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インフィニット・ディズ  作者: 笠緒
3/5

第一章 想いのリフレイン2

 コチ、コチ、コチ、コチ。

 壁にかけられたシンプルな時計の秒針が、左へ進むごとに時を刻む。

 このフロアに足を運んでから早三時間近く経っている。丸一日、それなりに仕事をこなした上で、さらに休憩もろくに取らずに画面と睨めっこを続けるのは、流石に目が限界に近い。

 疲れを外に追いやるように、ギュと目をきつく閉じると、やけに小気味いいタイピングの音が耳朶へと触れてくる。時折、タン! と強く叩かれるのは恐らくエンターキーだろう。

 葛原(くずはら)は背もたれのリクライニングに体重を預けながら目を開け、その音に引かれるように視線を流すと、そこには手慣れた仕草でキーボードを叩く同期の早川瞳(はやかわひとみ)の姿があった。やたらと姿勢がよく、背筋をまっすぐ伸ばしているその様は、彼女の性格そのものだな、と思わず彼は唇の端をゆるく持ち上げる。

 ほんの三十分ほど前にフリーズした彼女のPCの復元は、システムログを掘り起こすことで難なく終わった。遠目で確認しただけだが、先ほど自分がした忠告通り、どうやら開いているウィンドウの数はそれなりに抑えているようだ。

 カタカタカタカタ、タンッ、カタカタタ、とキーボードの音に混じって、一定の間隔でカチ、カチ、とマウスのクリック音が空気を震わせていた。


(クソ真面目っつーか頑固っつーか……)


 さら、と零れ落ちてきた髪を耳へとかける彼女の姿をぼんやりと眺めながら、葛原はギ、ギ、と背もたれを鳴らす。確かあれは入社したばかりのころの話。社内での休憩中に偶然親しくなった一年先輩である営業の女子社員に、PCの調子が悪いから見に来てほしいと頼まれたことがあった。

 基本的にシステム部はPCの不具合連絡を受けるとリモート操作で対応する決まりになっているが、「よくわかんないから、見に来てほしいなぁ」という我儘にも似た甘えを易々と受けたのは、定時を微妙に過ぎた時間になってからのことだった。

 そんな時間にホイホイとフロアの違う営業部まで赴いたのは、内線でいちいちリモート操作の説明をすることが面倒だったことも理由のひとつではあるが、その女子社員がそこそこ可愛くてスタイルも良かったからという下心以外に他ならない。

 まぁ勿論、今日いきなりそんなオイシイ状況になるとは思っていなかったが、同じ作業をするにしてもPCのファンが回る音とタイピングだけが響くシステム部にいるよりも、カワイイ女子社員が多い華やかな営業部でこなす方が何倍も楽しいに決まっている。

 あちらも下心ゆえの誘いをしていることは十分理解しつつも、それなりに弾んだ気持ちで営業部へと足を運ぶと、そもそも不具合など最初から存在していなかった。


  ――いやいや、流石にそれは、なくない?


 遊びにも似た駆け引きということは重々承知だが、それでも流石に業務時間内に呼び出す以上、こちらの立場も考えて最低限の取り繕いくらいはしてほしい。

 先ほどまでの浮かれた気持ちは、カワイイ女の子の些細な態度で一瞬で冷や水がかけられたかのように萎み、苦い気持ちばかりが心にじわりと広がった。

 けれど相手は他部署の先輩社員。さらに自身はぴっかぴかの新入社員。こちらから何かを言えるような立場にもなく、悲しいかな薄っぺらい笑顔で、時間を潰すことはむしろ得意分野だ。

 上辺だけの会話を楽しむフリをした後で、どうせこの場には用もないのだ。適当なところで切り上げ、システム部に戻ろうと足をエレベーターとは逆方向にある非常階段へと向けようとした、まさにそのとき――。

 肩の高さほどもあるライトグレーのパーテーションの向こう側へ、不意に視線をやった瞬間飛び込んできたものは、細い身体を椅子が転がるままに任せ、くの字に折り畳みデスクに伏せっている女子社員の姿。

 さらりとした癖のない黒髪のさらにその向こう側で、PCの液晶がそれは見事な青色に染まっていた。


  ――おぁっ! なんかすっげーレアなもん出てんな~。


 つい先ほど呼ばれた営業部での件もあって、思わずその対比に笑い声と共に本音が飛び出した。


(あ、ヤベ)


