プロローグ
少し前からどうも反応が鈍いのではないかと思っていたPCが、突然真っ青な画面に切り替わったのは、定時である十七時半を一時間ほど過ぎた時間だった。
配属されたばかりの新入社員はなるべく残業をせずに帰宅するように、という暗黙の了解が社内にある中での一時間の残業で、コチコチと秒針を左へと回していく時計の動きにただでさえ焦っていたというのに、ここにきて今まで見たこともないような画面が現れ、ヒュ、と吸い込んだ息が喉元で詰まった。
「えっ、ちょ……っ」
これまでの人生の中で見たこともない画面だが、液晶内に広がる青に白文字で英語が羅列されている様を見る限り、どう考えてもこの状況が良いものとは思えなかった。
バクバクと、心臓が大きく騒ぎ出す。社内は空調が効いており、常ならば寒さを感じることがあっても暑いだなんて思うことはなかったというのに、緊張からか、清潔な白いブラウスの内側が僅かに湿度を増していく。
(待って、ちょっと……誰かに……)
いっそ恐怖といっても差支えがないほどの焦りに囚われながら、睫毛を持ち上げ、ふ、と辺りを見回せば、パーテーションの向こう側ではあるもののフロアにはまだ何人かの人の気配が感じられた。自分ではなにをどうすればいいのかさえわからない状況であることは明らかで、この春入社したばかりの新入社員ということもあり助けを乞うことは当たり前といえるだろう。
(でも……)
一瞬、立ち上がろうと、デスクに手を置きながら椅子の脚についた車を後ろへと転がしたが、けれどそのままそこへと下された腰は浮き上がることなく、ひらがなの「く」の字のような状態で固まる。
今年の春にこの課へと配属されてから早二か月が経つが、パーテーションの向こう側にいるだろう営業部の人間との面識はほぼゼロだ。名前どころか、顔さえも正直覚えているかと訊かれたら素直にはいとは返事が出来ない。
顔見知りでさえないような薄い関係性の同僚に対し、「助けてくれ」と声を上げられるほど自分の心は図太くはない。むしろ、いまこの場で声をかけられるような度胸があるのならば、きっと顔も名もわからないというようなことにはなっていないのだ。
かろうじて名を知っている同じ課の人間は、定時を一時間ほどオーバーしている現在の時刻にはすでに全員が退社していた。冷静に考えれば、新入社員がひとり残された状況でとっとと帰ってしまうのもひどい話に思えるが、それもまぁ日頃の自分の付き合いの悪さが理由なのかもしれない。
(どう、したら……)
悩んだところで、PCの画面は先ほどと変わりない青一色。
元々、PC操作が苦手というわけではなく、大学でのレポートも、卒論も全て難なくこなしてきた。家のネット回線くらいも、ひとりでどうにか出来る程度の知識はある。
けれど、このエラーメッセージが羅列された画面をどうしていいのか、どうにかしてもいいものかどうかさえ、わからない。自分の持ち物であるのならば、壊れるのを覚悟して電源を落とすなりするのだが、社用PCを乱暴に扱うだけの度胸は入社して二か月ほどの時間の間に育まれてはいない。
(う~~~、どうしたらいーのよ、これぇ……っていうか、これ私のせいでなっちゃったのかな?? なんかした? 私??)
ズルズルと、デスクへと顔が近づいていく。椅子の車輪が青を基調としたストライプのタイルカーペットを転がるほどに、「く」の字の角度が増していった。
「おぁっ! なんかすっげーレアなもん出てんな~」
突如、背後から声がかかり、ビクリと細い肩が揺れる。
デスクに埋めていた顔を持ち上げ、肩越しに振り返ると、パーテーションの向こう側に人好きする笑みを浮かべた青年の姿があった。
彼のことは、知っている。
ほんの二か月ほど前、共にこの会社に入社した仲間――いわゆる、同期だ。
話したことは、二度、三度はあったはず。勿論プライベートな話などするわけもなく、オリエンテーションでの挨拶やグループディスカッションなどでの話だが。
名前は確か――。
「……く、ず……はらくん?」
だったっけ?
