツ、カツと、コンクリの歩道へと落とすヒールの音が、心なし軽い。

 昨日、定時直前に舞い込んだ突然の後輩からの残業依頼。

 丁重に断りを入れられるだけのコミュニケーション能力は持っているわけもなく、また日中にどうしてこなしておかなかったのかというお説教が出来る程、彼女たちへの期待もすでになく。頼まれるがまま、腹の内側に黒いものを溜め込みつつも仕事を受けた。

 その結果、どんな運命のいたずらか、気づけば長年話すこともなかった同期とふたり、社内に遅くまで残り仕事をし、それどころか食事までするという予想だにしない展開が待ち受けていたのだが。


(夢落ちって方が、まだ現実味があったなぁ)


 まずそう思ってしまう自分自身が少し悲しい気もするが、でも実際そうとしか思えないのだから、どうしようもない。

 小学校高学年ですでに人との付き合いについて諦めにも似た感情を覚え、大学のゼミでの飲み会すら参加したことがなかった自分が、まさか男性と――しかもうっすらと淡い想いを抱いていた相手との食事。

 これを夢と思わずになにを思えというのか。

 朝起きた瞬間、昨夜の出来事は全て自分に都合のいい夢だったと結論づけたが、全身を塗り潰そうとする軽い疲労感と、僅かな頭痛。そして何より帰宅後すぐに消臭剤をかけたにも関わらず、トレンチコートに残るほのかな煙草や食べ物――居酒屋のにおいが、そんな思考を次々に否定していく。

 店内の橙色の照明や、店を出た後に頬を撫ぜた風の冷たさだとか。地下鉄への階段を下り、反対ホームへ向かう彼の背へと睫毛の先をずっと向けていたことだとか。時間が経つほどに鮮明になっていく昨夜の記憶に、心中で何度も大絶叫を繰り返しながら、それでも会社の最寄り駅についた頃には現実のものであるという認識に傾いていた。


(いやでも本当……青天の霹靂だった……)


 否。

 この小春日和の澄み渡る空に、突如として雷が発生したとしてもまだそちらの方が納得できる。それほどに、瞳にとっては「あり得ない」が重なり続けた日だった。

 けれど、そんな信じられない状況だったにも関わらず、記憶に滲む感情は決して居心地悪いものではなく、知らず頬の位置も高くなる。


(もし、社内で今日会ったら)


 どんな表情(かお)で、それを受け止めればいいのだろう。

 流石にいままでのように「お疲れ様です」と挨拶するのは、他人行儀すぎる気がする。けれど、だからと言って社内によくいるオンナノコのように、一気に彼と距離を詰めて関わり合うのは性格的にどう考えても無理だ。


(まぁあのチャラ男のことだし、深い意味がないことくらいわかってるけど)


 それでも、帰り際に反対側のホームで口角を持ち上げぴらぴらと手を振っていたことだとか。


  ――つか、早川さん話しててめっちゃ面白いよ?


 そう、言ってくれていたことだとか。

 高いところから低いところへ、低いところから再び高いところへ。

 昨夜の記憶をなぞる程に、気持ちが上がったり下がったりを繰り返す。


(って、ほんといい加減切り替えないと……!)


 視界の先に自社ビルを捉えると、近くを歩く人影にもいくつか見慣れた顔を見つけ始めた。瞳は、恐らくまぁ(おもて)には出ていなかっただろう感情を、それでも一旦オフにして、透明のガラス扉を押し開けて、ヒールの音をエントランスへと響かせる。

 エレベーター内にいる見知った人々に形ばかりの「おはようございます」を口にしながら乗り込むと、いまこの中にいる人物のものか、はたまた少し前に乗っていた人の残り香か。ふわりと鼻腔を、濃厚でパウダリーな甘いにおいが擽った。

 季節が冬に近づいてきたせいか、社内でもこうした重めのにおいを纏う社員が増えてきた。


(そう言えば……葛原くんって季節問わず、あの香水使ってる気がする)


