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インフィニット・ディズ  作者: 笠緒
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第一章 想いのリフレイン3

 青天の霹靂、という故事成語がある。

 読んで字の如く、晴れた日に突然起こる雷鳴のことで、とどのつまり予期せぬ突発的な事件が起こることをいうのだが、まさにいまこの状況はそれを示しているのだろうと(ひとみ)は目の前に座る同期の男へ、ちらり、睫毛を向けた。

 テーブルの上には、数種類の刺身が盛られたスクエア型の皿に、すでに当初とは形を変え崩れているボウルの中の数種類の野菜たち、綺麗に巻かれただし巻き卵が並べられている。向かい合う互いの前には、半分ほどに量を減らした琥珀色の液体がジョッキに注がれ置かれており、胃の腑を刺激してくるにおいに混じって、ツンとした煙草のにおいが鼻を衝いた。

 天井には提灯 (ぼんぼり)形の和モダンをイメージしたペンダントライトが、橙色の優しい光を滲ませている。ガヤガヤとした雰囲気はあるものの、耳に不快感がこびり付くほどの喧噪ではないのは、薄い布一枚とはいえ暖簾で仕切られている半個室だからだろうか。

 都内によくありがちな、和をモチーフとした創作系居酒屋だ。


(なんで……こんなことに、なったんだっけ……)


 後輩数人から無理やり仕事を押し付けられ残業していたら、気づけば数年ぶりに声を交わすことになった同期とかなり遅めの夕食を居酒屋で共にしている。

 状況としては、もしかしたら社会人として儘ある話なのかもしれない。

 けれど、早川瞳(はやかわひとみ)としては、あり得ないと断言してもいいほどに、予想外な展開だった。

 これを青天の霹靂といわずして、何をいうのか。

 お天気お姉さんだって、気象予報士のおじさんだって、瞳の頭上にのみ現れたこんな天候、予測できないに違いない。


「なんかさー、俺、さっきからすっげー睨まれてない?」


 白身魚をさ、っと箸で掬い取りながら、葛原(くずはら)は笑いを孕ませた声を瞳へと向けてくる。先ほど、これ以上はないというくらい美味そうにジョッキに口吻(くちづ)けていた口元が、面白そうに歪んでいた。

 瞳は持て余すように宙にぷらりと浮かんだままだった箸の先を、取り皿の上へと置く。カチャ、と陶器の涼やかな音がふたりの空間に妙に響いた。


「別に……睨んでないです」


 気づけば彼へと縫い止めていたままだった双眸を裁ち、汗を掻いているジョッキへと手を伸ばす。緊張からか、思った以上に声が乾いていた。瞳は、ぷくぷくと気泡を作る琥珀色の液体を軽く煽り、喉を苦みで湿らせる。

 胸の奥に形作ろうとしている甘いものが言の葉に含みを持たせないように、苦いくらいがちょうどいい。

 瞳は、先ほどペーパーで落とした口紅(リップ)の代わりとでもいうようにビールを唇へと馴染ませると、テーブルに輪を作る水滴の跡を覆うように再びジョッキを静かに置く。


「ただ、大丈夫なのかなって」

「大丈夫、ってなにが?」


 醤油皿にチョン、と浸された白身の刺身が、褐色にじわりと薄い脂を浮かせた。葛原は醤油が垂れないようにか、軽く身を屈めながら口を持ち上げた箸へと近づけ、上目遣いに瞳へと視線を寄越してくる。

 元より童顔気味なその(おもて)に、一層幼さが重なり、本当に犬っころのようだ。


「……合コン、行く約束になってたんじゃないですか」

「あぁ、それ? いや、断りの連絡はとっくにしてるし、別にヘーキっしょ」

「そういうもの、なんですか?」

「別に合コンっつっても男女の人数揃えたガチめなやつでもないし? ふっつーの会社の飲み会だしねぇ。俺ひとりくらいいなくても、べっつに誰も困んないよ」


 葛原はなんでもないことのように流すが、日頃より葛原目当てとしか思えない連絡をシステム部へと入れていた真彩(まあや)たちが、彼が来ないということに何の感情も抱かないとも思えなかった。

 勿論仕事で、というのならば、流石に彼女も納得せざるを得ないのだろうが、こうして自分たちの約束を反故にして他の女と食事をしていると知ったら、面白くないと思われるに違いないだろう。


(それとも、そういう……なんか、ゆる~い関係で、あんまり気にする必要ない?)