 ここが何の部署かも知らず、相手が誰であるかもわからずにかけていい口調ではなかったが、時すでに遅し。そう思ったときにはもう言の葉は音を持って唇から離れてしまっていた。

 けれど、デスクに伏していた細い身体がビクッと揺れ、そろりと肩越しに振り返ってきたその顔は見知ったもので、同時にここが何の部署であるかも理解する。さら、と肩口から零れ落ちた癖のない黒髪がなぞる輪郭はほっそりと整っており、驚きで二度、三度羽ばたいた睫毛が彩る双眸も形がいい。

 何故お前がここにいるのだと言外に告げてくるような困惑した声音で「……く、ず……はらくん?」と名を呼んできた彼女を、ぼんやりと「美人だな」と思っていたことが、ふと脳裏で蘇った。


(まぁ……いまも、変わらず美人は美人か)


 PCへと真っすぐに向かっている、恐らくエクステなどしていないだろう睫毛は、それでも十分長いと思う。低くもなく高くもない鼻梁がす、と通ったつるりとした面差し。化粧はしていないとは言わないが、オーガニックとはいえ化粧品を取り扱う会社で働いているにしては化粧っけはほぼないといってもいい。周りの女子社員はみんな流行りのメイクを好む人間ばかりなので、尚更そう見えるのだろう。

 真っすぐ癖がなくさらりと肩へと流れる髪は、それほど派手な色味でもないものの地毛よりもやや明るい色に染められていた。全体的に涼やかな顔立ちの彼女には、良く似合っている色だと思う。

 社内の華やかな雰囲気で埋もれがちではあるものの、好みの差はあれど男が十人いたら十人とも「美人」と回答する顔立ちだ。


(ま、だからってどうこうする気にゃなれんタイプだよなぁ)


 安易に口先から出る勢いに任せた口説きなどしようものなら、それだけで絶対零度の眼差しを向けられてしまいそうだ。きっと、長くきちんとしたダンジョコウサイをしてくれるような誠実な男でないと、ソウイウ意味で近づくことさえも許されないだろう。

 基本的に重苦しくない人間関係を好む自分がそんな彼女へ声をかけるには、いささか高いハードルがいくつも転がっているように思えてならない。

 完全に、観賞用として目の保養のためだけに見つめていたい存在だ。


「…………あの」


 見惚れていたというほど熱がこもった視線は向けていなかった思うが、流石に背もたれへと体重をかけたまま、じっと見つめ続けていたら不審に思われても当然だろう。カタカタとキーを叩いていた指を止め、彼女がその双眸をPCからこちらへと流してきた。

 眉の間にはやや皺が寄せられ、困惑の感情を隠そうともしていない。――否、涼やかなその顔立ちに反して、意外に感情は素直に表へと出てくるタイプなのだろう。


「なにか……?」

「いや? 別に? たださー、真面目だねーって」


 ギ、ギ、と背もたれを鳴らしながら、へらりと笑うと、彼女の眉の間の皺が深くなる。思っていることをそのまま馬鹿正直に伝えれば、きっと侮蔑と共に絶対零度の眼差しを向けられることは必須だろうと、あえて逃げた回答だったがこれも失敗だったらしい。


「仕事なんだから、真面目にして当然じゃないですか」

「自分の仕事でもないのに~?」

「……引き受けた以上は、これはもう私の仕事です」


 自分自身、その言い分に心の底からは納得していないということがありありとわかるような、口の中で籠った音が彼女の唇を衝いて出た。涼やかな顔立ちが、一瞬にして幼さを帯びる。

 葛原は瞳のその表情に、一度睫毛を上下させた。胸に浮かんだ感情が、笑いとなって唇を飛び出てしまいそうだ。慌てて口元へと軽く握った拳を当てながら、喉のすぐそこまで競り上がってくる笑いを何とか口内に押しとどめる。


(真面目チャンかと思いきや、割とその辺フッツーなんだよなぁ)


 思えば確かに、後輩に押し付けられたらしい仕事をサボる気配こそなかったものの、最初からその不機嫌そうな感情は隠そうとしていなかった。先ほどから鼓膜を叩くキーボードの音が、何よりの証拠だろう。

 頑固なほどに真面目なのだろうが、息の詰まるような堅苦しさはあまり感じられない。その辺りが、なんとなく「観賞用」として自分の中で位置づけているにも関わらず、こうして構いたくなる所以なのかもしれない。


(女っつーより、友達とダベってる、みたいな?)