 あれほど他者への気遣いがさりげなく出来る人物だ。恐らく無精というよりも、拘りなのだと思う。

 意外と気に入ったものを長く愛用するタチなのかもしれない。

 昨日初めて彼の仕事をしている姿というのを見たが、日頃のチャラそうな態度からは想像つかない程PCに向かう姿は静かだった。そもそも小さな微修正を繰り返しバグを探し出す職種であるSEなのだから、根が真面目でなければ出来ない仕事でもあるのだろう。

 瞳はボタン上の表示が「5F」と示されると同時に、軽く会釈をして開いた扉の向こう側へと一歩踏み出す。すれ違う営業部の何人かに「おはようございます」を繰り返し、パーテーションの向こうに広がる商品企画部へと足を踏み入れた、その瞬間。


「?」


 日頃とはなんとなく違った空気に、瞳はタイルカーペットの青へと向けていた睫毛をス、と上に持ち上げた。

 そこには、珍しくすでに出社していた三船真彩(みふねまあや)を気遣わしげに囲むように数人の後輩の姿があった。瞳の出社に気づいたのか、真彩の肩へと手を回していたひとりがキッ、と横目に彼女へと視線を刺してくる。


「お、はよう……ございま、す?」


 日頃、影で嘲笑されたり、時には面と向かって小馬鹿にしたような発言をしてくる後輩だが、流石に瞳を先輩社員だという心得はあったのだろう。ここまでの敵意を、隠すことなくあからさまに向けてくることは恐らく記憶にある限りは初めてだ。

 瞳は肩にかけたバッグをデスクの上へと置き、自身のPCを起動させながら、ヒソヒソとなにかを囁き合う後輩たちへ視線を這わす。どうやらなにかがあったことだけは確実のようだが、こういう時真っ先に瞳に突っかかってきていた真彩が、今日は自身のデスクの前で俯いたままだった。

 その横顔には、いつも口許に明るく花を咲かせている彼女の面影はない。綺麗に口紅(リップ)が塗られていただろう唇を、耐えるように噛み締めている。


「……あの……。なに、か?」


 正直、この手の「察してほしいモード」が瞳が何よりも苦手な後輩たちの態度だ。彼女たちの地雷がどこに潜んでいるかもいまいちよくわからないので、このまま放置したいところだが、このままでは確実に十五分後の業務に支障をきたすことになるだろう。そもそもなにか報告があるのならばあちらから言ってくるのが筋だとは思うものの、一応自分が先輩という立場だ。

 瞳が椅子をくるりと回し、彼女たちへと真っすぐに睫毛を向けると、真彩を囲んでいた内のひとりがパンプスのつま先をこちらへと一歩寄越した。


早川(はやかわ)さん、昨日残業してデータ入力してましたよね?」


 日頃聞く彼女の声よりも、硬く尖った声が投げかけられる。

 確かにその通りだが、そもそもそれらは彼女たちが自分に押し付けたものではないか。瞳の眉が軽く顰められ、感情に乏しいその(おもて)が一層色をなくした。


「はぁ……まぁ……」

「真彩の……三船さんのデータ、今朝来たら消えてたんですけど」

「……はい?」

「だから、三船さんの担当ブランドメーカーの入力データが消えてたんです!」

「え、消えた……って」


 ちょっと待って、と椅子を元に戻すとID入力画面で待機していたPCへと自身のそれを急ぎ入力し、PCが完全に立ち上がったことを確かめるといま開発段階である新しいマスター画面を開く。

 確かに昨夜入力していたのは、真彩担当ブランドメーカーの商品データだった。

 けれど、途中で一度フリーズはしたものの、葛原に復旧してもらったし、その後データがきちんと生きていたことも確認済みだ。


  ――システム部の俺が何のためにいると思ってんの。ログから今のデータ全部、掘り起こすなんて朝飯前なんだけどー?


 不意に、昨夜の葛原の言葉を思い出し、胸の内側がふわっと熱気に包まれた。


(って、バカバカ。いま、それどころじゃないってば!)