 まぁ自分で思いつつもその「ゆる~い関係」というものが具体的にどういったものなのかはわからないのだが。

 社外はどうか知らないが、社内の女子社員に対して葛原が特に比重を置く相手というのは今まで見かけたことはない。会社の飲み会、なんてものに誘われたこともなく、彼らの距離感がいまいち掴めないので、彼がそういうのならば特に瞳が気にするものでもないのかもしれない。


「まぁ……だったら、いいんですケド」

「俺のことよりさー、早川さんの方が大丈夫なの?」

「え?」

「こんな時間に俺なんかとメシなんて食っててさ、彼氏が知ったら怒っちゃわない?」


 取り皿の上にあるだし巻きを箸の先で割く葛原に、瞳は一度大きく睫毛を上下させた。一瞬、彼の言の葉の意味するところがわからずに、ぼんやりとそれを見送ってしまいそうになるのを何とか捕まえ脳内に叩き込む。


「は……? か、かれし??」

「うん。あ、もしかしてそーゆーの、あんま怒んない人?」


 口の中へと黄色を放り込む彼の(おもて)に、揶揄うような感情は見えない。「早川さんはなに飲むー? ビールでいーい?」と訊いてきたときと同じ表情だ。ただ思ったことをそのまま口にしているだけということがありありとわかる、そんな表情。


(え、っていうか……)


 何故、彼氏がいるという前提で話をされているのだろう。

 そんな素振りを社内で見せたこともなく、それどころか同じ部署内の後輩からは「地味過ぎてモテなさそう」だと陰口を叩かれていることも知っている。そして自分が華やかな風貌でないことは、痛いほど自覚している。

 あれほど日頃、社内の明るい雰囲気の女子社員に囲まれている彼から見ても、自分はきっと垢ぬけない女に見えているだろうに、何故そんなことを言うのだろう。


(もしかして)


 ――いや、それはない。

 脳裏に思わず浮かんだ勘違いの種が芽吹くその前に、北風を孕んだ思考が否定を口にする。


(このチャラ男が、私に彼氏いるかどうかを気にするわけ……ないじゃない)


 それを伺うためにカマをかけようとしている、なんて自分にとって都合のいい展開すぎるだろう。

 瞳は、それでもまだその希望を捨てようとしない思考を悟られないように、眉根をやや寄せながら、やや固い声を唇へと乗せる。


「いや……あの。私、彼氏とかいないです、けど」

「へ? あー、そうなの?」


 緊張から、語尾を僅かに震わせる瞳に対し、葛原の返答は軽いものだった。ほらね、やっぱり期待なんてしなくて正解だった。流石に自分の勘違いに顔が熱を持ちそうになるが、自分の中だけで処理出来たのだから、それで良しとしよう。

 瞳は火照りを鎮めようと、ジョッキを煽り喉へと苦みを流し込んでいく。


「いやでも意外」

「?」

「早川さん美人なのに、彼氏いないんだー? ってさ」

「ぐ……っ!?」


 葛原へと軽く視線だけで答えていた瞳は、続けられた彼の言葉に思わず口内のビールを噴き出しそうになり、慌てて唇へと手を伸ばす。ツンとした痛みが鼻を走るが、なんとか最悪の事態は免れたようで、無理やり液体を嚥下した。


「ぶっは! 大丈夫?」

「っほ、けほ……っ、けほっ、だい、じょうぶ……です……」

「ははは、案外ドジっこだよねー」

「いやだって、急にそんなこと言われたら、びっくりするに決まってるじゃないですか」


 鼻の痛みから、涙目になるのを堪えつつスン、と一度鼻を鳴らす。瞳へと視線を向けたまま、三日月の口でビールを煽る葛原が、軽く驚きの表情を見せた。しかしなにかに納得したのか、「そうだよなぁ」と琥珀色の液体と共に疑惑を飲み干していく。