確かそんな感じだったはず、と、記憶にある名を語尾上がりに呼ぶと、黒目がちな男にしては大きな目をぱちくりと瞬きさせ、睫毛の先を向けてくる。そして「あぁ」と、表情の温度を上げたあたり、どうやら誰かもわからずに声をかけていたらしい。
「なんだ、早川さんだったんだ」
どうやらあちらにも存在は認識されていたようだ。
まったく迷いのない声音で、名を呼ばれる。
(まぁ、そりゃそうか)
考えてみれば、十数人ほどの同期の名前と顔を、ひと月ふた月で忘れる方がおかしいだろう。
確か工科大学の情報システム学科を出ている、とオリエンテーションの自己紹介で話していたような気がする。一か月の研修を終え、配属されたのもシステム部だったはずだ。
彼はそんな思案など知る由もなく、パーテーションをぐるりと迂回してやってきた。紺を基調とした中に赤や黄、緑などが斜めに入っているストライプ柄のネクタイの剣先が、ぷらり、揺れる。
派手な色合いのそのネクタイが浮いて見えないのは、新入社員ということもありみんなそれなりに大人しめの服装で様子見をする中で、そういったことに囚われない自由な性格のためだろう。思えば、オリエンテーションでも彼は常にみんなの中心人物だった。
「早川さんて、商品企画部だっけ? ってことは、あー、ここがそうか」
葛原は軽く左右へと首を動かしながら、パーテーションに仕切られた区内を見回す。商品企画部はまだ公に発表されていない商品情報なども扱っているため、外部からの人の出入りが多い営業部からの視線を遮るように、仕切りを設けていた。
だったら同フロアではなくほかの階にすればいいとは思うが、そこは社内導線的に都合のよい間取りにされたということなのだろう。
「あ、はい。……って、知らないでここに来てたんですか?」
「いや、さっき営業部からPC診てほしいって内線あってさぁ。リモート操作わっかんないっていうから、じゃあもう行った方が早いだろってことで」
葛原は隣のデスクの椅子の背もたれへと手をかけると、軽く引いた。そしてそのままくるりとそれを回し、まるで日常自分が過ごす部署のデスクのような自然さでそこへと腰を落とす。
ふわり、マリン系の香水のにおいが鼻腔を擽った。
童顔、といって差し支えはない幼い表情をしているが、けれども同時に晴れた日の空に吹く風を思わせる清涼さがある彼に、爽やかなそれはとても似合っている。
「部署の、ほかの人は?」
「……みなさん、今日はほぼ定時で帰られました」
「へー。で、早川さんはPCバグっちゃって途方にくれてるってこと?」
ずい、と椅子の車輪を転がしながら、葛原が近づいてきた。デスクに置かれたマウスに骨ばった指が伸びていく。
少し幼いとさえ思うほどの表情からは、ちょっと想像出来ないくらい「男」を感じるその指に、そして同時にふわりと香るマリンに、ソワソワとする気持ちを持て余しそうになる。椅子を軽く引き、彼にデスク前を譲ると、横目でそれを確認したらしい彼はまた一歩、椅子を近づけた。
「つーか、久々にブルースクリーンなんて見たなー」
「これ、ブルースクリーンっていうんですか?」
「そそ。まぁ原因としては、メモリ不足だったりマザボとの相性とかってのがあるんだけどさ。結論からいうと、OSとかデバイス側の問題だから、使ってる人間の不備でこうなったわけじゃないから」
青い画面へと貼り付けていた黒目がちな瞳を、ふい、と横へと流しながら、葛原は唇の端を持ち上げた。もしかしなくても、これは「君は悪くない」と、そう言ってくれているのだろうか。
不意に向けられた視線に、胸の内側が俄かにうるさくなっていく。
「え、っと……じゃあ、あの……ん?? つまり……?」
「ぶっは! だよね。結局どうすんの? って話になるよなー」
「え、あの、もしかして……直してくれる、んです……か?」
「ははっ、なーに言ってんの。それが俺の仕事っしょ?」
