幸福なおとこ
キエフ付近。男は窓から夜空を眺めていた。生前の世界とは違い、この国には空を照らす光が少ないため、星がいくつも見える。まるで『あの日』の様に。
男…リカルド・ファルキは初めて『完全に』負けた時の事を思い出す。今思えば、あの時の自分の行動は唾棄すべきものであった。一生償っても消えないものだろう。そう、彼が英雄に戻った日も今の様な天気であった。
失った腕の代わりに装着した義手を撫で、微笑みを浮かべながらリカルドは友の身を案じる。
「なぁ佐伯陽介、お前は元気か?俺は…元気だぜ」
同刻、セルビル行き列車の屋根上。黒い霧を纏った悪魔は怪物を食い散らかす。かろうじて形が判別できる怪物の頭部は削られたように磨り減り、四肢は完全に分断されていた。屋根には怪物のものと思われる緑色の血ともう一人分の赤い血が飛び散っていた。
車両間の結合部にある梯子を利用して登ってきた女は、右目のモノクルを起動して的確に悪魔の急所に狙いを定める。恐怖でブレが激しい。
悪魔は女を気にもとめずひたすら怪物を喰らっていく。喰らう度に悪魔の黒い霧は量を増していった。女は深呼吸をして弓を引き絞り、呟く。
「…お願い、目を覚まして!!」
時は半日ほど前にさかのぼる。武器と装備品の調達を終えた佐伯とマリーは複数の列車と馬車を乗り継いで目的地まであと一路線、というところまで迫っていた。しかしその列車には半日以上乗っている必要があったうえ、出発時刻も昼過ぎであった。そこで二人は、魔王とその配下について情報収集をすることにした。
立ち寄ったのは冒険者集会所。依頼を受注した集会所とシステム的には同じであるが、場所が違えば当然依頼傾向や情報量などは変わる。
集会所内には魔王討伐に行こうと意気込む者もいればストイックに自らの出来る仕事をこなそうとする者など様々であった。佐伯とマリーが主に利用する集会所よりは魔王討伐を意気込む者が多い印象を受ける。
マリーはテーブル席で話し込んでいる冒険者達に尋ねる。
「突然失礼いたします。あなた方も、魔王の討伐に?」
「あぁ、そうだよ。といっても、補給路確保の護衛だけどな。あまり見かけない顔だが…嬢ちゃん達も魔王討伐に?」
「はい。配下の討伐隊に加わる予定です」
冒険者の男は少し苦笑いを浮かべながら言う。
「セルビルの奴かい?あれはあまりオススメしないなぁ…でもやりたいならいいんじゃないかな」
佐伯が会話に割り込む。
「オススメしないとは?」
「どこまで知ってるかわからんが、最初に討伐隊が派遣されて全滅した話あるだろ?セルビルの奴なんだよ」
仲間の男がさらに付け足す。
「しかもその討伐隊には魔術師部隊と騎士部隊がいてよ、もう俺らの技術はほとんど対策されてるだろうな」
「あぁ、場合によっちゃ人体実験なんてことも…」
佐伯が冷徹な目で睨み付ける。
そのただならぬ空気を察して、男は話題を変える。
「…まぁ、結局俺達は奴等に対して何一つわかっちゃいねぇのさ。お前らも気をつけろよ?」
「お気遣いありがとうございます。ですが私達も死ぬ気はありません。命あっての物種、と言いますし。それに、あなたがたも補給路確保するじゃないですか。敵の襲撃にはお気をつけください」
「そういやそうだな!ハハハハハ!!!」
席を離れようとした時、不意に佐伯はある視線に気づく。視線の主はシルクハットを被り黒いコートを着ていて、冒険者には見えなかった。だが、現代の服装をしている佐伯も人にとやかく言える立場ではないのでその時はあまり気にとめなかった。
別な冒険者グループ。こちらと同じ男女ペアだったので、比較的話しやすい。
「んー、魔王ねぇ。自慢じゃないが、俺達が前に戦った魔人はそんなに強くなかったんだよな。どっちかっていうと…」
「変異種ね。人間と複数の生物が融合して、さらに何らかの原因で再び人間の形に戻ったような」