「早川さんのこと実際に口説こうとする男って、美人とか外見のことあんま言わなそうだよねぇ」

「口説くって……」

「なんつーの? 外見で判断するなんてサイテー! とか言われそうじゃん?」


 実際、外見のことばかりを口に出されても返答に困るとは思うが。


「そもそも、口説いてくるような人いませんから」

「まったまたー。いまは彼氏いないかもしんないけど……あー、っと三年? 前か? そんくらいにはいたろー?」

「は? さんねん?」


 三年だろうと五年だろうと、恋人なんて過去にいたことはない。

 なんせ、いま目の前で呑気に刺身へと手を伸ばそうとしている人物に、幻滅しつつも片想いを継続させたままだったのだから。

 それに、三年前といえば――。


「入社したころさぁ、早川さん髪染めてなかったじゃん? あれはあれで似合ってたけどさ、三年くらい前だっけ? 久々に見かけたら、おー、茶髪になったなーって思ったんだよねぇ」


 その変化を、どうやら恋人が出来たのだと思ったという。


「髪の色だけじゃなくってさ、全体的に? あ、そうそう。ずーっとスーツだったけど、私服になったのもその頃だっけ? 髪の色も軽くなったしさ、全体的にちょっと柔らかくなったなーとか思ってた気ぃする」


 流石チャラ男。

 入社して以来、特に親しくもなかった同期のチェックまでしっかりしていたらしい。

 彼としては特別ななにかがあっての行動ではないだろうが、それでもその目に留まっていた時間が過去の自分にあったのだと思うと、ビールの苦みで濁したはずの甘さが再び胸の内側で爪を立てる。

 むずむずと唇が三日月を作ろうとするのを抑えながら、それでも「三年前」というワードに少し心が凪いだ。


「確かに、三年くらい前に髪とか染めましたけど……。でも、その……、別に、彼氏が出来たわけじゃないです」

「あ、そうなん?」

「実家出て、ひとり暮らし始めたのがその頃だったので……」


 脳裏に浮かぶのは、実家を出る際の母の口元。


  ――ふしだらな娘だね。


 何故かその(おもて)はよく思い出せない。

 いつのころからだろうか。彼女の「顔色」は窺っていたがその「顔」をしっかりと見ようとしなくなったのは。


「早川さん?」

「え、あ……すいません」


 急に押し黙った彼女へと、語尾を持ち上げた葛原の声がかけられる。男性にしてはやや高い声に、過去に染まった思考が一瞬で押し戻され、睫毛の先が一瞬で色づいた。

 ガヤガヤとした喧噪が再び鼓膜へと響き、橙色のライトの下で葛原の派手なネクタイを止めるピンが光を弾く。


「ぶはっ、なんで謝んのよ。ってか、実家って遠いの?」

「あ……えと、埼玉です」

「あー、場所にもよるけど通勤結構かかるよなぁ」

「ドアトゥードアで一時間くらい? だった、かな……」

「それで就職してある程度、金貯めて引っ越したってわけねー」


 状況としてはまさにその通りだが、理由は通勤時間ではない。

 けれど、それを彼に告げるには瞳の内面を抉り取るような覚悟が必要だ。なにより、そんな重い話を持ち出そうものなら、この場が沈黙に支配されるような原因になりかねない。

 瞳は、曖昧に唇を歪ませながら、取り皿に残されていたトマトを口へと含んだ。レモン風味のドレッシングだったこともあり、甘さよりも酸っぱさが勝る口内は、まさにいま自分を取り巻く状況と全く同じだと彼女は内心苦笑する。


「……あの。葛原くんは、実家……どこなんですか?」

「俺ぇ? 実家は茨城。大学は都内で、通学めっちゃ大変だから、その頃から都内で独り暮らししてたよ」

「あー」


 なるほど。絵に描いたような、チャラ男なキャンパスライフを送ってそうだ。


「なにその『あー』って」

「いえ……明け方まで友達と部屋で飲んでたり、オンナノコ連れ込んだりする生活してそうだなって思っただけです」

「ちょっ、なにそれ!? 早川さんの中で俺、そんなイメージなん!?」


 葛原の眉がピンと持ち上がるが、頬の位置は高く、言外に不本意だと主張する声は思ってた以上に明るい。これは、もう少しくだけても大丈夫、なのだろうか。踏み込んでいいかどうかの判断が出来るほど、人間付き合いはうまくはないが――。


