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ニール・ヘンルセン

ニール=ヘンルセン玩具店

作者: もしお汁

 高いビルの立並ぶ街の一角に「偏執狂通り」と呼ばれる煉瓦敷の路地がある。

 煉瓦敷きの小道はそれ自体が埃を被ってしまっていて、まるで一枚の油絵を立体に描き出したのではないかと目を疑う程である。

 おまけに大人三人がようやく通れる位の道幅のくせに、その両側には、奇妙な店舗がぎっちりと肩を並べているのだ。下手物しか置いていないと評判の定食屋だの、宗教音楽ばかり集めてあるレコード屋だの、刃こぼれした包丁や穴の空いた鍋しかない金物屋だの。

 そんな小道の一番奥、袋小路に一軒の玩具屋が典座ましましている事を知る者は少ないだろう。

 ブリキに塗装を施しただけの時代錯誤の看板には、不自然に捻じれたりひん曲がったりする汚い字で謳い文句が書かれているが、幾年も風雨に晒された為判読は殆ど不可能に近い。

 しかしそれでも判別できる文字を連ねていけば、何とか語意を読み取るまでにはなる。


『玩具各種承ります ニール=ヘンルセン』


 各種承る、などと偉そうな文句を掲げている割に、店内にある玩具群は口が裂けても流行物とは言えぬがらくたばかりだ。ゲームやトレカ全盛期のこの時代にブリキのロボットや民芸品のコケシなど誰が買うというのだろうか。

 採算や商売気を捨ててまでその店の店主の従う所はただ一つ、己の心にぴんと張られた一本の琴線であるらしい。

 ならばその店は玩具店という看板を隠れ蓑にした彼のギャラリーなのだろう。

 そういえば、ごった返す品物の中には彼自身が作成したものも含まれているという。丸い目をした水飲み鳥や、足元を滑らかに歩き回る貯金箱のお化けの滑稽な表情は、無機質に過ぎて一種悪夢的でもある。

 しかし、商品達にもまして悪趣味の極みと言えるのが、他でもない店主その人の姿自体なのだ。


 名前が横文字な所からみると他国人ではあるのだろう。

 ヒッピーでも気取っているのか、鮮やかな緑に染め上げた髪(本人は地毛だと言い張るが、生憎そんな色素を持つ人種を私は知らない)を無造作に高い場所で結っている。括り方が雑であったのかその大半はまとめきれず下におちてしまっているのだが。

 一年を通じて綿入れを着込み、ご丁寧にイヤーマフラーまでつけているのは余程の寒がりか独自のポリシーか、それとも何か他に理由があるのかも知れない。

 お世辞でも高いとは言えぬ鼻の上にちょこんと乗っかっているのは古ぼけた丸眼鏡。それこそ珍妙、あるいは悪趣味以外の何ものでも無いだろう。


 彼の性質はまた、酷く子供染みている。同時に、酷く年寄りくさくもある。どちらが彼の本質かといえば、どちらでもないのだろうけれど。

 そもそも職人とか技術者とかいった連中には、星霜を重ねようとなお稚気を忘れ得ぬ者が多く居る。つまり彼は商人というよりもむしろ技術者なのだ。

 現に彼の作る品は技術的な所に光を当てれば、相当に素晴らしいものなのだと私は思う。

 何せ彼は中世の世の技術から、最新の半導体技術に至るまで自在に操ることができる。今時蒸気で動く驚愕機械なぞ、そう作れる者は居ないのではないか。

 さらにこの驚くべき商人は、かつて永久機関の原理すらも考案したとその口で言うのであった。真偽の程は定かではないにしても、滅多に嘘を吐かぬ彼の言質だけに信憑性は高い。

 だというのに彼はその世界に大センセーショナルを巻き起こすであろう発明を敢えて表に出そうとはせず、結局その両手に得た素晴らしい技術をただ悪趣味なデザインの玩具作りにのみ活用するのだ。