佐伯はやや疑問に思う。変異種とはいえ魔人と戦い、勝てるほどの実力があるにも関わらず彼らはこの場にいる。討伐隊に加われる実力は十二分にあるはずだ。マリーはそんな事を気にとめず尋ねる。
「つまり、魔王などの発生原因は不明であると?」
「そういうことになるな」
「ごめんなさい、力になれなくて」
女冒険者はやや申し訳なさそうに頭を下げる。
ここでやっと気づいたが、この冒険者グループは二人とも衣服がかなりボロボロであった。多分、依頼達成報告のついでに息抜きをしていたのだろう。彼らが討伐隊に加わっていない理由も『これ』だろう。
マリーは礼を言ってからその場を先に離れた。佐伯は改めてシルクハットの男がこちらを見ているのを確認してから、二人に小声で尋ねる。
「先程からこちらを見ているあのシルクハットの男性、何者なんです?」
「彼はこの辺りに住む資本家だ。鉄道敷設にも関係してるから、俺達はあの人に頭が上がらないよ。でも不思議だな、なんでずっとこっち見てるんだろ」
「いつもは違うんですか?」
「えぇ。フラッと来て軽く見回したら帰ってしまうの」
「あんたらが珍しいからじゃないのか?」
「フフフ、確かにそうかもしれないわね。機会があれば一度話してみなさい。なかなか面白い方よ」
佐伯はマリーが他の冒険者に話を聞いている横で、男の元へ行く。男は動揺せず、貼りつけたような笑顔で佐伯を迎える。
「失礼、あなたは冒険者ではありませんね?」
「ええ勿論」
「では、ここで何をなさっているのですか?」
男は顎を触りながら考えたあと、答える。
「探しものをしていました。ですがもう大丈夫そうです」
佐伯は剣に手をあてつつ尋ねる。
「それは、私に関係ありますか?」
「ない、と言えば嘘になるでしょう」
男はチケットを二枚差し出してきた。
「セルビル行きのチケットです、差し上げましょう。もしや、もう購入なされていましたか?でしたら、前のチケットは適正価格で私が購入」
「なぜ、あなたは私を見ていたのですか?」
佐伯は言葉を遮って踏み込んで尋ねた。右目を起動し、ジヤヴォールによる威圧を用いながら。男はなおも笑顔を崩すことなく逆に尋ねる。
「それは、ご自分が良くわかってらっしゃるのでは?あぁ失敬、それは私の『管轄外』でした。出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ありません」
「謝罪は不要です。私が欲しているのは問の答えだけですから」
男はチケットをしまい、佐伯の耳元で囁く。
「私どもは、あなた様の帰還をお待ちするのが仕事ですから」
佐伯が男を縛り上げようとするが、男は軽やかな身のこなしで避ける。そして、シルクハットのつばをやや下げて仮面の様な笑顔でこちらを首だけで軽く振り返りながら言う。
「また会いましょう、あなた様のお早いご帰還を我々一同は願っております」
男は集会所を出た。佐伯はあわてて追いかけるが、外に男の姿は見えなかった。不意に、完全に自分と一体化したはずの左腕が再び『ジヤヴォール』に戻った気がして、右腕で強く握りしめた。
マリーが佐伯のそばにやってくる。
「サエキさん、急にどうしたんですか!?びっくりしましたよ。速すぎて見失うところでしたんですから!」
「…なぁマリー」
「はい、なんでしょうか?」
「いざという時は、頼むぞ」
マリーにはその言葉の真意が読みとれず、返事は出来なかった。
それから街中を散策したが、常に物陰から男は佐伯を観察し、捕獲を試みようとする度に姿をくらました。襲うことなく、ただ気味の悪い笑顔を浮かべているだけであった。
時刻になり、列車は動き出した。自分達の席と周囲の状況を確認し、これからの行動を決定すると二人はそれぞれの世界へと没頭していった。
佐伯は『魔導師エイボン』というタイトルの本を読み進める。そう、あの依頼の黒幕が持っていた本だ。興味本意で少し中を見たとき、記載されている言語が北欧系統に近いものであったので、佐伯は時間を見つけては少しずつ読んでいたのだ。