 瞳はふわふわと心の表面へと浮かび上がろうとする想いを排除するかのように、一度肩で思い切り息をする。そして、ス、とマウスに手をやると、カーソルを合わせ入力した日時順にデータを並べ直した。

 砂時計と共にカリカリ、とハードを読み込む音がもどかしい。

 丸く切られた爪先でコツ、コツ、とマウスを叩いていると、画面にデータ一覧が表示された。


「……こ、れ……」


 瞳は思わず零れた声をしまい込むように、自身の唇へと思わず手のひらを当てる。

 PCの液晶に現れた一覧には、確かに昨日定時後に入力したデータがほとんど含まれていなかった。瞳はキーボードへと指を這わせ、キーワードで検索していくがそれでも昨夜のものは全てヒットしない。


「え……なん、で……」

「そんなのこっちが訊きたいですよ。なんで三船さんのデータが消えてるんですか」

「いや……でもそんなこと、言われても」

「っていうか。早川さん、いつも真彩に対して不満そうにしてますよね?」

「別に……、不満ってわけじゃ……」

「嘘。いっつもなにか言いたそうにしてるじゃないですか。……あんまり言いたくないけど、もしかして……」


 思わず疑問を口にした瞳へと、堰を切ったように真彩の周囲にいた数人が一斉に瞳へと言葉を投げつけてきた。日頃から好意的な態度はとられていなかったと思うが、ここまではっきりとした悪意を感じたのは初めてだった。

 部署内にいるほかの人間もびっくりしたように作業を止め、彼女たちと瞳へと順に視線を流している。人から注目されること自体、あまり得意ではない瞳は、そのいくつもの視線をどう受け止めればわからず頬を一層強張らせた。


(これは)


 明らかに、自分が消したのだと疑われているのだろう。

 彼女たちにしても、瞳からよく思われていないという自覚はあるのだろうし、それ故に嫌がらせを受けたのだと判断したのだろう。

 けれど。


「私が、消したって……ことですか?」

「っていうか……でもそれ以外に考えられないし」

「ねー……」

「でも……だって、そのデータ入力は……」


 誰のために昨日自分が遅くまで残業してデータ入力したと思っているのか。

 そんな苦労をしてまでやり遂げたものを、ミスならともかくとしてわざわざ嫌がらせの為に消すわけがない。

 震えそうになる声になんとか芯を持たせ返せば、面白くなさそうにぷい、と視線を外される。


「でも、真彩が日中に入力した分も消えてたんですよ。昨日の仕事ぜーんぶ!」

「ね、そうだよね? 真彩」

「……う、うん……」


 常ならば彼女たちの中心人物としての発言が多い真彩が、今日は珍しく視線を瞳へと合わせてこない。どうやら彼女が日中入力していたデータごと消えたというのは本当のことのようで、よほどショックが大きいらしい。

 いつも手入れを欠かさないらしいツヤツヤとした綺麗な肌が、今日はどこか青ざめているように見えた。


(って、ショックっていうなら私だってそうなんですけど!? わざわざ夜遅くまで残業して入力したの無駄になるとか……っ!)


 はぁ、と、瞳が苛立ちを逃すように大きなため息を吐くと、真彩の細い肩がビクッと揺れる。それに気づいた取り巻きたちは口々に「可哀想」だの「ひどい」だの身勝手な慰めを口にした。

 これ以上は恐らく話し合っても平行線だ。

 なんせ証拠がないのだから。


「とりあえず、あの……このことは、部長に」

「早川さん」


 瞳がとりあえず一度話を切り上げようと、彼女たちから視線を断ち切り、再びPCの画面へと睫毛の先を向けようとした瞬間、瞳の語尾にかぶせるように鋭く名が呼ばれた。


「システム部に一緒に来てもらえません?」


 真彩を囲んでいる内のひとり――彼女の同期である田沼美咲(たぬまみさき)だ――が、彼女から離れ、瞳へと近づいてくる。椅子に座ったままの瞳は完全に彼女を見上げる形となり、元々派手なメイクのせいか胸中の苛立ちをそのまま(おもて)に出され凄まれると、とっさには言葉が紡げない。


「システム部に行けば、誰が犯人かわかると思うんで」

「ちょ……、みーちゃん!?」


 瞳が反応する前に、俯いたままだった真彩がハッ、と顔を持ち上げ、彼女の名を呼んだ。商品企画部内のみの話ではなく他部署にまでトラブルが伝わるのは、正直真彩が渦中の人物であったにせよ本意ではないだろう。

 けれど完全に瞳への敵愾心のみが募っているらしい眼前の後輩には、その声に宿る諫めの色が届かないらしい。


「始業前に、決着つけたいんで」


 急いでもらっていいですか?

