038.非幸福論
丘に咲き誇る闇と魔に彩られた地獄の大樹。何百ものハルピュイアはその枝になる肉に群がり、可憐な少女の顔を歪めて肉に喰らいついている。肉が千切られるたび、天を仰ぐ魔の首は悲痛な絶叫を上げ続ける。本物の地獄から持ち出しされた激しい責め苦に、毛を総毛立たせて震える魔は懇願した。
「もう嫌だ! もうやめてくれ!」
「何を言っている、怠惰魔カスール。まだ一万回貴様の命を奪っただけだぞ。二万回でも、三万回でもまだまだ貴様の命は奪ってやれる。貴様が這う這うの体で虚無へと逃げ帰り、二度とその醜い姿をこの世に見せたくないと思うまで!」
ジュードは煙を吐き出しながら、心底歪んだどす黒い笑みを浮かべて魔がハルピュイアに喰われ続ける姿を見上げていた。
「ああ……! こんな、こんな事が!」
丘の上で繰り広げられる惨劇を目の当たりにし、吸血鬼とされた哀れな女ヴィヴィアン・ウェステンラは絶叫した。その脳みそにこれでもかと焼き付けられていた、在りし命を一つへととりまとめ、新たなる世界をもたらすための準備を進めんとする主への敬愛。主の存在が揺らぎ始めた今、ヴィヴィアンは混乱の境地に陥れられていた。
「ああ! 一体何が、何が……どうして、こんな! 私達の領地が、どうして、こんな……」
頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回され、ヴィヴィアンは戦いを半ば放棄してその場に膝をつく。彼女をがんじがらめに縛り付けていたものが緩み、彼女が失っていたはずの感情が甦る。悲しみ、苦しみ、絶対的な力に対する恐怖。ヴィヴィアンはかたかたと小刻みに震え始めた。
その背後で、レオもまたすっかり青褪めていた。地獄の大樹を見てレオは青褪めていた。炎に巻かれる城の中、杏子色の空から降ってきた形を持たぬ悪魔。大樹の姿は、レオに自分を脅かした悪魔の存在を改めて知らしめる。
「何故……あの『黒い外套の男』が、まさか、あの時の悪魔だったというのか」
身体が震える。手に力が入らなくなる。槍は取り落としかけ、持っているのが精一杯。怯え慄く事しか出来ないヴィヴィアンを、ただ眺めているしかなかった。
「私は……そうだ、私が、こんな事を。神の為に、外から下る神の為に、こんな、惨たらしい事を」
ヴィヴィアンは掻き乱される感情の中で理解した。自分が為してしまった事の意味を、人間として理解した。聡明と称えられた領主令嬢として理解した。かの魔を敬愛する心は根強く植え付けられ、揺るぐことは無い。しかし、そのためにまた愛した民を傷つけた事実が、彼女の心をなお一層恐怖へと駆り立てる。
「ゆるして。赦して!」
ヴィヴィアンはその場から弾かれたように駆けだした。ドレスの裾を振り乱し、彼女は半狂乱の叫びを上げながら藪に向かってただ走る。とにかく、彼女は何かから逃れたくなった。逃げ出したくなった。
「ま、待て」
戦う気力など殆ど失くしながらも、むしろこの場から逃れたいという衝動に駆られながらも、レオはヴィヴィアンの背中を追いかける。憑き物が落ちて弱弱しくなった彼女の背中を。藪の中に飛び込み、茂みを掻き分けながらヴィヴィアンに追いすがろうとする。
しかし、バケモノは人間より遥かに身軽だ。茂みをものともせず走る彼女の姿は程無くして小さくなり、彼方へと消えてしまった。
茂みの中で脚を止め、レオは沈黙する。
(最後の叫びは……誠のものであったかもしれぬ。村人に称えられていた頃の、かの娘の……)
彼女を正体無き怪物にしてしまった魔が消え去ろうとしている今、彼女の中で何かが変わったに違いなかった。追って討たなければならぬと思いつつも、僅かな疑問もレオに湧く。ああなってしまったかの女が、再びこの世に仇為す真似など出来るのだろうかと。
(……否。彼女に植え付けられた瘴気は、再びこの世に災禍を齎す。齎すのだ。……追わねば。奴を)
茂みの中に逃れ、彼を縛った激しい恐怖の感情も再び薄れつつあった。彼は槍を手に握りしめると、踵を返して屋敷の残骸の方へと眼を向ける。災禍に巻き込まれた一人の医師、ギード・ショイアック。彼に一つの祈りを捧げると、再び森へと足を戻し、消えた吸血鬼を求めて歩き出し始めた。
一人の男が、丘の頂上、地獄の樹に向かってひたすら駆けていく。その両腕には十字の刻まれた銀のセスタスが嵌められ、黒いローブの中心には正十字が輝いている。筋骨隆々の肉体は、何をも打ち砕く気迫に満ち溢れている。神の大地の番人、レーヴェ大司教フェルディナントである。
許されない事であった。彼にとっては許されない事なのだ。魔が魔を喰らうなど、あってはならない事であった。魔が魔を喰らえば、瘴気はさらに固く練り上げられ、いよいよこの世を真に脅かすものへと変わっていく。よって、全ては自らの手で滅ぼさなければならないのである。
喩えその魔に世界を滅ぼす気が無かったにしても、滅ぼすのである。
断末魔の叫びと共に、早贄にされた魔が消え失せる。役目を終えた闇の樹木は、地獄の番犬は、地獄の鳥類はまた去り、一人のバケモノだけが取り残される。彼が放った瘴気によってハルピュイアへと歪められていた小鳥が次々に青い炎に包まれ燃え尽きていく中、それに哀れみを抱くでもなく、ただ何もかもが下らないという顔で煙草をふかしつづけていた。
「見つけたぞ、神に仇為す大逆の魔よ! この地には瘴気が満ちた。燃え尽きなければならない。貴様と共に!」
巨象のように地を踏みしめ、拳を固めた一人の護教の士が彼の目の前に現れる。歯を剥き出し、眼を見開き、逆立つ短髪に怒りを込めて、その男は立っていた。
「地獄にあるものは、地獄へと還れ」
「……ふん」
バケモノは溜め息をつき、煙草を投げ捨てた。黒い穢血の中に堕ちた煙草は、縮れて一気に燃え尽きる。
空を割り海を裂くような戦いが、始まろうとしていた。
Part of "LACCO TOWER" is over.
Now Part of "VILLAGE MAN'S STORE" come!
LACCO TOWER編はこれにて終了となります。まさか村の事件一つで一章潰す事になるなんて思ってなかった。三面で話動かすなんてあんまりするもんじゃないっすね。話が長くなりすぎます。とはいえ、第二章そのものはこれで終わりではないです。まあ二章ラスボス編みたいなもんで少々短くはなりますが、ビレッジマンズストア編を挿入します。
待ちに待った(待ってない?)現在作中最強クラスの存在の激突となります。お覚悟。