その言語とは『ハイパーボリア』と呼ばれる言語らしく、いくら類似言語を知っているとはいえ解読は難解を極めることが予想されるため、時間がある時にしか読めないのだ。
一方マリーは魔術の訓練をする。本人には決して言えないが、佐伯は端から見れば無茶する行為が多い。同じパーティーとして、心配であることこの上ない。ならば、彼が無茶しなくても良いように強くなる必要がある。そういうわけで、佐伯が使えない魔術の訓練を始めたのだ。
無駄になるかもしれない、何年で使い物になるのかもわからない。それでも、彼のために何かしてあげることが『正しい事』と信じてマリーは魔術書を読み進める。
そんな事をしていたら気づいた時にはすっかり日は落ちていた。慌てて食事を摂り、再び席に戻る。
ふと、マリーは佐伯に尋ねる。
「そういえば、サエキさんってどこの出身なんですか?あんまり見ない顔立ちなのでずっと気になっていたんです」
「そうだなぁ……ここよりずっと東の方角にある島国だよ」
「へぇ……ご兄弟とかは?」
「兄が一人いた」
佐伯は兄の事を思い出す。2つ歳上の兄との兄弟関係は比較的良好であった。両親が優しかったというのもあるだろうが、互いに譲りあうような場面が多かった気がする。なんであれ、今の『佐伯陽介』を形成するような要因になりうるものは欠片も……否、あった。
佐伯の兄は『人間としての完成度』が比較的高い人間であった。偉大な人物ではないが、基本的に分け隔てなく人と接していたので、色々な人に好かれていた。兄の高校時代までは、佐伯の目標と言える人物であった。大学からは、接する機会が極端に減ったため、佐伯は善くしらない。とにかく、佐伯が知る限り兄の行った事は、まさしく『善』と言えるものであった。佐伯は転生後には兄の行動を参考にしようとした。
佐伯はそんな兄になろうとしたが現実は上手くいかなかった。開拓者として、冒険者として、いつ死んでもおかしくないような生活を送るようになってから佐伯の精神は思わぬ方向へ歪んでいった。ジヤヴォールという『力』を手に入れた影響もあるのだろう。対象を必要以上に痛め付けることで得られる威嚇効果、生物の効率的な破壊方法、殺意の滲ませ方……そういった『生きるために有効な手段』がどんどん心を占め、膨れ上がっていった。次第に、兄がどういう人間で、どんな生き方をしていたのかも忘れていってしまった。
非常に感傷的になりかけたので、佐伯が質問を仕返す。
「そういうマリーはどうなんだよ。家族はいるのか?」
マリーは少し顔を曇らせてから答える。
「…私は産まれも育ちも孤児院です。戦災孤児…って言うんでしょうか、戦争で両親と離ればなれになったらしいです。なので血の繋がった家族は知りません。あ、でも孤児院には家族同然の人達が沢山いますよ!!今でもたまに会うくらいには仲が良いです!!」
佐伯は、聞かずにはいられなかった。
「……寂しくないのか?」
「…フフフ、どうでしょうね。今の私を作ったのは、血の繋がりを持つ両親ではないですし。それこそ、冒険者になるきっかけを与えてくれたのは神父様ですし、続けていられるのはサエキさんのお陰です。……でも、本音を言うとちょっとだけ寂しいです」
佐伯はさらに尋ねる。
「捜せばいいじゃないか。たとえ両親どんな人間であろうと、わだかまりはないほうがいいに決まってる」
「そうかもしれませんね。でも、私はまだまだです。両親が素晴らしい人間だったら合わせる顔がありません。それに、酷い戦争でしたから、もう……」
マリーは哀しそうな笑顔を浮かべながら俯いた。
佐伯は窓の外に視線を外す。
「…すまん。変な事聞いちまった、忘れてくれ」
「気は使わないでください。お願いします」
いつになくマリーは強い口調でそう言った。佐伯は面食らう。