 硬い声でそう問われれば、人々の視線が集中する中で瞳には是と答える以外の術はなかった。




**********




 ウィィ……ィン、とパソコンのファンが回る音が、静かな室内に響く。

 部屋の中に多数あるPCの大半がすでに起動しており、そろそろ乾燥が気になる季節において、機器からの熱気がそれに拍車をかけている気がする。頬の辺りが僅かな軋みを訴え、表情が普段にも増して動かしづらい。


(まぁ、実際そんなことが理由じゃないけど……)


 置かれている状況が状況なだけに、僅かなりとでも現実逃避がしたくなる。

 瞳は、眼前で椅子に座したまま報告を受ける女性を、前髪の奥からちらりと伺い見る。年のころ三十をいくつか過ぎた程。背まである髪を巻いているせいでボリュームをかなり感じるものの、それに一切の重さを感じさせないのは彼女が女性にしたらかなりの長身を誇るからだろう。

 けれど威圧感があるかというとそういうわけではなく、グレイのパンツスーツの裾から出る手首や足首の細さが、彼女が華奢であることを雄弁に物語っている。伏し目がちに報告を受けているその(おもて)は、しっかりとメイクがされている印象を与えてくるのにも関わらず、不思議と濃さを感じさせない。


(多分、スッピンも美人なんだろうなぁ)


 思わず状況も忘れて見惚れてしまうのは、現実逃避だけが理由ではない。

 本当に、綺麗なのだ。

 華美ではあるものの、決して派手ではない。

 その絶妙なバランスが、社内の女子から称賛を集めており、また下の者たちの面倒見もよく様々な相談事を引き受けているらしい。実際、業務外で話したことなどないが、瞳にとっても彼女――辻本静香(つじもとしずか)は密かな憧れの先輩でもあった。


「……そう。状況は、わかりました」


 辻本は商品企画部からの突然の訪問に、当初はやや驚いた表情をしたものの、その後は冷静に話を聞いてくれていた。もっとも、状況を説明したのは瞳の後輩である田沼(たぬま)のみであり、悪意に満ちているとしか思えない一方からの証言であったのだが。

 理性的で常に誰に対しても平等に扱うと噂の彼女が、一方からの話だけで判断するとは思えないが、それでも今後輩たちの前で自分の伝えたいことを全て伝えられる自信は、瞳にはなかった。ここで上役にうまく言えるくらいならば、きっと先ほど商品企画部で申し開きが出来ていたはずだ。


(辻本リーダーは)


 どうジャッジするのだろう。

 瞳は知らず、恐怖にも似た緊張でぎゅっと強張らせていた肩から軽く力を抜くと、カラカラに乾いている喉へとほとんど水気を帯びない空気を飲み込んだ。

 機器の熱気で寒いわけもないのに、スカートから生えた膝小僧がカタカタと小刻みに震える。

 自分に非はない。

 辻本に話が通った以上、自分ばかりが責められるような事態にはならないということはわかっている。それだけの信頼が、システム部のリーダーである辻本にはある。

 けれど、それでもこうして自分が騒動の矢面に立たされるというのは、何よりも先に恐怖が先に顔を出してくる。


「田沼さん」


 辻本の落ち着いた声が、目の前に立つ後輩の名を呼んだ。


「残念だけど、ログ解析をしてデータを消した人間が誰であるか調べることは、出来ないわ」


 女にしては低めの、けれど耳障りがよく聞き取りやすいトーンの声音で辻本は田沼の言い分をシャットアウトした。室内にいる誰もがその答えに息を飲んだ後、信じられないというように田沼が「なんで……」と呟く。