 そんな彼と彼の店を、私は結構気に入っている。

 彼の方も多分、この変わりもの好きのSF作家をそれなりに気に入ってくれてはいるのだろう。



 「踏むな!」

 私がいつもの通り曇り硝子の引き戸を開け、店内に侵入しようとすると、珍しく店主、ニール=ヘンルセンの鋭い怒声が飛んで来た。

 私は面食らい、足元に目を落として…やっと、横たえられた包みの存在に気付いたのであった。

 それは随分と大きい包みで、私の背より優に長く、その幅や厚さもちょうど人間一人がすっぽりと入りそうなものだった。

「何だ、玩具屋の癖に棺桶でも扱うつもりか?…ははあ、さてはあまり店が流行らないので葬儀屋にでも鞍替えするつもりだな」

 私の軽口に相変わらずの無表情をより詰らなさそうに歪め、店主は呟いた。

「私が葬儀屋に鞍替えしたならば、一番最初のお客は印税を貰えず食費を稼げなくて餓死した貴様だろうて。」

「はは」

 反論しようとして、原稿が進まず困っているのは事実である事に思い当たり、私は所作なげな笑い声で会話を崩した。

「ならば、俺が飢え死にせずに済むよう、何か良案でも恵んでくれよ。この包みは一体何だ?」

「私は貴様の妙案製造機では無いので残念ながらそれは叶わぬがね。これは自動人形だ。いつか話した事が無かっただろうか?」

 そういえば一週間程前、中世の自動人形について一説ぶっていただいた事があった。

 自動人形は、その名の通り自分で動く人形の事だ。それらの多くは水圧や発条、ばね、蒸気などを動力とし、グロテスクとも言える程の精巧さとリアル感をもって作られた。

 ヘンルセンはどうも元来人形が相当好きな様子で、一度それについて語りだせば中世貴族の箱庭に設置された彼等の話や日本のからくり人形の話、終いにはホムンクルスだとか錬金術にまで話を広げ、私が「もう勘弁してくれ!」と悲鳴をあげるまでとうとうと喋り続けたのであった。