「サエキさんにそういうことで気を使われると……その優しさに甘えたくなっちゃいますから。それにさっきも言いましたが、今の私を作ったのはサエキさんです。サエキさんがそういうことをするのは、私の人生の否定になっちゃいますし。だから……今の私を、否定しないでください」
佐伯は鼻で笑う。互いに都合が良いから始まった関係は、いつの間にかマリーにとって大切なものになっていた。そして、佐伯の知らないところでマリーは成長していた。気高さすら感じる彼女の姿は、『高速学習』のせいで人間性が稀薄になりつつある佐伯に人としての暖かさを取り戻させてくれる。
思い出した、佐伯の兄も『こういう人間』だった。自立した、個として確たるものを持つ人間。何かを得ようともがくのにそのための努力をせず、いつもそれなりで終え、次に移り、仕舞いには『個』を失った佐伯陽介が目指した人間は『彼』であり、『彼女』である。佐伯は今の自分が非常に滑稽に思えた。こんなにも近くに、『欲しいもの』があったというのに、それに気づけなかった自分が。
「……ハハハッ。ハハハ。ハハハハハハハハハハハハ!!!」
佐伯は頭を手で押さえ、天を仰ぎ見ながら大爆笑する。
「ちょっと!?真面目な話をしてるんですよ!?何笑ってるんですか!?」
「いや、すまんすまん。マリーが俺の憧れの人とあまりにもそっくりだったんで、ついな」
マリーは顔を赤らめる。
「そんな……!!私はそういう人間じゃないですし!私の教えも全て神父様の受け売りですし…」
「だが、言われて実践出来る人間は僅かだ。それにスキルやレベル、身体能力は関係ない。俺がどんなに学習しても、どんな方法を用いても手に入れられてないものをマリーはもう持ってるんだ。誇りにしていい」
マリーは不審そうな顔をしながら佐伯の額に手を当てる。
「…何してる」
「サエキさん、熱でもあるんじゃないかなぁって。普段あんなにふざけてるサエキさんが突然私を誉めだしたんです!おかしいですよ!」
「……あぁ、確かにおかしいかもな」
佐伯はマリーの背中にそっと手を回す。
「は!?な、何を!?」
佐伯はマリーの耳元で囁いた。
その後、マリーは意識を失った。
佐伯は拳銃とショットガンを持ち、戦闘体勢を整えてから廊下に出る。彼を塞ぐようにして、シルクハットを被った男が二人立っていた。双方に銃口を向けながら尋ねる。
「聞き耳立てるとは礼儀がなってないな…アイツの仲間か?」
彼らの存在は、マリーとの会話の後半で気づいた。ただ彼らとの戦闘にマリーを巻き込むわけにはいかないため、気絶させた。それに、彼女は佐伯にとって……。
シルクハットは佐伯の問いに答える。
「ええ、私どもはあなた様をお迎えにあがるために参りました」
「魔王様はあなたの降臨を大変祝福なさっております。…ご自分の使命は、思い出されましたか?」
「残念ながら、そんな使命なんて俺は知らない。人違いだ」
「フフフ、我々はわかっておりますよ。まだ支配が完全ではないのですね、『ジヤヴォール』…いや、『 』と申したほうがよろしかったでしょうか?」
言い換えた方は理解力を越え、佐伯自身の脳が聞き取る事を拒否した。だがジヤヴォールと名乗った以上、彼らを生かしておく理由はどこにもなかった。災厄をもたらす者を崇めるなど、言語道断だ。
佐伯は起動し、ジヤヴォールを起こす。車両の窓の外に『何か』が現れた。それを見てシルクハットは歓談する。
「おお…!!かの者がこんな場所に…!!やはり、あなたこそ神の器にふさわしい!いや…神そのものだ!」
「そりゃうれし」
佐伯は言葉を話しながら引き金を引き、全弾を撃ち尽くす。拳銃を部屋に投げ捨てつつ、ショットガンをリロード。
シルクハット達はコートを脱ぎ捨て、醜悪な外見を持つ有翼の怪物に変化していた。
「そっちの方がお似合いだぞ。『Let's rock』!」