 異性を見てそんなフラットな感情を抱くのは、一体いつ以来の話だっただろうか。

 思えば高校生のころには既に自分の中では「女」という生き物は、恋愛対象になるかならないかという位置づけでしかなかった気がする。


「まー、仕事熱心なのもいいんだけど。でも、そろそろ今日はやめにしない? ほら、もう十時近いし?」

「そう思うなら、葛原くんおひとりでどうぞ」

「まーたまたぁ。つーか、ここで今ひとり帰っちゃったらさぁ、俺が残った意味なくなるって思わん?」


 今日、終わらせなければならないような急ぎの業務は、既に手元には残っていない。彼女とエレベーターで出会わなければ、自分はそのまま何も気にすることなく社内異職種交流会――合コンに向かっていたはずだ。


「俺の良心のためにもさ、今日はもう帰んない?」

「っ、でも……」


 瞳の唇が尚も否定を口にしかけ、けれど彼女の睫毛がふ、と向かい合う液晶の右下へと投げられる。そして時刻を確認したのだろう、一瞬迷うように視線が揺れた。

 刹那。


  ――グギュルルゥウゥ……。


 ビニール袋の表面を指で擦ったかのような、甲高い音が静まり返ったオフィス内に響く。なんの音であるかは理解しつつも、その発生源がどこであるのかの理解が追い付かず、葛原は軽く目を剥いた。

 視界の先には、細い肩を一層小さくしている同期の姿。先ほどまでPCの液晶へと向けられていたその(おもて)がいまは完全に俯いており、さらりとした髪がその表情を覆っているためはっきりとは言えないが。


(これ……)


 気づいた瞬間、葛原の唇が今度こそ「ブハッ」と笑いを噴き出した。

 同時にビクリ、瞳の肩が大きく震え、癖のない髪がますますその(おもて)を隠していく。


「ごめ……っ、でも……ちょ、ごめん……っ、くく、ははははっ」

「~~~~~~っ」


 彼女の細い肩が小刻みに震え出し、柔らかな素材のスカートを握る指が、ぎゅ、とそこへと皺を作り出した。葛原は、尚も溢れそうになる笑いを必死に口内でかみ殺すと、「ん、んっ」と口許へと拳を当てる。こうして抑えておかないと、噛んだはずの声が再び弾け出てしまいそうだ。


「ぶ、く……くく……、いや、ごめんごめん」

「……っ」

「いやほんと、ごめんて」


 葛原は背を預けていた椅子から、反動をつけて立ち上がると、未だ視線を持ち上げない瞳へと足を向ける。彼の影が彼女の頭上に落ちた段階で、ようやくちらり、と睫毛の先をこちらへと寄越してきた。

 長いそれに彩られた奥の双眸は、明らかに険を含んでいるものの、白い頬に()された感情が、その印象を全て消し去っている。


「……笑いたきゃ、笑えばいいじゃない……」

「いや~、悪かったって。ごめんごめん」

「いいです。別に笑えば。実際、私のお腹、すごい音鳴ったのは事実だし……」

「つーか、あんだけ頑張って真面目に仕事してりゃ、腹も減るって。な?」

「……葛原くんは鳴ってないじゃない」

「ぶっは! 俺、真面目じゃねぇかんなぁ……」


 日頃涼しげな顔で、淡々と仕事をしているイメージの強い瞳からは考えられないほどの幼い表情に、先ほどの衝動的な笑いとは別のむず痒さが胸を引っ掻いた。日頃、社内の女子社員や、合コンや飲み屋で知り合ったオンナノコたちとの距離感では絶対に生まれない下卑た欲を孕まない感情に、気分が妙に高揚する。

 葛原は眼下にある瞳と視線を合わせながら、唇の端を持ち上げた。


「ねー、早川さん」

「なんですか」

「俺もさ、さすがに腹減ったんだよね」

「……はぁ?」


 語尾を持ち上げた瞳からの追及を逃れるように、葛原は踵を返しながら、ぐぐ、と縮こまっていた筋肉を引き延ばした。ゴリ、とした感触が肩甲骨の辺りに響き、疲労感が心地よい痛みに解されていく。