 彼は普段自分の事を指して無口だ無口だと言い、私をして喋りすぎだと言うけれども、どうして、専門の話ともなれば彼の滑舌は止まるという事を知らないのだ。

 しかしまあ私もSFの話であれば矢張り彼同様喋りすぎてしまうのだから、50歩100歩といったところだろう。

 ともあれその話の端で、彼がぽろりと「そういえば、うちにも自動人形がある」と漏らしたのだった。

 その自動人形は雑貨屋をやっていた彼の父がヨーロッパで入手したものを複製した、いわばレプリカだが、中々よく出来ていて、ものを喋り動くという。

 是非見てみたいと言ったのだが、その時は専門の職人の所へ修理に出しているといって断られたのだった。

「直ったのかい?それが!」

「まあそういきり立つものではない。そんながっついた顔をしていては、人形も驚いて逃げ出すだろう」

 彼はカッターを片手にいつも腰掛けている番台から降り、梱包してある紐を切りにかかった。包みをひっくり返したり、紐を解いたりするので私もそそくさと手伝う。

 現れたのは、矢張り棺桶を彷彿とさせるプラスチックの大きな箱であった。

「開けるぞ」

 ぱき、という乾燥した音とともに蓋が開かれる。肝心の商品は丁寧にクッション材で覆われている。

「乱暴に扱うのではないぞ」

「解ってる」

 慎重にクッション材を取り除いていく。白いふわふわしたものの間から、薄い肌色が垣間見えた。

 息を呑みながら、私は作業をする手を早める。

 透き通るように白く滑らかな肌。流れる金糸の髪。確りと組まれた両手…。

 棺桶の中で眠っているのは、血の通った一人の女だった。


 美しい。


「な…」

 言葉を失う私の横で、ヘンルセンは事も無げに人形を抱え上げた。とびきり細い髪の毛が鼻先を擽る。樟脳のような匂いが少し、した。

「スイッチはどこか…ああ、ここだ」

 ぶん、と軽い音がしたように思えた。

 女は静かにその両眼を開いた。ぎこちなさなど欠片もない。

「…坊ちゃん」

 澄んだソプラノは辛気臭い店内にそぐわない。発せられた言語は意外にも日本語だった。まあ、レプリカだというから、その辺は改造してしまったのか。

 ともあれ、女は嬉しそうにヘンルセンを見ると、一度ガラクタでごったがえす店内を見回してから、私に目を向けたのであった。

「ああ、もうこんなにとっ散らかして…あれ、こちらお友達ですか?」

「紹介しよう」

 まさしく狐に抓まれたような間抜け顔の私を心地よさげに一瞥し、店主が言った。

「金糸雀、これが当店の目玉商品、アサキ=ヤートリューアだとも。アサキ、これは友人の金糸雀恭太郎君だ」

「よろしくお願い致します、カナリヤ様」

「う…ああ」

 ぺこりと頭を下げる自動人形に、私は僅かな呻き声しか返せなかった。



 「やあ、驚いたな本当に。これでは俺の領分だよ」

 暫くたつと、順応力に欠ける私もこの状況に馴れてきた。いつもの軽口が飛び出す。

「まったく普通の少女じゃないか。無機物にしても精々アンドロイド、といった所だな。なあ、このお嬢さんは確かに人形かい?」

「疑念があるのならば、調べてみても構わないとも」

 店主が珍しく、からかうような視線を私に投げた。

「但し、貴様に人形とはいえうら若き乙女の肌に触れる勇気があればの話だけれども」

「あのなあ、そのくらい…」

 言いかけて少女と眼が合った。花も綻ぶ可憐な笑顔に己の下心を見透かされたかの如き疾しさを覚え、そのまま口を噤む。照れ隠しに俯いて、眼鏡のフレームを押し上げた。

 それにしても綺麗な少女だ。不自然な所は何も無い。

 これを創造したものが神ではなく人だとするならば…そこには背徳の匂いがつきまとう。明らかなる神への反逆だ。

 こんなもの人が造れる筈が無い。こんなものを造れる者なぞ、その時点で人ではない。

 ………では何だ?神か、悪魔か?

 頭を占めた不吉な思考を振り払う為、無理に明るい声を出して叫んだ。

「…そうか、解ったぞ!ヘンルセン、お前俺を驚かそうとして一芝居打ったな?こんな四角い箱をわざわざ誂えて、知り合いのお嬢さんに演技して貰ったんだろう!お前には珍しい手の込んだ悪ふざけだが、そう簡単には騙されは…」

 違う。

「馬鹿者め、誰がするか、そのような下らん事」

 店主はあくまで生真面目に否定する。

「じゃあ、彼女は本当に人形だと言い張るのか?」

「あのなあ。第一貴様を騙そうにも、今日貴様が当店を訪れるなどという事を端から私は知らなかっただろうが」

「あ、そうか」

 彼の玩具店は余程の事が無い限り年中無休で営業をしている為、常識的な時間に訪れれば大概開いている。故に私は思い付きで彼の店へ立ち寄る事が殆どで、事前に連絡など入れぬのが常である。

 これでは、悪戯をするのにも前準備のしようがない。

 …ならば、眼前の少女は矢張り彼の言う通り…人形、か?物質に過ぎない物質が、生命を持ち、心を持ち、動いているというのか?

「馬鹿な!」

「何を驚く事がある。人形が生命を持って何が悪い。人間だって突き詰めれば蛋白質の塊に過ぎぬのだぞ。蛋白質が生命を持つ事を思えば、鉱石や宝石が生命を持つ事だとて、其程意外では無いだろうに」

 ヘンルセンは泰然として言い放つ。尚も釈然としない私は食ってかかる。

「意外だよ!第一、無機物に生命を与えるなんて、まるで…」

 私はそう言い店主の肩を掴もうとして…口篭もった。我ながらあまりにも非常識な言葉だったからである。だが、店主はそれを促す。

「まるで…何だ?」

「まるで、神の所作じゃないか」

 言い捨てて私は、はっ、とした。

 ヘンルセンの瞳が、まっすぐ私を見つめている事に気付いたからである。

 彼の眼は閉じていると見紛わんかの如くに細められ。彼の眉は顔の上部で急激な弧を描き。躊躇と侮蔑の入り交じった表情で私を眺めていた、その表情は、漠然とした不快の情を彼が感じている事を顕していた。