佐伯の煽りの直後、怪物はほぼ同時に佐伯に突っ込む。上半身と下半身を破壊しにかかっており、攻撃コースがが被らないようにしている徹底ぶりだ。それを窓の外のジヤヴォールに足を引っ張らせて身体を地面と平行にして回避。そのままジヤヴォールに列車を掴ませながら外からショットガンを連射。命中したが、効果はないに等しい。
「点での破壊は無理か!!」
怪物Aは佐伯の首を掴んで再び列車内に引き込む。佐伯はあえて引き込まれつつ、怪物の頭めがけて剣を振り抜くが、怪物Bが妨害する。Aの掴む腕を握りしめて破壊しつつ、Bの攻撃を受け流す。そのままジヤヴォールを突撃させ、Bを『消し去る』。
だが、Bは以外にもジヤヴォールの動きを見切り回避。
「我々が知らないと思ったのか!?」
「そうだな!期待した俺が馬鹿だったよ!」
ジヤヴォールに即座に対応する相手ならば、制御に集中力を払う必要はない。ジヤヴォールを戻しながらAに蹴りを入れる。Aは受け流しながら鍵爪で太ももを掠めとる。Bも隙をつき鍵爪を振り下ろすが佐伯は受け流しつつその腕を切り落とす。
Bが拾い上げて治療を試みるよりも先に、佐伯はその腕を剣で突き刺す。後ろから襲い来るAを回し蹴りでいなし、腕を抜き取る。
「お前らの記憶、読ませてもらう」
非常に生臭く、裏路地の悪臭をさらに煮詰めた様な臭いがしたが佐伯は問題なく補食する。弾丸をある程度いなすだけあって表面の強度はあるが、中身は柔らかかった。血を滴らせながら肉を喰らう。
遠い昔の記憶だった。暗黒の荒野に彼らは集まり、外なる神と呼ばれる者の降臨を待ち望む。彼らは神を賛美する言葉を叫ぶ。
「いあ!いあ!んぐああ んんがい・がい!いあ!いあ!んがい!ん・やあ しょごぐ ふたぐん!いあ!いあ! い・はあ い・にやあい・にやあ んんがい わるふ ふたぐん よぐ・そとおす!よぐ・そとおす!いあ!いあ!よぐ・そとおす!おさだごわあ!」
佐伯はその言葉を知っている。いや、知ってしまっていたという方が正しいのかもしれない。『魔導師エイボン』に記載されていた『全にして一、一にして全なるもの』を賛美する言葉がまさにそれだった。その者については、言葉にするのも憚られる。言えることは一つだけ、彼らの崇めるものはまさしく『邪神』であった。そう、ジヤヴォールの正体は『彼方なる者』、つまり『ヨグ・ソトース』である。
遠い昔の記憶だった。暗黒の荒野に彼らは集まり、外なる神と呼ばれる者の降臨を待ち望む。彼らはその者を賛美する言葉を叫ぶ。
その文言はおおむね一緒だったが、賛美する神の名が異なった。その者の名は『アブホース』。
そう、ジヤヴォールの正体は『アブホース』である。
遠い昔の記憶だった。暗黒の荒野に彼らは集まり、旧支配者と呼ばれる者の降臨を待ち望む。彼らはその者を賛美する言葉を叫ぶ。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん!」その者の名は『クトゥルフ』。そう、ジヤヴォールの正体は『クトゥルフ』である。
遠い昔の記憶。暗黒の荒野で彼らは賛美する。その名は『明けの明星』。そう、ジヤヴォールの正体は『ルシフェル』である。
遠い昔の記憶。暗黒の荒野で彼らは賛美する。その名はアラビア語であった。そう、ジヤヴォールの正体は『シャイターン』である。
遠い昔の記憶。暗黒の荒野で彼らは賛美する。その名はサンスクリット語であった。そう、ジヤヴォールの正体は『マーラ』である。
遠い昔の記憶…暗黒の荒野。それは幾度となく繰り返された。途中でやめることも考えたが、最後まで見ねば怪物の秘密はわからない。佐伯は記憶の読み取りを続ける。
永劫に繰り返される暗黒の荒野の賛美。
「やめろ」
佐伯はそこから抜け出すことが出来なくなった。
「やめろ」
読み取り停止を念じても止まることはない。
「やめろ」
もはや賛美する彼らの姿は最初と全く変わっていた。
「やめろ」
これは記憶の読み取りではない、その『先』を見ているのだ。
「やめろ」
恐らくこの儀式に真の意味はなく、ただの