葛原は再び視線を青い画面へと戻すと、唇に三日月を描いたままにマウスへと触れていた手をPCへと伸ばした。キーボードでなにか操作でもするのかとその動きを黙って追っていると、彼の指先は電源ボタンを容赦なく押す。
「え」
睫毛を上下させ視界を一度切り替えても、どうやら幻でもなんでもなかったようで彼の人差し指は変わらず電源ボタンに触れたままだ。
一、二、三……四、五秒――。
その後数秒経ったのちに、プツ、となにかを断ち切ったような音が小さく響いた。同時に、青を映し出していた液晶が一瞬で黒に染まる。
「って、ええぇぇえっ! ちょ、な……なにしてるんですかっ!!」
「あー、ごっめん。消すね」
「消すね、って……、もう消してるじゃないですか!」
「うん。あれ以上待ってても無意味だからさぁ」
手首に巻かれた時計へと軽く視線を落としながら紡ぐ葛原の声は、どこまでも軽い。素人目に見てもヤバそうだとわかる画面だったというのに、それを強制終了させた人間のものとは思えないほど、軽い。否、だからこそ軽いのか。
「い、いいんですかっ!? PCは強制終了しちゃダメって聞いたことあるんですけど、こんな……」
「まぁいいか悪いかで言ったら、ぶっちゃけよくはないけどね~。でもあの状況になってたらもう電源ブツ切りする以外、なーんも対処法ないんだよね。エラーコード読み解くくらいはまぁ出来るけど、それしたところでなにがどうってわけでもないしさ」
葛原はそう言いながら、自身の手首に巻かれた時計の秒針が、円弧を描いていくのをしばらく見つめていた。そして、しばらくのちに先ほど電源ブツ切りしたスイッチへと再び指を伸ばす。
ヴ……、と電子的なゆらぎをみせながら、再びPCが立ち上がった。今度は黒い画面に英語が綴られているが、葛原が全く焦った様子を見せずにエンターキーを叩いたことからも、これはそういうものなのだろう。
しばらくすると、日頃よく見かけるログイン画面が表示された。「パスは?」と訊かれたので、机の中に閉まっていた社員コードが書かれた社員証を彼へと差し出す。
「っし。ちゃんと立ち上がったし、一応これでもう大丈夫だと思うよ」
「あ、ありがとう……ございました」
「いーえー。あ、そだ。なんか作業の途中だった? だったら一応バックアップ確認してみるけど」
「あ、いえ。大丈夫です。データ保存した後だったんで」
あのブルースクリーンとやらになる直前までは確かに作業をしていたが、一通りの仕事を終え、保存が完了した直後にあの症状が起こった。いくつものデータを開いていたが、大切なものはただひとつのマスター登録ソフトのみである。
ほかのデータが保存されていなくても、特に問題はないはずだ。
「もしかして、作業中色んな画面開いてた?」
「あ、はい。マスターにデータ登録するために、メーカーから届いたPDF書類とか、結構沢山開いてました」
「あー、やっぱり。元々さぁ、この会社のPCのスペックあんま良くないし、登録用のマスター画面も古いシステムだから容量ばっか食ってんだよね。で、いまちょうど営業がたくさん帰ってきてるから、もしかしたらイントラネットが重くなっちゃってPCに負荷かかったのかもね」
「……な、なるほど?」
言っている内容はほぼわからないが、とりあえず一応原因も彼には予測できるものだったらしい。システム部の葛原が把握しているなら、とりあえず問題はないのだろう。
「色んな要因が重なった結果ああなっちゃっただけだとは思うけどさぁ、今度からその辺ちょっと気を付けるといいかもしんない。よし、じゃこのままPC落とすから」
「あ、はい」
「了解」
葛原は唇の端を持ち上げ返事をすると、カーソルをシステム終了へと導く。骨ばった指が、二、三度ほどマウスを叩き、ほどなくしていつも通り、何の問題もなかったようにPCの電源が落とされた。
葛原が椅子を引きながら「んじゃね」と勢いよく立ち上がるのへ、どう反応していいものかわからず、思わず「あ」と声を漏らす。
