047.世界の終わり
気が付いた時、ジュードは世界の涯にいた。空は闇で埋められ、荒涼たる岩原の裂け目に蠢動する炎だけが生々しい輝きを放っている。
「……ここは」
彼の眼の前には、峻厳な峡谷の間に建てられた巨大な門が聳えていた。周囲では、いかにも人相の悪い人間達が数珠繋ぎになり、闇の衣を纏った髑髏に門の中へ引き立てられていた。いつかどこかで聞いた場所、地獄そのものの有様だった。
『この門を潜る者、一切の望みを棄てよ』
門に刻まれた文字を見て、意識も朧げなジュードは理解した。不正義に生きてきた自分の年貢の納め時が、遂にやってきたことを。
「そうか。俺は遂に死んだか」
とはいえ、彼を縛る物は何も無かった。手を引く死神もいなかった。全世界の悪人が次々地獄へと突き込まれていく中、彼だけは一切自由にされていた。
不審に思わないことも無かった。しかし、神を畏れる事も無かった自分が地獄へ堕ちぬ道理は無いとも思った。彼は、妙に痺れた感覚の手足をどうにか動かし、悪人の群れに混じって地獄の門を潜ったのである。
神に中立を決め込んだ怠け者が地獄前域に取り残され、アケローン河を小舟で渡り、辺獄を越えて、彼はとうとう一人の裁く者の前までやってきた。その名はミノス。彼こそが、真の大罪人に償うべき罪を言い渡す者であった。
彼は手元にある罪状をざっと見渡し、目の前に並んだ罪人達を様々な地獄へと割り振っていく。一切合切抗する事は認められない。神の名の下の裁きは絶対であり、従うほか無いのである。
ジュードもまた、その裁きを受けるべくミノスの前へ立った。だが、ミノスは何も言わない。目の前に立つ亡者達を次々と裁きながら、ジュードには一暼すらやらなかった。ジュードにはわけがわからない。どの存在も、彼を認識しようとしなかった。認識されないのでは仕方ない。ジュードはただ流れに身を任せることにした。目の前でたった今裁かれた男の後をついていくことにした。その男の身体はでっぷり肥えて、暴食の罪を犯したに違いなかった。
流れに従いながら、ジュードは自らの人生を振り返ろうとする。しかし、ぽっかりと記憶に穴が開いている。漠然とした不満の中に生き続けてきた人生の中、とても大切な事を忘れている気がしていた。暴力を暴力で打ちのめすばかりの人生。それに対して不満など無い。屑の自分には相応しいと思えた。
しかし、彼は言葉では説明できない虚しさを感じていた。失ってはいけないものを失っている。そんな気がしていた。
歩き続けた果てに、ジュードは悲鳴をその耳に聴き始めた。どこか呆然としたまま、眼前の肥満体と共に悲鳴のする方へ進んでいく。肥満体はしばらくちゃんと歩いていたが、やがてびくびくと震えてその歩みを止めようとする。既に空の分厚い雲から雹と雨が激しく降りしきり、汚泥の上に河を作って悪臭を運んでいた。第三の獄、冷たき雨の獄だ。
「ひぃ……」
悪臭の正体は間もなく明らかになった。汚泥の中に流れる川には腐った血肉が混じっている。その流れる元を追い――ジュードは見た。彼方で罪人たちをバラバラに引き裂いていく三つ首の獣達の姿を。
「ケルベロス……地獄の番犬」
ぽつりと呟くジュードの背後から不意に影が差す。振り向くと、一頭のケルベロスが、目をぎらぎらとさせてジュードを見下ろしていた。亡者たちも、ミノスも認識していなかった彼の事を、ケルベロスはその目に確かに捉えていた。
ケルベロスは涎を滴らせ、目を血走らせて吼える。虚しい彼の心の奥に、何かが去来する。その何かが掴めないうちに、右腕をケルベロスに喰われていた。
「ぐぅ……」
血を噴き出しながら、ジュードは横ざまに倒れ込む。焼けつくような痛み。それが、彼に一つの感情をよみがえらせた。
全てを失った痛みを。