前日譚・邂逅
ーー冬の凍てつく寒さの様な彼の笑みは、私を震え上がらせた。
男は語る。小説などにはなり得ない、陳腐な物語である、と。
男は嗤う。全ての始まりは、たった一つのミスだった、と。
*
5年前。
4月。春の風が吹いていく。真新しい制服に身を包んだ学生達の笑い声を風がさらっていく。緩やかな上り坂の先の白く大きな校舎は、坂を登る学生達を見下ろしていた。
「おはよ」
短く挨拶をした小柄な男は栗毛の髪を風に揺らしている。進藤ハルキといった。母親がヨーロッパのとある国の出身で、母譲りの透き通るような白い肌は、頬の桃色をより一層目立たたせていた。大きな目には、長い睫毛を蓄えられている。
一方、挨拶を受けた男.高山尚之は180センチを超える細身の男で、視線を落とすと手を挙げて応じる。
彼らが出会ったのは、半月ほど前だった。
私立松ヶ丘高等学校。8年前までは男子校だったこの高校は、今では女子生徒が半数近くを占める共学校になっている。半月前に執り行われた入学式では、新入生達が緊張した面持ちで、式に臨んでいた。そんな新入生とは裏腹に、上級生たちは品定めするように新入生を見回すと、小さな声で談笑する。ごく普通の入学式の光景が広がっていた。
綺麗な顔だと思った。初めて会うハーフの人間を尚之は興味深げに見つめた。そして、「ああ」と小さく声を漏らす。妹が小さい頃大事にしていた人形のような顔立ちに似ているのだと思い当たる。そんな尚之に気づいたのか、ハルキは小さく首を傾げるとくしゃりと笑った。2人の視線がかち合う。
それが2人の出会いだった。
ーーそれでもまだ物語は始まらない。
新入生の高校生活1日目は、緊張感と高揚感に満たされながらせわしなく過ぎていく。初めて会うもの同士が、ぎこちなく会話を交わす。2人も例に漏れることはなかった。
「いいね!高身長!羨ましい」
ニコニコと笑う同級生に少し困惑する。席についている尚之は隣に立つハルヒを見上げた。「ああ、別に……」とだけ答え、視線を外した。
今まで交流してこなかったタイプの人種である。目の前の純粋そうな男をチラと見やり、ごく小さく唸った。どうしたものか。これほどまでまっすぐで綺麗な視線を受けることはなかった。得体の知れない謎の後ろめたさが押し寄せてくる。
「ねえ!連絡先交換しようよ。いいでしょ?」
どこまでも明るい声。少し鼻にかかった高めの声。大きな瞳がキラキラと輝いている。
尚之の携帯電話に進藤ハルキの名前が映し出される。
「じゃあ、よろしく!」
「ああ、よろしく」
尚之は携帯電話を閉じた。パチンと小さな音は教室の喧騒に消えていく。
太陽はまだ高いところで光を放っていた。校庭の隅にあるポプラはサワサワと揺れている。ハルキの硝子玉の様な瞳は、揺らめくポプラの影を捉えていた。楽しそうに口唇を引き上げる。
「うん。楽しくなりそうだ」
彼の独り言は風に乗る。しかし、誰の耳にも届くことなく消えていった。
ーーそれでもまだ物語は始まらない。
*
男は語る。あの時に戻れるのなら、若き日の私を止めるだろう、と。
男は嗤う。あの時に戻れたとしても、物語は止められないだろう、と。
男は語る。小説になり得ないこの物語は、初めから破綻していた、と。
男は嗤う。それでも私は、あの男と共に在るのだろう、と。
2人の男の物語。或いは、巻き込まれた誰かの物語。