「違うんです、私は本当に…」

 主人の異変を嗅ぎ取り、人形に化けた娘が何か言いかけるが、ヘンルセンは無言のままそれを圧し止めた。

 形容の困難な表情を固めたまま店主は、ただ、一言言った。

「確かに非現実的だろうな。貴様にとっては。…でも私には、然程信じられぬ話でもない」

 彼は傍らに置いてあった煙管を、私に向け傾けた。

「物質には本来全て意志がある。この煙管とて、今、我々と同じように思考しているのだ。だが、その思考力は我々の数百万分の一しか無い。何故なら無機物には元来『抑制力』というものが働いていて、そいつが思考力を弱めているからだ」

 ときに!、とヘンルセンは突然語に抑揚をつけた。淡々とした口調に慣れつつあった私は、びくりと肩を震わせる。

「その『抑制力』を取り去ってしまったらどうなる?あるいは、その思考力を何百万倍にも増幅してやったら?…その時点で無生物は我々と同じになる。動力機構を与えれば自ら動く。発声機構を与えれば喋る。『魂』を得る訳だ。そして私の友人である『専門の職人』は、件の物質抑制力を取っ払ったり、思考力を増幅したりする巧い方法を知っている。…それだけだ」

「そ、そんな…」

「神聖化する事はないだろうに。それはただの技術だよ。」

「た、ただの技術って…」

「私が前居た所では、至極あたりまえのものだったがね。…そうか、ここではあたりまえでないのだな」

 珍獣でも見るような眼差しで、私を眺めた。

 なんなのだ、この態度は。まるで、超越者ででもあるような振舞い。

 …そこで、私は急に眼前の友人に疑問を感じる。

 私は、彼、ヘンルセンについての知識を全く持ち合わせて居ない。玩具屋の店主であるとか、童顔であるとか、水みたいに薄いカレーが好きだとか、そういった表層の部分はよく知っているのだが、彼がどこで生まれ、どんな風に生き、何を思って玩具屋をやっているのか、そういった根本的な事は全く知らぬのだ。

 にしても多岐分野を網羅し尽くしたその知識、原理も不明なままに動き続ける悪趣味な玩具達、更には、物に魂を与える術すら当然の如く行える彼の友人…。

 理解のつかない事柄全てが私の脳内で渦を巻く。

 そんな人間、この世界に一人たりとて居るもんか。

「へ、変な冗談云うなよ!」

 私は叫んだ。

 こめかみを一筋、汗がつうと落ちる。

 そうだ。そんな人間居る筈が無い。きっと性質の悪い冗談に決まっているんだ。

 冗談に…………

 …………。

 …………………もしも。


 『もしも、彼が人間じゃなかったとしたら?』


 そう考えた途端、背筋に冷水をぶっかけられたような恐怖を感じ、私は立ち竦んだ。

 例えば、彼が何だか凄く科学の進んだ星から来た異星人だったとしたら?

 或いは時間移動をして、過去に紛れ込んだ未来人…。異次元からの来訪者…etc、etc。

 余りに子供っぽい空想だ。だが、真実を知らぬ以上、間違いだと切り捨ててしまうこともできない。

 友は無表情にこちらを見ている。

 私の動揺を見透かしている様だった。

 ヘンルセンはふう、と溜息をついて。


 そして笑った。


「ははははは。悪いが、確かに冗談だ」

 呆気にとられた私をそれは嬉しそうに眺めて、もう一度大声で笑った。

「あはははははは」

「じょ、冗談て…」

「もう一度紹介しよう。こちらの女性は、昔、父の雑貨店の手伝いをしてくれていた方のお嬢さんでな。ドイツに住んでらしたんだが、丁度日本に来るというのでお願いして一芝居打ってもらったのだよ」

