ベン・ヒー
私が今いるのは公園の中にある公衆トイレ、その真ん中の個室だ。
そこで、私は今たたかっている。自分自身に戦いを挑んでいる。
今思えば、今日に限って仕事仲間と飲んだのが不味かった。『打ち上げだから』そんな甘い言葉にツイ誘われたのだ。いや、飲んだ事はまだいい、問題は食べた事だ。食べたせいで今、私は便意に襲われているのである。
私がなぜ便意に襲われるのを恐れているのか? それは私がかなりの便秘持ちだからである。便秘ープルだ。これは私が勝手に作った造語だ。
かれこれ十数分、格闘していただろうか? 本当は出るモノなどないのではないか? そんな疑いを持ってしまう程に、今回のブツは頑固だ。
フ、いいだろう。ソッチがその気なら、そろそろ私も本気を出そうではないか。ククク、もう容赦はせん覚悟しろ!
酸欠になりそうなほどに、いきむ。すぐに物凄く頭が痛くなる。だがここで気を緩めたら負けだ! きっと今、私の顔は真っ赤だろう。だが、ここで気を緩めてはヤツはまた深淵の彼方に引っ込んでしまう。とにかく下腹部に力を込め続ける。心臓がドクドクと脈打つ。気が遠くなっていく。クソッ! もうダメだ!
その時、
暗闇に潜むあいつが顔を出した。その先端が飛び出た。見えないが顔を出しているのがわかる。長年の感覚でわかる。間違いない、確実だ。
「フッハアアアアアアアアァァ」
止めていいた息を吸い、大きく吐き出す。空気を一気に取り戻す。酸素が肺を満たしていく。気持ちいい。嗅覚が復活し、酸っぱい臭いがツンと鼻をくすぐる。臭いが、場所が場所だ、仕方ない。
「ふぅ」
山場を乗り越え、私はホッと一息ついた。
長期戦になるかもしれないが、奴は顔をだした。弱点を晒したのだ。あともう少しだ、がんばれ! 私の括約筋!
とりあえず今は態勢を整えよう。肛門のクールダウンだ。何事もメリハリが大切、押してダメなら――、だ。まぁ押し出すしかないんだが。
そういえば、紙はあるのかな? よくあるのだ、紙がない公衆トイレが。そして気づくのだ、出した後に。後の祭りになるのだ。トイレの紙がないあるあるだ。
私はトイレットペーパーが備え付けられているであろう、右側に顔を向けた。
その時――――、
トイレットペーパーがあった。いや、あったのは勿論よかったのだが、そうじゃない。それ以上に気になる物が目に入った。それはマジックで書かれたいたずら書きだった。
『早くしないと、あいつが来るよ』
ん? なんだこれ? あいつ? 誰だ? 何のことだ? 待ち合わせの相手か? 誰に向けたメッセージだ? というよりここに書いてもな……。なんだか気持ち悪いな。
おや? メッセージはもう一つ書いてあった。
『あいつは左から来るよ』
え? 右からじゃないのか? ちょっと前にそんな芸人がいた気がするが。関係ないか。
私は念のため、受け流す準備をして左を見た。
またいたずら書きがあった。
『あいつは下から来るよ』
私は背筋が少し寒くなったのを感じた。たぶん、その寒気は尻を出しているからだけではない。
なんだそりゃ、さっきは左からと言っておいて、今度は下だと? まったく大人をからかうんじゃない。だが――、お尻の下がどうにも気になる。もし――そこからなにか――。いや、そんな事あるわけない! まったくバカバカしい!
そう思いつつも、私はなんとも言えない焦燥に駆られた。何かに追いかけられているような圧迫感に、潰されそうになる。見えない存在に追い立てられる感覚に襲われる。
このままじゃだめだ。ここにいたら重圧に潰される。何かにやられる気がする!
私はヤツとの戦いを再開した。
力の限りいきむ。息を止め、全力で押し出そうとする。隙間を抜けて空気が出る。空気だけが私の奮闘に音を上げたように吹き出す。だが顔を出した奴は一向に出てくる気配がない。ダメだ! 空気だけだ! もう血管が破れそうだ。頼む! 早く出てくれ! 私のアレよ!
「くっ!」
ダメだ。
私はマラソンを走った後のように荒い息を吐く。
くそっ! 私の肛門の守りは硬すぎる。まるで鉄壁だ! 平成の小田原城だ! こんな所にあったのか!? 誰か! 助けてくれ!
もうギブアップだ!
