048.toy
ジュードには愛した女がいた。シャーロット・ウィンスロップ、姿見も気心も優れた女性であった。ならず者同然のジュードを、まるで母親のように叱り、また母親のように愛してくれた女性だった。心の奥底に封じ込め、二度とは開かぬと決めたジュードの様々な感情を解き放った女性だった。男として愛し、愛されたいと望み、子どものように必死になったジュードを、受け入れてくれた女だった。
(俺は、あいつがいたから人に戻ることが出来た。人でなしから人に戻ろうと思えた。……)
余りに眩しく、自分が手にしていた事が信じられない温かな日々。隣で時には母のように、時には少女のように笑う美しいシャーロット。様々な記憶の断片が、ジュードの心にぽっかりと開いていた空白をステンドグラスのように埋めていく。
そのステンドグラスの間に、闇が走る。清廉な身体を、高潔な心を冒涜され、食い散らかされた彼女の残骸を前にした絶望が溢れた。無残な躯を掻き抱き、息する事さえ出来ずに震えた瞬間の、絶望を。
「Ahhhhhh!」
ジュードは吼えた。食い千切られた腕から溢れる血は心から溢れ出す怨讐の闇と変わり、新たな腕を象る。瞳は赤黒い輝きを放つ。両の脚で踏ん張り、ジュードは目の前に立つケルベロスに向かって突っ込んだ。ケルベロスの爪を掻い潜り、一陣の風のように闇の腕を振り薙ぐ。鋭い鎌のような形へと変わった爪は、ケルベロスの横腹を鋭く引き裂いた。どす黒い血が溢れ、ケルベロスは三つ首でキャンと鳴く。闇に纏わりついたケルベロスの血を舐め取り、ジュードは呟く。
「思い出した。全て思い出した。俺――違う。私が地獄に入る道理なんぞあってたまるか。私は、還る。あれらを塵一つ残さずに叩き潰すまで、地獄に堕ちて堪るか。私の女を玩具のように扱いつくした奴らを、私は皆纏めてこの地獄に叩き落とすまで、私はここには甘んじてなどいられない!」
ケルベロスが背後からジュードに突っ込む。その眼はどこか挑むように輝いていた。ジュードは振り返ると、正面からケルベロスに突っ込み、闇を口蓋の中へと押し込んだ。牙で腕や胸が引き裂かれ、鮮血が滲む。
「私の腕、返して貰うぞ。狗め!」
闇はケルベロスの胃の腑で刃となり、鋭くその肉を引き裂いた。それが断末魔の叫びを上げる間もなく、バラバラの肉塊になって地面に落ちる。鮮血が驟雨のように飛び散り、黒い地獄をどす黒く染めた。
「……」
落ちた三つ首は、ぎょろりと眼を剥き、ジュードを見上げた。何かものを言いたげに、目をぎらぎらさせて彼を見上げた。地獄の番犬に堕ちても隠し得ぬ気高さを潜ませて、ケルベロスは彼を見上げた。ジュードはバラバラの肉塊を見下ろし、訝しげにそれを見つめる。
「何だ。何が言いたい……?」
「……」
ケルベロスは不意にその身を闇に溶かし、ジュードの右腕に纏わりついた。それは新たな肉となり、ジュードの右腕を形作る。その右手に、それの心臓を握らせて。
「……喰えと、言うつもりか」
ジュードは今なお拍動を続ける心臓を掲げ、口へと運んだ。まるで錆を舐めるような味がする。鉄を舐めるような味がする。その悍ましさに、彼の人間としての何かが、食べてはいけないと告げている。だが、ジュードはその何かを心の奥底に叩き込み、覆いをかけた。シャーロットを失ったその日から、また自分は人間でなくなったのだから。人間であることに端を発する恐怖など、もう必要は無かった。
彼はその瞬間、『闇に生きる者』となった。