「葛原くんの学生時代はなんていうか……耳にいっぱいじゃらじゃらピアスつけて、髪の毛金髪にしてダボダボの服着て歩いてそうだな、って……」


 チラ、と窺うように睫毛を向けると、「ぶはっ」と彼から笑いが弾けた。


「なにそれ? ヤンキー? いや実家の方いっぱいたよ? いたけどさぁ、俺違うかんね!?」

「あー、私の実家の方にもいましたよ。バイクのマフラー、イジってるような人とか」

「ハイハイ。夜中ブンブンうっせーやつね。関東っつってもさぁ、田舎だし未だにそういう天然記念物モノのヤンキーっているよなぁ」

「あれ、都内で独り暮らしするようになってから全然お目にかからなくなったんですけど、東京じゃ生息していないんですかね……」

「ぶっは! 確かに!」


 自然と会話が転がる程に、箸が進み、皿の中が減っていく。時間も時間だし軽く、なんていっていたのが嘘のように、気づけば料理も酒も当初の予定以上のものが消費されていった。


(どうしよう)


 楽しい。

 笑いで頬が痛くなるのなんて初めてだ。

 こんな風に人と接したのは、小学校以来な気がする。


(どうしよう)


 ドキドキしっぱなしだ。

 先ほどからビールを幾度も喉へと流し込んでいるのに、苦みどころか砂糖のような想いばかりが育っていく気がする。

 冷静に考えれば、きっと人付き合いが下手な自分にとって彼との関わりは初めて見たものを親だと思いついていく雛鳥にも似た児戯にも等しい感情なのかもしれない。


(でも)


 どうしよう。

 オンナノコ大好きなチャラ男だとわかっているのに。

 好きになるだけ、きっとつらい人だとわかっているのに。


「つーか、話逸れたけど、べっつに俺、ヤンキーとかじゃないかんね?」

「ヤンキーだとは思ってないです。ただ……」

「ただ?」

「チャラいな……って」

「ぶっは! チャラい! あはははは、よくいわれるわー」

「でしょう? フットサルとかしてそう……」

「ッッ!!」


 ビールを含みながら横目で瞳へと答えていた葛原の表情が、一瞬で崩れた。ブッ、と噴き出そうとする笑いを必死でこらえる様に、歯を噛み締めているようだ。上着を脱いだ白シャツが、ぷるぷると小刻みに震えている。


「フ、フットサルへの偏見すっげぇ!」

「え、だってなんかチャラチャラしてる人、多くないです?」

「ぶっっ!! ちょ、もうダメ……っ、あはははっ、ははははは! あー、くそ。鼻も痛いけど腹筋もいってぇ」

「私は笑いすぎて顔痛いです……。笑うと顔、痛くなるんですね」

「はは、早川さんクールビューティーだもんね」


 お世辞にお世辞を重ねて分厚いミルフィールにすれば、もしかしたらそんな素敵な単語になるのかもしれないが、残念ながら自分はそんなもんじゃない。

 人と深く関わり合いになるのが怖くて、その結果、人との距離感の詰め方を学べなかっただけの人間だ。


「別に、ただ……人付き合いが苦手なコミュ症ってだけで……」

「コミュ症って! そんだけ話せりゃ十分っしょ。つか、早川さん話しててめっちゃ面白いよ?」

「そ、うなんですかね……。だとしたら多分、葛原くんがネタ振りしてくれるからだと思います。普段はなに話していいかわかんなくて、結構黙っちゃうんで……」

「うーわ、こんな美人なのに勿体ねーなー」


 先ほどジョッキを握っていた葛原の手が、不意に瞳へと伸びてくる。袖口からチカッと暖色の光を弾いた時計が見えた。

 ふわり、食べ物とお酒のにおいに混じって、マリンが鼻腔を擽る。額を覆っていた前髪を葛原の指が梳いていき、さりさりと地肌を男の硬い指が舐める音が身体に響いた。

 睫毛が真っすぐに、彼へと向かう。


(あぁ、やっぱり)