もうこんなの堪えられない。私は覚悟を決め、再び左を見た。
『あいつは下から来るよ』
いたずら書きは変わらずそこにあった。
負けるものか、私はこんな事には屈しない! 確認してやる! 確認してやるぞ! 確認して、安心感を得たら、また再戦だ!
「くっ」
私は恐怖を噛み殺し、下を見た。すると――、
『ヌッ』
左側のトイレの隙間から、白い物を乗せた手が出てきた。
「いぃっ?!」
私は生まれて初めてのパターンの特殊な悲鳴を上げた。防御姿勢を取り右側の壁に体をぶつける。
『あ、すみません、トイレットペーパーありますか? 無くて困っているのかと思ったので』
私は急に恥ずかしくなった。私は息を整え、
「――す、すみません、ありがとうございます」
私はトイレットペーパーがあるにも関わらず、思わず受け取ってしまう。
『いえいえ』
そう言うと隣の男性は水を流して、トイレを出て言った。
なんだよ、脅かしやがって、ハァ……。でも良かった。全く、殺されるかと思ったよ。まぁ隣の人も、脅かす気は無かったのだろう。私も大人だ、水に流そうじゃないか。
よぉし、落ち着いたらまた戦闘だ。今日は長い戦いになりそうだ。今の内に妻に電話しておくか――。いや、ハハハ、私に妻なんていないじゃないか。ダメだな、今日の私はちょっとおかしい。
「ふぅー」
ん? 落ち着いて見てみると、渡されたトイレットペーパーには、何か書いてあった。
『逃げて!』
私は再び背筋がざわつくのを感じた。
もう、沢山だ! もう勘弁してくれ! 私が何をしたって言うんだ?! 堪えられない! もうこんなとこにはいられない!
私は出来る限り自然に、立ち上がり、ズボンを穿いた。ゆっくりとした動作をしつつも周囲を警戒する。何時ものように水を流すと、ドアを開けてトイレを出た。途中で手を洗っていない事に気づいたが、もうそんな事はどうでもいい。とにかく離れたい。一刻も早くここから逃げたい。
トイレの外に出ると、見知らぬ男性が立っていた。
私はビクッとその場に硬直する。
やばい、不自然に立ち止まってしまった。どうすればいいんだ! どうする!
「あの……。さっき隣に入っていた者です、大丈夫でした?」
「え? あぁ、その説は――」
「トイレの上にいたんです」
「なにがです?」
「ナイフを持った人が覗いてたんです」
私は血の気が引いていく音をたしかに聞いた。体温が一気に下がり、ゾクゾクと体を震わせる。
私は振り返り、公衆トイレに目を向けた。すると、
トイレの影から誰かがこっちを覗いていた。長い髪で顔を覆い隠し、目だけをのぞかせている、真っ赤なドレスを着た女だった。そして――、
こちらに向かい、猛然と走ってきた!
「ひぃっ!」
私はなんとも情けない声を上げてしまう。
すぐに逃げようと、駆け出す――が、
あぁっ! ダメだ! うまく力がはいらない!
トイレだ、自分との闘いで消耗しすぎたのだ。なんてことだ、こんな時に限って!
たまらず『がくんっ』と、体勢を崩す。
私は腰が抜けてその場に転んでしまった。倒れこんだ私の目に映ったのは、私に危険を知らせてくれた男性が、一目散に走り去っていく背中だった。
あぁ、待って、待ってくれ。頼むよ、置いて行かないでくれ。頼む。頼む。頼む!
目頭が急激に熱を帯び、とうとう一滴の欠片が頬を伝い落ちた。
あぁ、そんな……。終わり――か、終わりだ。私の人生はここまでだったのだ――。あぁ、すまない母さん、とうとう孫の顔を見せる事が出来なかった。でも、こんな私を生んでくれてありがとう。先立つ不孝を――。
『ザッ』と、地面を踏み鳴らす音が聞こえた。
すぐ後ろにいる。立っている。
神様――どうか、ひと思いに――――。
「ファンなんです! サインくさい!」
「へっ?」
我ながら間の抜けた声。一瞬あたまが真っ白になった――が、背後の人が、興奮のあまり噛んでいたのを思い出す。
私はなんだか笑ってしまった。
振り返ると、そこには色紙と万年筆を差し出し、頭を下げる女性が居た。
「はい、いいですよ」
私はキリっとしたキメ顔を作ると、自慢のバリトンボイスで決めた。
気を許した途端、私の肛門からポロリと何かが落ちた。