 今日はそもそもこんな時間まで会社に残る予定ではなかった。

 本当ならば、今ごろ社内のカワイイオンナノコと楽しく上辺ばかりの会話を楽しみながら酒を飲んでいたころなのだろうが。

 ちらり、肩越しに振り返れば、相変わらず怪訝そうな視線を葛原へと投げてくる瞳の姿。


「メシ、食ってこっか」


 そんなに驚かせてしまったのか、一瞬で大きく見開かれた彼女の双眸は、いまにもぽろりと零れ落ちそうなほどで――。

 その後「はぁぁ?」と素っ頓狂な声が上がるのへ、葛原は思わず破顔した。




**********




 チン、という音と共に、狭い箱がふわ、と動きを止めた。

 階数を示すモニターには7Fと表示されており、扉が開いたその先の壁には「総務部」「経理部」「人事部」「システム部」というプレートがかけられている。


「んじゃ、それ片づけ終わったら外で待ってて」


 葛原はエレベーターの中にいる瞳に声をかけると、一歩扉の外へと踏み出した。


「あ……、あの。葛原、くん……っ」

「勤怠入力したら、俺もすぐ行く」


 じゃね、と手をぴらぴら後ろ手に振ると背後で扉が静かに閉まり、バインダーを手にした彼女の気配が消えていく。既に主だった照明が落とされ、非常照明のみで照らされた廊下は薄暗く、やや気味が悪い。恐らく瞳の向かった資料室のある階も似たようなものだろう。


(まー、残業慣れしてるみたいだから、いつものことか)


 それでも大量のバインダーを抱えさせていたわけだし、手伝ってやった方が良かったのでは、と思わなくもない。

 ちら、と手首へと視線を落とせば、ちょうど針は十時を示している。夕食というには遅すぎる気もするが、文字通り背に腹は代えられない。

 先ほど瞳へとかけた誘いは、二度目の彼女の腹の虫によって肯定されることとなり、それでも渋ろうとする瞳を適当にあしらい、退勤入力させ、とっととPCの電源を落とした。そして自分が使っていたPCもシャットダウンしようとした段階で、不意に今日はすでに自分の退勤入力していたことを思い出した。

 この時間まで社内で作業をしていたというのに、流石に残業代ナシはあり得ない。瞳が資料室までバインダーを返却しに行くというので、ならば自分はシステム部に戻り、退勤時間を変更させてくる、という話になった。


(一度退勤入力したら、その修正はシステム部でしか出来ないとかめんどくせぇよなぁ)


 もっとも、株式会社健粧堂(けんしょうどう)の勤怠入力システムは、タイムレコーダーではなくグループウェアシステムを使っているため、完全に自己申告だ。一度きってしまったら取り返しがつかなくなるタイムカード形式よりはマシともいえるが、それにしたところで業務用マスターとの連携は全くされていないソフトなので、今回新たに開発している登録マスターを含む管理システムが完成したら、こちらはお払い箱となる予定だった。

 葛原はコリ固まった肩を解そうと、手を当てながら腕を大きく回し、歩を廊下へと転がしていく。廊下にも敷かれているタイルカーペットが、革靴の硬い音を柔らかく吸い込んでおり、薄暗い空間は沈黙に埋め尽くされていた。

 足先が突き当りの角へと触れようとした瞬間、その奥にある廊下が明るい色に染まっていることに気づき、彼の靴はそこで不意に歩みを止める。この先にはシステム部の部屋と、非常階段に繋がるドアしかないはずだ。

 葛原の眉が、軽く皺を刻んだ。


(……俺が帰ろうとした時は、もうシステム部の人間みんな帰ってたけどな……)


 部署内で最後に今日の勤怠入力をしたのが自分だったから、よく覚えている。

 まさか泥棒の類だとは思わないが、流石にこんな時刻に人間がいるのは不自然だ。葛原が、部屋を覗き込むようにそっと視線を潜り込ませると、いくつものPCが置かれた室内にふたつの影がタイルカーペットを這っていた。


「結局、進捗はどうなってるのかな」


 室内から突如響いた低い声に、葛原の肩がびく、と揺れる。

 システム部の上司、の声ではなかった。

 そのほかの同僚のものとも違う。


(え、まさか本当に泥棒なわけ……?)