「やめろ。やめろ。やめろ!!やめろ!!やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろぉぉぉぉ!!!!!」
佐伯は剣を抜き、賛美を続ける彼らを切り刻んでいく。彼らは全く抵抗することなく賛美の声をやめない。場合によっては歓喜の声をあげる者も少なからずいた。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
最後の一人を滅多刺しにする。佐伯は静寂の訪れた暗黒の荒野に一人たたずむ。
ふと振り返ると、黒衣の何かがこちらを見ている。いや、本当に見ているのだろうか?何かに顔はなく、深淵が黒衣を被っているように見える。
「消えろ!!!」
佐伯は怒りと恐怖に任せ、振り払うように斬る。だが手応えはなく、姿が揺らいだだけであった。
黒衣はゆったりと近づいてくる。恐怖を覚えた佐伯は武器を捨て逃げ惑うが、複数の黒い手に掴まれ、深淵へと引きずりこまれていく。黒い手に押し込まれ飲まれていくなか、彼はあるはずもない助けを求めて叫び、赤黒く輝く月に手を伸ばす。
月は、そんな彼になにもせずただその光景を眺めるだけだった。
腕を補食したあと、倒れて動かなくなった佐伯の手足を怪物は破壊して目覚めた後に抵抗出来ないようにした。そして、佐伯を掴みながら割れた窓から屋根に登る。
「任務完了。魔王様もお喜びになられるはずだ。…腕の調子はどうだ?」
「止血はした。断面が食いちぎられているが…修復は容易だろう」
「…そろそろ神の連れが探しに来るかもしれん。始末してくる」
「了解。こちらは任せろ」
Aは屋根からマリーの寝る部屋に入ろうとするが、その足を何者かに捕まれる。列車と衝突しそうになるのを踏ん張って持ち直す。足を見ると、黒い何かが伸びて掴んでいた。それの後を辿ると…佐伯が顔色ひとつ変えずにこちらに黒い霧を纏った腕を伸ばしていた。
Aは即座に指示をだす。
「起きている!気絶させろ!」
Bが振り下ろした拳に佐伯は喰らいつき、強引に引きちぎった。のたうち回るB。それを折れた手足で無理矢理突き飛ばし、立ち上がる。
「馬鹿な…!!立てるはずがない!傷口に金属片もいれてある…!なぜ!」
佐伯の背後に『何か』が現れ、佐伯にまとわりつく。途端に彼の姿は見えなくなり、その場には『悪魔』が現れた。
悪魔はBの首を掴んで列車から飛び降りる。Aはそれを追いかけるように下を見る。悪魔は僅かにある車両の引っ掛かられる場所に足と手をかけ、Bの顔面を地面に押し付けすりつぶしていた。
いかな耐久力と防御力をもつ怪物と言えど、高速で凹凸の激しい地面に押し付けられれば削れていく。やがてBの頭部は完全に消えて無くなり、胴体は遥か後方に吹っ飛んでいった。
ように見えた。悪魔は腕を伸ばして胴体を回収。その場で食い散らかした。Aは、その光景をただ眺めることしか出来なかった。
車両内では、異常を察知したある冒険者が悪魔の姿を目撃していた。その冒険者はすぐに詠唱し、風の弾丸を悪魔めがけて放つ。悪魔は風の弾丸を『固形化』して掴みとる。
圧倒的な実力差におののく冒険者。その眉間に悪魔は撃ち返した。
再び屋根に登ってきた悪魔。怪物は覚悟を決める。穏便に事を進めろと言われたが、こんな状況なのだから多少『暴れても』やむを得まい。怪物はさらに巨大化し、より異形の姿へと変わっていく。
いくつも生えた触手は車両に絡みつき、煮え立つ身体から垂れ落ちる液体は容赦なく屋根を溶かしていく。
「ゴぶレイをハたらラキマす」
怪物はいたるところから現れた目で悪魔を凝視し、その弱点を探る。僅かに『佐伯』の部分が確認出来た。そこを突けば勝機はある。怪物は一斉に触手を悪魔に伸ばす。
車両内。マリーは目を覚まし、周囲の異常に気づく。屋根は腐りかけ、星空が見えた。窓には触手が張り付き、今にもこちらに入ってくるようだった。そしてなにより、佐伯の姿がなかった。あるのは彼の拳銃だけ。