 娘は、少々戸惑った顔付きのまま、ぺこりとお辞儀した。

「へ…だ、だって君、俺が来店するなんて知らなかったと…」

「多分気付いてないだろうが、貴様は締切が過ぎてきっちり三週間後には、きまって当店を訪れているのだよ。罠の仕掛け時も、まあ自明という奴だな」

 ああ、悲しいかなA型気質。云われてみれば、前回ここを尋ねた時も締切三週間のちだったか。

「そ、それじゃあ俺は完全に君にしてやられたんだな!?」

「その通り!だが感謝していただきたい。若い美人との出会いを、粋に演出してやったのだからな。貴様の職業では第一、若い女性と知り合う事なんてなかなか無いだろうが」

「確かに、そりゃそうだが」

「美人なんて、そんな…」

 言ってふとアサキの方に目を向けると、彼女もこちらを向いてはにかんでいた。何だか照れ臭くて、無為に上を向いてしまう。

「そそ、それにしたって性質の悪い冗談じゃないか!今度から君の云う事になど髪の毛一筋の真実も無いと思わなければな」

「馬鹿者め、普段言論を真理で固め尽しているからこそ、このような荒唐無稽な嘘が真実味を持つのではないか。仮に貴様がこんな嘘をついたとしても決して私は信じぬな」

「何だよ、他人を大嘘吐きみたいに」

「おや?」

 ヘンルセンは小首を傾げた。

「元来小説家とは、スケールの大きな大嘘吐きでなくてはならぬのではないかな?」

「ぐ」

 私は詰まった。

「坊ちゃん!折角のお友達を苛めては駄目でしょう!?」

 いささかずれた助け舟を出したのは金髪の娘であった。

 どうやら彼女、吹けば飛ぶような見てくれに似合わず相当気が強いらしい。

 まるで幼稚園児を叱る保母さんといった口調に肩透かしを食らったのか、ヘンルセンも頓狂な顔付きで押し黙ってしまった。

「申し訳御座いませんカナリヤ様、ニール坊ちゃんは今まであまりお友達が居なかったものだから、ひねくれちゃってるんですよ。」

「何を、下らぬ讒言を」

「ほら、意地張ってないで!」

 アサキは店に転がっていたプラスチックの残骸をテキパキ片付けると、店頭で誇りを被っていた矢鱈に重厚そうなテーブルセットを中央に据えて、台所に埋まっていた紅茶の葉とティーポットと私がお歳暮に送ったクッキーで、素早くおやつの準備を整えた。

 あまりの手際の良さに、呆気にとられている私とヘンルセンを顧みて、彼女は可憐に笑う。

「さ、お茶にしましょう」

 明るくて良い娘だ。そう思い傍らを見ると、店主もまんざらでもなさそうな顔で鼻を鳴らしたのであった。

「ふん」



 思わぬ持成しを受け、それから私はとっぷり三時間も彼の玩具屋の店内で話し込んでしまったのであった。

 やっとこさ帰路につく頃、容赦無い夕闇は偏執狂通りを薄青紫に染めてしまっていた。

「晩御飯を召し上がってからお帰りになれば良いのに」

「其程急いだとて家で待っているのは原稿用紙の白い枠だけだろうが」

「いや、生憎今日は親戚の家に寄るついでとかで、母が訊ねて来る事になっているんだ」

 ご期待に添えなくて申し訳ないがね、と付け加えると、ヘンルセンは一寸顔を歪ませた。

「全く、可愛げの無い奴だ」

「お互い様だろ」

 二度と来るな、と言われ、また来るさ、と言い返して私は店を出た。

 冷たい夜道を歩くうち、私は大分冷静さを取り戻していた。

 やはりあの娘は自動人形などではなく、ヘンルセンは多分ドイツ出身で、永久機関も神に限りなく近い技術とやらも全て嘘であったのだ。

 当たり前の事なのだが。…私は、明らかに落胆している。

 或いは友の異端を、信じて居たかったのかも知れない。

「…馬鹿な、夢想家にも程があるだろう」

 ひとりごちて己の掌を見つめた。輪郭がぼやけている。

 そこでやっと、私は視界がひどく不明瞭である事に気付いた。

「ああ、眼鏡忘れて来たんだ」

 紅茶をいただく時、曇るからと外してそのまま忘れてきたらしい。急いで踵を返した。

 紺色の空から、矢張り不明瞭な月が睨んでいる。夜の帳に包まれた偏執狂通りは、少々不気味であった。今にも暗闇に四肢を奪われ、からめとられてしまいそうな気がする。自然と歩調も速くなる。

 目的の店の曇り硝子からは煌煌と白い光が漏れていた。私は引戸を威勢良く開けようとして…そこで、留まった。

 戸のあちら側で、言い争っているような声が聞こえたのだ。

 さては、痴話喧嘩の最中か?