 どくん、どくん、と胸の中で大きくなっていく心臓の音を鎮めるように、カラカラに乾いた口内になんとか集めた水気を嚥下させる。もし不審者だとしたら、即通報した方がいいのだろうか。

 首元にまとわりつく襟の下で、喉仏をごくり、と一度上下させながら、部屋の入口近くまで壁に沿って少しずつ近づき、そっと中を伺い見る。

 商品企画部とは色味の違うタイルカーペットが敷き詰められた、三十平方メートルほどの部屋。いくつものPCが置かれており、その形はデスクトップ型からノートタイプまで様々だ。日中であればここにあるPCの大半が稼動させられており、ファンが回る音や、機器類特有の熱気が部屋を満たしている。

 化粧品を主に取り扱う会社らしく、インテリア類はそれなりにスタイリッシュなものが置かれているが、ここまでPCがぎっしりと連なる部屋では、逆に違和感ばかりが木霊する。


「今のところ順調、という以外に然したる報告はありません」


 そんな部屋で、女にしてはやや低めの、落ち着いたトーンの声が響いた。

 葛原が部屋の中央へと視線を流せば、そこには背の中ほどまでのロングヘアーを綺麗に巻き、ネイビーのスーツに身を包んだ細身で長身の女が、デスクに軽く腰をかけ部屋の奥へと(おもて)を向けていた。片足に体重をかけているせいか、「綺麗」としか形容できない細くしなやかな足が床から僅かに浮いており、そのつるりとした踵がヒールから僅かに顔を出している。


(って、辻本(つじもと)リーダー?)


 顔は見えないが、間違いなくシステム部に所属する辻本静香(つじもとしずか)に違いないだろう。

 勤続十年になるベテランのSEで、しっかり者で厳しい一面もあるが部下の面倒見がよく、何よりパッと人目を惹く華やかな容姿と、海外ブランドのトップモデルでも出来そうなほどのスタイルの良さで社内女子社員からの人気は抜群だ。


(え……、つかなんで? 辻本リーダー、俺より先に帰ったんじゃ……)


 確か自分がこの部屋で、まだPCを落とし切っていないときの話だ。


  ――葛原くん、大丈夫? 仕事、溜まってるの? まだまだ残業長引きそう?


 ゆら、と耳朶でフープ型のピアスを揺らしながら、そう声をかけてきてくれた。


  ――いーえ、もう帰りますよー。今日、社内合コンなんでー。

  ――そう。じゃあ私も上がっていい?

  ――あ、はい。お疲れ様っす。

  ――お疲れ様。


 そんな会話をしたことを、覚えている。

 あのとき、彼女は確かにすでにバッグを片手に部屋を出ようとしていたし、なによりその後勤怠入力をした際に同じグループ内にいる辻本は退勤にチェックがされていた。

 間違いなく、自分よりも先に社を出たはずだ。


(つか、それよりも)


 彼女の視線の先にいる人物を確認したいが、これ以上身を乗り出すと室内から覗き見しているのがバレてしまう。辻本がこうして対応しているのだから、社外の人間ということはないだろうが、システム部内のPCは社内システムを司るものが多く、給与システムなども管理しているため、取締役の承認なくして入ることは基本的に禁止されている。


「君は相変わらずクールだね、静香」


 低い声が、社内で絶大的な人気を誇る女性の名を刻む。

 一瞬の間をおいて、辻本がデスクに置いていた手を持ち上げその痩躯を抱きしめるように腕を組んだ。くるん、と肩口で巻かれた髪が零れ落ち、金色のフープが耳で揺れる。


「やめてください。社内ですよ」

「もう誰もいないのに?」


 タイルカーペットの這っていた影が入口へと近づいてきて、奥からダークグレーのスリーピース・スーツが姿を現した。その人物は、長身である辻本が小柄に感じられるほど体格がよく、恐らく葛原など若い社員では着られてしまっている状態になりやすいスリーピース・スーツをしっかりと着こなしていた。

 辻本の細い腰にさらりと伸ばされた腕の袖口からは、ストライプのシャツとシンプルな台形のカフリンクスが顔を出している。


(これって……)


 スリーピース・スーツを愛用している人物は、社長をはじめ何人かいる。その大半が取締役の人間だが、その中で唯一いまだ取締役ではないもののスマートに着こなし、そして辻本を前にしても見劣りしない体格の持ち主がいる。


直樹(なおき)さん……っ」


 まさに、葛原が脳裏に思い描いた人物の名を、辻本が上ずった声で紡ぐ。

 衣擦れの音と同時に、彼女のそれ以上の言の葉はどうやら男の口内に食われたようで、室内には沈黙が響き渡った。

 葛原はそっと中を伺いながら、自分の存在が気づかれていないことを確認すると、踵を返し足早にもと来た方向へと歩を進める。


(へぇ)