慌てて廊下に飛び出すと、床には眉間を一撃で撃ち抜かれた冒険者の死体と、より状態の酷い後方から前へと逃げ惑う他の客。間違いなく、佐伯はこれに関係している。
「サエキさん…!まってて!」
他の客を押し退け、後方へと進んでいく。赤く染まった扉がある。開けなければ、先へは進めない。覚悟を決め、中へ入る。窓ガラスはことごとく破壊され、あたり一面は血の海と化していた。食い散らからされたような死体と、切れてもなお少しのたうち回る触手に吐き気を催しつつもさらに奥へと進む。
次の車両は、どこに何があるのか判別が出来ないほど赤黒く、緑黒く変色していた。そして、それが全て血であることに気がついたマリーは一度引き返し、深呼吸をする。
ひとつ前車両の空気は血生臭いが、それが逆に『生』を実感させる。先の車両はそれすらないのだから。
覚悟を決めて、さらに奥へと進んでいく。段々凄惨さを増していく車両状況に慣れていく自分に恐れていると、最後尾に着いた。佐伯も、佐伯らしき死体もなかった。
「サエキさん…どこにいって…ん?」
この車両だけ、上が騒がしく揺れが激しい。マリーは梯子を登る。
そこでは、黒い霧を纏った悪魔が全ての触手を抜き取られ手足を完全に分断され、頭部がほとんど削られた怪物を食い散らかしていた。鉄の色をしていた屋根が赤と緑に染まるほどに、血液が飛び散っている。
マリーは一度腹にあるもの全てを吐き出し、水を飲んでモノクルを起動して弓を引き絞る。
彼女には確信があった。悪魔の目の色、それは佐伯が時折見せる右目の色と同じだった。信じたくはなかったが、今目の前で補食している悪魔こそ、マリーの探す『佐伯陽介』だ。
彼を止めねばこの騒動は収まらない。狙うべき場所は明白であった。そこに照準を合わせる。モノクルのおかげで簡単に当てられそうだった。
しかし、ここで彼女にひとつの疑念が降りかかる。
『彼を殺したら、私はどうなってしまう?』
そんな思いは彼女の手を震えさせ、今まで考えたこともなかった『殺人』の恐怖が襲う。
そんな彼女の思いを余所に、悪魔は怪物を喰らい傷口を癒しつつ黒い霧を増やし、周囲にその身に宿す『何か』を振り撒いていた。
マリーにある言葉が響く、佐伯の言葉だ。あの時、囁かれた言葉。
「マリー、お前は強い。もし俺が挫けそうになっていたら……マリーが俺を助けてくれ」
深呼吸をし、弓を引き絞りながら呟く。
「…お願い、目を覚まして!!」
キエフ、魔王城。王は静かに神の帰還を待っていた。かの者が現れたのならば、勝利は揺るぎないものになるからだ。
伝令がやって来た。格式ばったことを行ったので速く言うように伝える。
「申し上げます。『バイアクヘー』、『SGA』両名とも…レン高原へと召されました」
魔王はそれを聞いて頷いたあと、立ち上がり叫ぶ。
「全軍に伝えよ!これより、この世界を蹂躙する!」
ある日の朝。佐伯は病院のベッドで目を覚ます。身体に泥がまとわりついたように重い。無理矢理身体を起こして、周囲の状況を確認する。
左手の甲にあった紋様は肩先まで伸び、右目に違和感があった。また、心臓部には何かが刺さった様な跡がある。そして、視界が紫がかっている。
「…後遺症か」
ベッドから降りようとすると、マリーが視線に入った。横の机で突っ伏して寝ている。苛烈な冒険者であろうと、その寝顔は年相応のものだった。
マリーの背中にそっと毛布をかけた時、さらに気づく。目の下にはクマが出来ており、指先は荒れていた。多分付きっきりで看病してくれていたのだろう。
服を着替えて荷物をまとめ、ベッド周りの簡単な清掃を終わらせる。そして、マリーの耳元で囁く。
「今までありがとう。本当に大好きだったぜ。……じゃあな」
そっと頬にキスをした。
そして、窓を開けて飛び降り街中へと消えていった。
男は、愛した者を置いて自らの使命を果たすために歩きだす。その先にあるものは…果たして。




