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036.仮面

「暴食の魔! かつてこの世の大地すら喰らい、海さえ呑み込んだ暴食の魔!」


 丘の上に現れた巨大な毛むくじゃらの魔を見上げたフェルディナントは、眼を剥いて叫んだ。でっぷりと肥え太ったそれは、何者かと対峙しているのか、自由自在に伸びる舌を振り回している。彼は近づくバケモノを正拳突き一つでバラバラにすると、その固めたままの拳で魔に向かっていく。


「重畳! 重畳! 滅ぼす。全てを滅ぼす! この大地を穢すものは全て滅ぼさねばならない! 世の外に潜みし魔を葬るは千載一遇の好機!」

「ああっ、ちょっと待ってくださいよ」


 怪物の心臓に短刀を突き立てたフランは、立ち去ろうとするフェルディナントに気付いて呼び止めようとする。しかし彼は聞く耳など持たず、獅子のようにのしのしと百鬼夜行の地を踏みしめ丘へと行ってしまった。後には、数も減った食屍鬼に吸血鬼もどきばかりが残される。フランは溜め息をつき、背中に庇うサリッサの方をちらりと見遣った。


「サリッサさん、これが片付いたら私達も行きますよ。あんまりいい予感がしません」

「でも、ジュードさんは一足先に向こうに……」


 サリッサは丘の上の怪物を見つめる。危機が目の前に迫るならともかく、遠目から見つめている分にはさして恐ろしさも感じない。あのジュードならば、程無く打ちのめし滅ぼしてしまうだろうと見えた。

 しかしフランはあくまで真剣な顔をしていた。いつでもどこでもへらへらしていたのが嘘のよう、真剣に唇を結んでいた。


「ええ。あの人ならあれ程の魔もすぐに滅ぼすことが出来ますよ。私が心配なのはその後です」

「その後、ですか?」

「帝国無双のジュードも疲弊はします。消耗もします。ビールの泡が取り除かれる、その程度ですがね。でもこのままでは、そのままでアレに対峙する事になってしまう!」




 魔はぎょろぎょろと蠢く両の眼でジュードを見下ろす。ジュードは全身から白煙を上げ、飛び出さんばかりに見開いた目を白く濁らせ、呻きながらその場に倒れ伏す。口からも泡立つ血をだらだらと溢れさせながら、ジュードは全身を波打たせる。


「ぐ……貴様!」

「熱いかい。痛いかい。僕でもね、ちょっとは怖いからね、やっちゃったよ。君の血を酸に変えちゃった。痛いだろうねぇ、身が焦がされるのは。僕は痛いから、きっと痛いよね」


 べろべろと舌を蠢かせながら、魔はだらだらと呟く。ジュードは呻き、全身を震わせながらも、手を突き、銃を握りしめ、起き上がりにかかる。


「や、まだ起き上がるのかい? 嫌だなあ。面倒だからさっさと僕に食べられておくれよ。その方が僕にとっても君にとっても幸せだよ」

巫山戯ふざけるな」

「考えてもみたまえよ。僕の中に君が愛した者の命は確かに宿っている。だから君も命を僕に捧げれば、僕の中で君達は永遠に一つだ。男と女で分かたれる事も無く永遠に一つだ。永遠の絶頂だ。幸福だ」


 魔はぐるぐると首を動かし、ジュードを嘲るようにのろのろと言葉を紡ぐ。ジュードは目を剥き、とうとう二つ足で立ち上がった。全身を酸に焼き焦がされながらも、彼は銃を構えて仁王立ちし、濁った眼で暴食怠惰の魔を睨んだ。怨みに、憎悪に、哀惜に焦がされつくした身は、今更酸程度でどうにかなりはしなかった。


「ふざけるな。牛を喰ったら牛の命はお前の中に残るのか。羊を喰ったら羊の命はお前の中に残るのか。残るものか。ただお前の汚らしい骨肉へと変わるだけだ。冒涜だ。冒涜だ! シャーロットに対する! お前はシャーロットをお前の穢れた血に変えた。脂ぎった肉に変えた! 決して許さん!」

「おやおや。時ここにいたっても私の本質が理解できていないようだねえ。命を一つに集約し、新世界へと昇華させる私の本質が。やだやだ。そんなになる前から君の眼は十分に痛んでいるねえ」

「黙れ。貴様こそ、私の本質を理解していない」


 言うや否や、彼の全身は業火に包まれ、噴き出す煙を呑み込んでいく。濁っていた瞳は炎の中で澄み切った赤黒を取り戻す。蝕まれ血を垂らしていた全身も、みるみるうちに癒えていく。僅かに魔の目が蠢いた。舌を巻き、低く唸って彼を見下ろす。


「少し考えればわかる事だ。身体の中だけを焼かれるのと、身体の外も中も無く灼かれるのは、どっちが痛いだろうな」


 ジュードは右手に持った拳銃を、左肩に突き付けた。


「さあ、滅ぼしてやる。貴様の肉を貴様の口に押し込んで、シャーロットがどれだけ汚らしいものになってしまったかその身にとくと知らしめながら殺してやる。喰われる事がいかにおぞましく苦しく忌むべきことかその身に焼き付けて殺してやる」


「さあ来い、ハルピュイア」



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