 この男は。

 心臓がドクリ、とよくない弾み方をして、一瞬で頬が熱を持つ。

 アルコールのせいにするには、きっと手遅れだ。


「………………やっぱ、葛原くん超チャラい」


 悔し紛れに睨みながら呟けば、「お、ようやく敬語じゃなくなった」と、相変わらず犬っころみたいな顔で、彼は笑った。




**********




 地下にある店を出て、狭い階段を一歩、また一歩と上っていくと、冷たい風が肌を叩く。

 ふわり、先日トリートメントに行ったばかりの柔らかな髪が、頬の横で軽く揺れた。定時を過ぎたあとにつけ直した香水のにおいに混じって、煙草の嫌なにおいが鼻に衝く。


(さいっあく……)


 トリートメントと一緒に染めたピンクブラウンの髪の色は、文句なしにお気に入りだというのに、不快なにおいを纏うのは正直不本意もいいところだ。けれど飲み会ともなればそれも仕方ないと諦めるしかない。

 日本全体的な喫煙率は下がってきているらしいが、自分の会社に勤める女子社員――特に営業部の喫煙率は未だ高い。曲がりなりにも化粧品会社で、美容に気を使う人間が多い中、それでも肌に害のあるものを嗜むとは、仕事のストレスが多いのだろうか。


(まぁ、それでこっちまで副流煙吸わされたらたまったもんじゃないけど)


 三船真彩(みふねまあや)はそう独りごちると、カツン、とヒールの音を立てながら最後の階段を上りきった。つい先日まで熱帯夜に苦しんでいたと思っていたのに、気づけば冷たい風が道路を駆けている。

 トレンチコートをクローゼットから出したばかりだというのに、はやくもライナーをつけなければならない季節がやってきたようだ。バサリ、裾を煽る風の冷たさに、真彩は思わず痩躯を抱いた。

 二週間ほど前に計画された社内異職種交流会――とどのつまり、社内合コンは、一次会を終えた後に気の合うメンバーで二次会へとなだれ込んだ。人数も十名程度だったので、お気に入りのバーでそれなりに楽しい時間を過ごしたわけだが、ひとつ残念なことがあるとするなら、システム部の葛原利壱(くずはらりいち)が仕事が立て込んでいるという理由で合コンキャンセルになったことだろうか。

 二年先輩の彼は、お堅い真面目な人間ばかりが揃っているシステム部男性社員において、唯一色んな意味で緩い人間だ。顔もやや童顔ではあるものの、十分イケメンと呼ばれる範囲。身長も高すぎず、低すぎず。何かの運動をしているらしく、身体も適度に引き締まっている。

 ブランド物の派手なネクタイや、マリンの香水が似合う外見は、初対面で悪印象を抱く人はそういないと思わせるほどに爽やかだ。

 けれど、入社以来ことあるごとに用事を作っては、彼との接触を持とうとしていたが、いまだにこれといって距離がものすごく近づいたわけではない。真彩としてもそこまで本気で追いかけたいというほどでもないのだが。


「真彩ちゃん。今日はどうもねー」


 真彩よりも先に店を出た数名が、そろそろ衣替えをしつつある街路樹が並ぶ広い歩道で全員が揃うのを待っており、彼女が上がってきたことに気づいたのか笑顔を向けてきた。


「あ、センパイ。おつかれさまでぇす」

「楽しかったよー、ありがとう」

「私もすっごいたのしかったですよぉ! こっちこそ、ありがとうですっ」


 すでに時刻は十二時が近く、オフィス街ということもあり辺りはシン、と静まり返っている。高い雑居ビルもその大半が消灯しており、街は眠りにつこうとしている。これから帰宅するとなれば、それなりに翌日の仕事がつらい時間だ。


(あ、仕事といえば)


 定時直前に無理やり仕事を押し付けた、同じ部署の先輩にあたる女性を不意に思い出す。確か彼女も葛原同様、二年ほど早い入社だったはずだ。もっとも彼女は大卒、自分は短大卒なため、年齢差でいうのならば四つ離れている計算になる。