 田沼の依頼とは、システム部で新システムのログ解析をして、データを削除したIDを公開、もしくはその削除時間を調べてほしいというものだった。

 昨夜、葛原が瞳の前でそれを行い、データを復旧させてくれたのを知っているので、可能かどうかということで言うならば恐らく可能なのだろう。瞳にしても、削除したのが自分ではない以上そうしてくれた方がありがたい立場でもあった。

 けれど。


「ログ解析は、可能かどうかで言うならば、恐らく可能です。けれど、データの消去なんてシステム上どうしても起きてしまうエラーなわけだし、システム部はそんな犯人探しの為にあるわけではありません」

「でも……っ!」

「それに、その後PCが起動しないだとか不具合が生じているのならばともかくとして、データの消去くらいのことでログを攫っていたら、こちらの業務に差支えが生じます。よって、システム部としてその依頼は受理することができません」


 確かに、日常的なPCのエラーとして起こりうるのが「突然のシャットダウン」だろう。入社して五年。瞳もそれなりに、PCの不具合からの強制終了は経験してきている。

 その都度、保存されていないデータに軽い絶望を味わったものだ。

 でもつまるところ、それほどによくある話であり、それ故に「こまめにデータは保存しましょう」という話になるのだろう。そもそも社内中でそんな依頼を毎度毎度システム部にしていたら、彼らの本来の業務に差しさわりが出てしまうというのは簡単に予測がつくことであり、辻本が断るのも当然といえた。


(……じゃあ昨日のって……)


 葛原がやったことは、本来はシステム部としてルール違反なのかもしれない。

 彼だってそのことはよくわかっていただろうに、それでもあの場に残されていたのがふたりだけだったからか、それとも彼としても早く帰りたいという理由からか。


(どっちかっていうと、確実に、後者が理由っぽいけど……)


 それでも、助けの手を差し伸べてくれた。

 瞳が仕事を終えるまで、付き合ってくれたのだ。


(イイヤツ……なんだよね、葛原くんは)


 チャラいけど。

 ものすごくチャラいけれど。

 でも、人から慕われるだけの理由が、彼の中には確かにあるのだ。


(って、それはいまどうでもよくて)


 どうしても、向かってしまう彼への思考を慌てて打ち消そうとするが、ふ、と見回した室内に相変わらず彼の姿がないことを思い出す。いつもさほど早い出社ではないものの、業務開始時刻まであと二分。

 流石にこの時間まで出社していない社員の方が珍しい。

 彼はいつ来るのだろうかと、瞳がそっと背後を伺おうと室内へと視線を流しながら振り返ろうとしたその時、「早川(はやかわ)さん」と辻本より声がかけられた。瞳は、「あ、はい」と返事をし、再び正面の女性へと睫毛を向ける。


「あなたからは、何か報告はありますか? ないのなら、申し訳ないけれど消えてしまったデータは再度商品企画部で入力してもらいたいのだけれど」

「あ、はい。了解しました。特に、私からは、ありません」

「あはっ。そりゃないですよねぇ。むしろ、自分のミスがバレずに済んだんだからほっとしているんじゃないですか」


 瞳より二、三歩ほど前に立つ田沼が肩越しに振り返り、鋭い視線と共に毒のある言の葉を投げかけてくる。正直、真彩ならともかくとして彼女からこれほどまでに敵意を向けられる理由がよくわからない。

 自分が入力したデータでもないというのに、それが消えてしまったことがそんなに悔しいのだろうか。一瞬、真彩への友情のためかとも思ったが、当の本人はこの場におらず彼女ばかりが先走っているような印象をどうしても感じてしまう。


「田沼さん」


 辻本が流石に眉根を顰め、硬い声で呼ぶ。

 けれど、どうにも感情のコントロールが出来ないらしく、田沼は辻本へと向けていた身体を一歩引き半身させると、たっぷりとマスカラの塗られた睫毛を瞳へと刺してくる。


「昨日残業してたとか言ってましたけど、本当に早川さんデータ入力したんですか?」

「……え? それって……どう、いう?」

「仕事したフリだけして、真彩のデータ消してたんじゃないですか?」

「データは、私も……入力、」

「本当ですか? 証拠は? あぁ、システム部に今日もかばってもらいましたもんねぇ~? そもそも昨日だって――」


「うっは、ヤベっ。ギリギリセーッフッ!!」


 田沼が声を荒げようと眉尻を吊り上げたその瞬間、室内に突然、荒い息と共に吐き出された声が響いた。

 室内にいたほぼ全員がビクッと身体を一瞬揺らし、一斉に視線を声の方向へと流す。そこには頭を垂らし、肩で息をするスーツ姿の男の姿。汗をかいたせいだろうか。ふわ、と室内にマリンのにおいが立ち込める。