 角を曲がり、それでも靴音をタイルカーペットへと吸わせながら、形容しがたい想いを鼻先へと集め(おもて)へと滲ませた。

 木島直樹(きじまなおき)――。

 営業部本部長のポストにあり、年齢は確か四十代半ばだったはずだ。

 いま葛原たちシステム部が制作中の社内システムを、外部IT企業に任せず社内で、と言い出した張本人であり、社長や取引先からの覚えもめでたいらしい。外見も、中年男性には珍しいほどの爽やかさがあり、二十年前にはさぞモテたんだろうなと思わせる容姿、そして性格は穏やかでユーモアにも優れているため部下からも人気が高い。

 社内の女子社員から何度も「奥さんいなかったらなぁ」などという愚痴を聞かされてきたので、直接業務で関わりの少ない葛原でもよく知っている人物だった。

 ――そう。


(結婚、してたよな……木島本部長って、確か……)


 愛妻家、子煩悩として有名らしく、彼のデスクある妻子の写真は1シーズンごとに更新されていくだとか。

 酔うと必ず、子供の運動会のムービーやら七五三の写真やらを部下に見せてくるだとか。さらに酔いが進めば、妻との馴れ初めを嬉しそうに語り出すだとか。

 妻にいまも恋をして、子供を愛する最高の夫。最高の父親。

 そんな姿をたびたび見せているため、女子社員の彼を狙うような発言は全て冗談なのだと笑って流せるようなものだというのが、社内の共通認識になっていた。

 けれど。


  ――静香。


 あの声に秘められた感情は、そんな噂を一瞬で吹き飛ばすほど男の欲に塗れたものだった。少なくとも、あの瞬間、彼の脳裏には愛する妻子の姿なんて欠片もなかっただろう。


(ま、辻本リーダーが相手してくれるっつーなら、不倫のひとつやふたつ、したくなる気持ちもわからなくもないけどね~)


 しかしあの一分の隙も相手に見せないような辻本が、社内で不倫をするというのがいまいち信じられないが。もっとも、生真面目な美人にはありがちな、こと恋愛に関し幸薄そうな雰囲気というのは確かに感じられる気もする。


(そういう意味じゃ、早川サンもちょっと似てっかも……)


 ふたりとも、細身の体型に、美人だがキャイキャイとした姦しさはない。


(あー、いや違うな)


 外見的な印象だけならばそうかもしれないが、瞳の場合、あれほど感情が(おもて)にダダ漏れだと、「幸」の方が遠慮してこれ以上彼女から出ていってはならないととどまりそうな気がしなくもない。

 葛原は、不機嫌を隠そうともしない瞳の表情を思い出し、くくっと喉を震わせた。そしてすでに1Fまで降りているエレベーターを待つことなく、そのまま屋内階段へとつま先を向け、一段飛ばしに降りていく。

 エレベーターを待っている内に、木島と辻本が来てしまったら気まずいどころの話ではないし、何より社内の人間関係の上澄み部分を適当に泳ぎながら生きている自分にとって、何やら深刻そうな二人とは関わり合いにすらなりたくないのが本音だった。

 タンタンタンタン、と手すりへと指を滑らせながら、勢いよく薄暗い階段を駆け下りていく。足が疲れを訴え始めた頃、ようやく1Fの床を靴裏が踏んだ。

 流石に7Fから1Fまで階段で足早に駆け下りるのは、三十路が近い年齢の身体にはそれなりにきつい。


「葛原くん」


 荒くなった呼吸を整えていると、ビルの正面玄関であるガラス扉の前で、エレベーターをぼんやりと見つめていたらしい瞳が、葛原の足音に気づいたのか弾かれたように振り返る。ふわ、と癖のない髪が、街灯の光で照らされたロビーに舞った。


「ごめんごめん。待った?」

「あ、ううん。退勤時間、修正出来ました?」


 そういえば、そのためにシステム部に向かったということを忘れていた。


「あー、いや。なんかPC立ち上げるのめんどくさくなったから、明日、朝一で忘れない内にちょちょいと修正すっかなーって」

「……葛原くん、朝来るのいっつも遅めだし、その辺明日にはすっかり忘れそう」

「そーなんだよー。むしろ出勤入力さえ忘れることあっからな~、俺」


 そう嘯けば、一瞬きょとんとした後に、瞳は綺麗に口紅(リップ)が塗られた形の良い唇で「葛原くんっぽい」と笑った。

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