 派手な顔立ちではなく、カワイイカワイイと持て囃されるような外見ではないが、それ故にスッピンでも恐らく美人なのだろうと想像がつく、涼やかな(おもて)。そのくせ睫毛は意外と長く、癖のない髪は細く艶やかで、無難な色に染めているだけにしか思えないが、それが似合っていることがなんとなく悔しい。


(あんだけ美人なくせに、地味なのよね~)


 服の数が少ないわけではない、と思う。チラチラとバレないように彼女の服装はチェックしているが、それなりに服の数は持っている。けれど、そのどれもがよく言えばコンサバ。悪くいうと果てしなく無難。流行りのデザインでも多少取り入れていれば、あの顔だ。相当垢抜けて見えるだろうに。


(まぁ、いくら外見派手にしてもダメか……。あの人、暗いし)


 何か言いたげにしているくせに、そんな素振りを隠さないくせに、自分からは真彩たちに話しかけてこない。その態度が妙にカンに触って、無邪気という名の毒で無理難題を吹っかけたことも何度もあったが、それでも彼女は決して態度を変えなかった。

 入社以来、そんな生活が続き、気づけば彼女との仲は修復不可能。ありていに言えば、真彩はそんな彼女が嫌いだったし、周りの同期たちも真彩に倣うように彼女の悪口ばかりを口にするようになっていった。


(真彩たちが仕事押し付けたんだから、嫌って言えばいいのに)


 もっとも、言われたところで今日はこうして合コンがあったわけで、残業なんて出来なかったのだが。


「あ、真彩ー。おっつかれー」

「おつかれぇ! たのしかったねー!」

「うん、でも葛原さんいなくて残念だったなぁ」

「また企画して、誘お?」

「あはっ、だねぇ」


 先ほどまでバーで二次会を楽しんでいた同期の女子たちが、真彩へと笑顔を向けてくる。メンバー全員、外へ出たようで、今日はそろそろお開きだろう。


「じゃー、おつかれー!」

「うぃーっす! 明日、寝坊すんなよー」

「あはははっ、マジやばい! どーしよー!」


 誰ともなく向かう駅が同じ人間同士が固まって、歩道へと靴音を鳴らしていく。

 ――刹那。


「え……ちょ、あれ……」


 同期であり、同じ部署のひとりがその歩みを急に止めた。

 真彩は彼女の動きにつられるように、ヒールをその場に縫い止めると、彼女の睫毛の示す方へとゆっくりと視線を向ける。ふわ、と柔らかな髪が頬を擽り、そろそろお直しにいこうと思っていた爪で軽くそれを払った。

 片側三車線の国道を挟み、向こう側の歩道の奥――居酒屋のテナントが何店舗か入っている雑居ビルが見えた。そのエレベーターから出てきた男女の姿に、真彩の瞳は文字通り丸くなる。


『真彩チャン、急に仕事入ったから今日飲み会いけなさそーだわ』


 ゴメン! のスタンプと共に、そんなメッセージが届いたのは、定時一時間ほど過ぎた時刻だった気がする。

 残念に思いつつも、まぁここでごねても仕方がないかと『了解です』と返事を入れつつ、また飲みましょー! のカワイイスタンプを押しておいた。

 けれど。


「え、あれ……葛原さんじゃない?」

「ってか、一緒にいるの……あれって……」

「やだ、早川さんじゃん……」


 同期たちの、マスカラがたっぷり塗られた睫毛が真彩へと刺さる。

 ヒュゥ、と駆け抜けた冷たい風は、足元を過ぎ去っていったのか、それとも心に吹いたのか。


  ――早川さぁん。すいませぇん、真彩たちー、今日ちょっと予定入っててー。


 定時直前に、向かいの歩道にいる女性へと投げつけた言の葉が、脳裏で蘇る。そのあと浮かんでくるのは、葛原から送られたゴメンのスタンプ。

 真彩たちの視線に気づくことなく、向かいの歩道の男女はそのまますぐ傍にあった地下鉄入口へと消えていった。

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