 そしてその体勢のまま、彼の黒の革靴がタイルカーペットを雑に踏み抜くと同時に、のどかな始業のチャイムが建物内に鳴り響いた。


「…………葛原くん」

「あー、超あっちぃ。あー、つっかれた……。って、あ、おはよーございます、辻本リーダー。いまの、アウトです?」

「……いいえ。遅刻ではないけれど」


 でもギリギリよ。

 ため息混じりの声で葛原へと返事をすると、辻本が視線を意味ありげに彼から瞳、そして田沼へと移していく。葛原はそれを追うように、やや上目遣いで黒髪の奥から瞳たちへと意識を這わせた。

 日頃は整髪料でそれなりにセットされている黒髪が、今日はいまだやや濡れており、ただでさえ幼い表情を一層際立たせている。昨日帰宅が遅かったせいで、寝坊し慌ててシャワーでも浴びて来たのだろうか。


「あっれ? なんかあった?」


 二度、三度、睫毛を上下させながら、黒目がちの双眸を丸くする。

 基本的に他部署の人間が入ることが禁じられているシステム部に、商品企画部の人間がふたりもいるのだから彼が驚くのも無理はない。しかも、お世辞にも和やかな雰囲気とは言い難い、尖ったままの空気がいまだに続いているのだから。

 問うような葛原の視線に、何と答えていいかわからず瞳は視線をタイルカーペットへと落とす。見慣れた商品企画部のものとは違う色に、妙に気持ちの表面が毛羽立った。

 沈黙は、恐らく数字にしたら数秒だろう。

 けれど室内で回るファンの音が、鼓膜にうるさい。


「えぇ、ちょっと……。でも、もう解決済みよ」


 ここで細かい説明もどうかと思ったのか、辻本が話を切り上げるように断言すると、田沼が綺麗な色の刷かれた唇を力任せに噛みしめる姿が視界の端に映る。そしてその険しい表情のままに、鋭い視線を瞳へと刺してきた。


「自分がしたミスで後輩のこと苦しめて……それで早川さん満足ですか?」

「……っ、それは、」

「真彩、可哀想……。データ百件も消されたなんて。しかもセンパイに」

「…………」

「辻本リーダー、お時間頂いてありがとうございました。葛原さんも、失礼します」


 田沼は瞳への視線を断ち切ると、そのまま瞳の脇を通り抜け、さらりと髪を靡かせながらシステム部を後にする。ふわ、と甘いかおりが鼻腔を擽るが、その場の空気が柔らかなものに染まることはなく、廊下に出た彼女のヒールがカツ、と冷たい音を立てた。


  ――早川さん話しててめっちゃ面白いよ?


 昨日、そう言って笑っていた葛原の声が脳裏で蘇る。


(うそ)


 そんなの、嘘だ。


(だって私は)


 後輩から仕事を押し付けられた挙句、ミスの責任まで負わされてなお、それを自分で否定することさえ満足に出来ないのだから。

 彼女の背を見送っていたらしい葛原の視線が、再び瞳に戻ってきたのを感じたが、それでも彼とは視線を合わせることが出来なかった。

 昨日の楽しかった時間が嘘のように、惨めだ。

 社内で軽んじられているのは知っている。

 後輩から、小馬鹿にされているのも知っている。

 けれど。


(葛原くんには、こんな姿……見せたくなかった)


 話していると楽しいと言ってくれた、彼にだけは。

 瞳は視線を落としたまま、「私も失礼します」と口の中で呟くと、システム部を後にするため歩をタイルカーペットへと転がした。

 葛原の隣をすり抜けるその瞬間、ふわっと香ったマリンのにおいに、心を満たす想いが溢れ出て泣きたくなった。

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