 悪いと思いつつも、次に来るときこれをネタにからかってやろう、などと浅ましくも考え、私は聞耳を立てた。

 だが、思惑は外れたようであった。


 …冗談にしてしまってよいのですか。

 殆ど悲鳴のような、高い音が耳に届いた。私は、息を呑む。


 …良いんだ。

 癪に障る程単調な声が続く。機械で合成した電子音でも、ここまで無感情にはなるまいと思わんばかりの。

 …別に彼奴に私達の事を語る必要性など無いだろう。彼奴にとって私は変り者の友人で、お前は私の知人。そういった肩書きさえあれば、それで良いではないか。真実に私が何者で、お前が何物であるのかなぞ、所詮彼奴にとって理解する必要の無い事柄であるのだよ。

 …でも、じゃあ何故貴方はそもそも教えたのですか、私が人形だと。

 …本当は、理解して欲しかったからじゃ無いのですか?


 ………頭を抱えた。

 この会話は、一体何だ?この二人は何を話しているんだ。

 一度否定した筈の仮定が。先程まで薄っぺらい嘘として片付けられていたものが、急激に厚みを得、実在感を持って脳内を占拠する。

 馬鹿な!じゃあ、あの娘は矢張り、友人は矢張り…。


 …そうかも知れないな。

 …あまりにも長く一人で居過ぎた。少々疲れたのやも知れぬ。なあ。

 少し、間があった。


 ……お前を造ってから、もう三世紀も経ってしまったよ。


 私は耳を塞いだ。そうして一目散に駆け出した。

 何処をどう走ったのか覚えていない。ちゃんと帰れたのが不思議だった。

 下宿の暗褐色をした扉にもたれかかりコンクリートにへたり込んで一息つくと、妙に気が落ち着いた。

 あれ以上聞きたくなかった。…いや、聞かなくて良かったんだ。

 その意味を、私は詮索すべきではない。

 仮令彼の友人が人では無く、彼の娘もまたそうであったとしても。

 彼があの古びた店の一画の、カウンターの奥から私の名を呼ぶ限り。

 そして、その横にかいがいしく寄り添う娘の微笑があり、快いソプラノで私を迎えてくれる限り。

 彼等は私の…愛すべき友人であり続けるのであろう。

 彼等の苦悩の末端すら一緒に担ってやる事が出来ないのは、少々淋しいけれども。

「まあ、きっといつかは話してくれるだろうさ。」

 酒のひとつも酌み交わしながら、語り合う時がきっと来るだろう。

 肝要なのは、その時私が彼の話を聞き、なんだそうだったのか、でも大した事じゃないさと豪胆に笑い返すことなのだ。そういった心易さを、きっと彼は望んでいる。

 景気づけに、もう一度呟いてみた。

「そう、さして大した事なんかじゃないさ。」

「何がだ?」

 背後で起こった低い鳴動に、潰れた蟇蛙のような悲鳴をあげて身を捻る。

 其処には、相変わらず仏頂面のヘンルセンがのそりと居た。

「お前、いつの間に」

「そう云う貴様こそ、この寒いのにアパートの入口に立ち竦んで先程からぶつぶつぶつぶつ。気味の悪いのもいい加減にしなければ、嫁が来ないどころか終いには変質者だと大家に通報されるだろうに」

 これでもかけてもう少し己の姿を見つめ直すのだな、と差し出したのは、私が忘れて行った件の眼鏡であった。

「と、届けに来てくれたのか」

「なに。あれが届けろと煩くてな」

 面倒臭そうに緑の頭を掻き毟り、では、と片手だけ挙げて店主は鋼鈑で出来た安アパートの階段をカンカンと降りていく。

 呆気に取られて礼も云わず、ぼうっと見ている私をもう一度彼は振り向いて、

「まあ、その、何だ、また暇になれば来るが良い」

 ともぞもぞ喋った。

「あ、ああ」

 私が所作無げに片手を挙げると、ヘンルセンは綿入れを翻し変ちきりんなスクーターに飛乗って(といっても、実際には実にのろのろとした動作であったが)帰って行ってしまった。

 そうして、部屋に戻り電灯を点けてからやっと、私は彼がひどく照れていたのだと云う事に気付いたのであった。


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