「ん?」
肩越しに振り返った葛原の目が、軽く見開かれた。
こうして見ると、やはり表情は実年齢よりも幼いように感じられる。
「あ、いえ。あの……ありがとうございました」
膝の上に手を置きながら、ぺこりと頭を下げると、頭上から「ぶっは」と笑いが弾けた。
「真面目か! はは、いーって。つか、それさっきも聞いたし?」
ちら、と視線を上げた先にいた彼の目尻がふ、と柔らかくなるその様に、俄かに心臓が騒ぎ始める。彼から微かに漂うマリンの香りに溺れてしまいそうだ。
「ってーかあれだよね。早川さん同期なんだからさぁ、その敬語いらなくね?」
「え……ぁ、そ、ですかね?」
「また敬語ー。つーか、今まであんま喋ったことなかったけど、同期なんだし仲良くしよーよ」
先ほどマウスへ触れていた彼の手が、ポン、と一度も染めたことのない黒髪の上へと置かれた。見上げた睫毛の先には、シャツの袖口から零れる時計のシルバーが光っている。
自身の頭へと触れられた手、そしてその先に伸びる腕。
犬っころみたいに笑うくせに、マウスに触れる指は骨ばってた。
時計をつける手首は、女のものとは明らかに違い太かった。
(おとこの、ひとだ)
自分へと触れてきたその人は、紛れもない男の人だった。
「え、あ……」
「んじゃ、これからタメ口でよろしくー」
そう言い、葛原は踵を返しながらぴらぴらと手を振りながら、パーテーションの向こう側へと背中が向かっていく。
タメ口で、と急に言われても、そんなにすぐに人間関係の距離を修正出来るわけもない。そんな器用なことが出来るならば、最初から彼が偶然通りがかるまであの青い画面とひとり対峙するような事態には陥っていない。
けれど。
「あ……えと……お、お疲れさ、まっ!」
「おーぅ、お疲れちゃーん」
なんとか語尾に「でした」をつけずに挨拶を投げかけると、ちょうどパーテーションの角へ差し掛かろうとしていた葛原が一度視線を向けてきて、に、と唇の端を持ち上げ笑う。そしてもう一度「じゃね」とぴらぴらと手を振り、今度こそパーテーションの向こう側へと去っていった。
残されたのは自分と、何とも形容しがたい感情ばかり。
区切られたこの場所では、感情が行き場をなくしてぐるぐると思考の渦へと迷い込む。
(仲良くって……)
人とコミュニケーションを取ることは、苦手だった。
距離の詰め方もわからないし、詰めた後どうすればいいのかもわからない。
それを特に改善しようとも思わなかったのは、人付き合いを煩わしいものだと思う気持ちがあったから。
幼いころはそれでも、その距離を詰めようとしたこともあったけれど、思春期を過ぎるころには諦めてしまっていた。
自分には、向いていない。
元々の性格も勿論のこと、育った環境からもそれをするのはひどく困難だった。
けれど。
――同期なんだし仲良くしよーよ。
――これからタメ口でよろしくー。
成人して就職したのちに出会った男性に、急に距離を詰められた。
そう、思ってしまったのはきっと自分が人付き合いが苦手なせいだろう。
普通の人ならば、ごくごく普通のコミュニケーションなのだろう。
(でも)
心臓がバクバクと動き出す。
先ほどPCが青い画面になったときとは別の意味を孕む鼓動が熱を持つ。
(どうしよう)
それがわからないほど、世間知らずでもないし、鈍感でもない。
わかっている。
わかっている。
(どうしよう)
早川瞳、二十二歳。
後々考えれば随分とまぁチョロい話だと、自分自身に呆れるばかりの出来事なのだが。
それでも当時の自分にとっては、まさに運命だった。
運命、だった。
職場でのピンチに、偶然助けてくれた同期の男に。
犬っころみたいな懐っこい顔で笑う彼に。
(私は、一瞬で)
恋に、落ちました。
その運命の行き先にある未来を。
無限の、まだ見ぬ未来を。
――当時の私はまだ知らない。