031.傷年傷女
蝋燭の火だけが頼りの地下室。薄い板に脚を付けただけの粗末な椅子にウェステンラは座り、ノミのように縮こまって目の前のナルツィッセ伯を見上げていた。齢三十にしてレーヴェ司教領の一大勢力を纏める若き俊英は、口元に薄笑いを浮かべてはいても、その眼だけは笑っていなかった。
「さあ、ウェステンラ殿、レーヴェ大司教は御自ら貴方の領地に向かわれてしまいました故、代わりまして私が貴方に詰問させて頂くことといたしましょう」
「い、一体何の事をだ」
ウェステンラは垂れた冷や汗で足元に水たまりを作っている。戸惑ったようにおどおどとナルツィッセ伯の様子を窺う彼には、神に逆らおうとする野心など一切無いように見えた。それに気づかぬナルツィッセ伯ではないが、彼は相変わらずの顔でウェステンラの皺だらけの豆みたいになった顔を覗き込む。
「いやですねえ、わかっている事ではありませんか? 貴方の御令嬢、確かヴィヴィアンという名前でしたね? 最近の御加減はいかがですか」
「ヴィヴィアン? ……ああ。すこぶる健康だ。訳が分からない。節々が痛んで時には起き上がる事すらままならなかったというのに、髭面の医者があいつを一夜看病してからというもの、急に元気になった。人が変わったように動くようになった。ショイアック殿には『不治の病』と言われていたのに。何が起こったやら、さっぱりだ……」
「なるほどなるほど。不治の病がものの見事に癒えてしまったと。あの美しい御嬢が健康を取り戻すのは私も嬉しい。美人が打つ手も無く死んでしまうのは世界にとって大いに痛手だ」
ナルツィッセ伯の猫撫で声に、ウェステンラは震えながら何度も頷く。ナルツィッセ伯は目を細める。糸のようなその目は、笑っているようにも見える。だが蝋燭の火に照らされる彼の眼は、抜身の刃のようにぎらぎらと輝いていた。
「御嬢が、本当に癒されたのならばね」
「え? ナルツィッセ伯、何を、おっしゃるのです」
「私も何度かヴィヴィアン嬢は見舞ったが、あの病は薬草を煎じて煮詰めたくらいで治るようなものでは無い。瘴気に憑かれた事による病でもないから、あれを法術で治すのは非常に難しい。治せるものなら、レーヴェ大司教が見舞われていた事だろう」
「な、何が言いたいのですか」
言いながらも、ウェステンラは理解しつつあった。絶望が胸の奥に忍び寄る。その絶望を釘で以て叩きつけるかのように、ナルツィッセ伯は冷淡な声で言い放つ。
「逆に、魔術で治したように見せかける事は簡単だ。瘴気をあてがい、人に非ざる者に変えてしまえばいいのだ」
「ショイアック様! ショイアック様!」
一人の村人が息も絶え絶えに屋敷に駆け付け、窓に向かって悲鳴にも似た声で叫んだ。肩には噛まれたような痕、深紅の血が溢れている。
村人の声で寝台の上で目を覚ましたショイアックは、不意に頭に強い痛みを感じた。顔を顰め、ショイアックは呻きながら寝台を転がり落ちる。慌ただしく扉が開き、旅装を着込んだレオが部屋に突っ込んで来た。彼は倒れたショイアックを見るなり、傍に駆け寄り跪く。
「大丈夫か、ショイアック殿」
「……も、問題、ありません。久方振りにお酒を嗜んだものですから、少々宿酔に見舞われたのやもしれませぬ。……大丈夫なので、ちょっと引っ張り起こしていただけませんか」
「ああ、ほら」
ショイアックはレオの腕を頼りに立ち上がる。そのままふらふらと窓辺へ赴き、下に立っている村人の青褪めた顔を見つめた。
「何があった?」
「大変なのです! 急に、急に北のジャックが! ジャックが起き上がって! 色んな人に、噛みつき始めて、俺の……事、も……」
目の前で村人は息苦しそうにもがき始める。喉を掻きむしって倒れ、ひっくり返った甲虫のように七転八倒する。白目を剥き、涎を垂らし、狂ったように何度も叫ぶ。その間に村人の肌は土気色になっていき、爪や白目はどす黒く染まっていく。
その光景を目の当たりにしたショイアックは、思わず息を詰まらせ尻餅をつく。逆にレオは身を乗り出し、ゆらゆらと起き上がる化け物の姿を見つめていた。
「あ、あれは、一体!」
「食屍鬼だ。強い瘴気に当てられた人間が怪物に変異した時、最もよく顕れる存在だ。食屍鬼に肉を食われ、血を吸われたものもまた食屍鬼となる……昼は人間として生き、夜はバケモノとして生きる」
「食屍鬼……人が、あんなように変わってしまうだなんて……」
「ショイアック殿、貴方はここにいた方がいい。最早あなたの手には負えぬ。これは私の使命だ。貴方はここに潜んで――」
レオは目を見開いた。一つの予感が脳裏を過ぎる。手のひらに傷持つかの男が、奇跡と偽り魔を操る狂信者『プロフェティア』なら、その手にかかったヴィヴィアン・ウェステンラはどうなったか。芳香と死臭を同時に漂わせる彼女の正体は、既に人ではないだろう。怪物だ。否、魔物ですらあるかもしれない。レオは右手を見つめる。愛槍は今手の内には無い。槍を持ってしても魔物と対峙する事ままならないのに、素手でどうにかなるとは思えなかった。
「いや、ひとまずこの屋敷から退散しよう。ここは魔の巣窟だ」
「いかにも、その通りですとも」
甲高く、誇らしげにヴィヴィアンは部屋へと乗り込んでくる。黒い眼の兵士を引き連れた彼女。輝く深紅の瞳、艶めく深紅の唇。輝く白い肌に、ぬらりと光る牙。波のようにうねる黒い髪。薄布のドレスに身を包み、一人の魔はレオの前に対峙する。
「こんばんは。レーヴェ聖騎士団元団長、レオ・ランスナイト様」
「なになになに! なんですか! 何が起きてるんですか!」
急に旅籠の外も内も騒がしくなり、サリッサは思わず跳ね起きた。ベッドの脇に掛けていた外套を引っ掴むと、拳銃に弾を詰め込んでいたジュードのそばに身を寄せる。
「夜が来た。跳梁跋扈の夜だ。バカ騒ぎの夜だ」
彼は立ち上がると、思い切りベッドを蹴りつけた。相変わらず眠りこけていたフランは、悲鳴と共に起き上がる。
「ふぁっ! バケモノ退散!」
「そうだ。バケモノが来やがるぞ。寝ぼけてないで少しは本気を出せ」
「うーん。寝起きなんですけどねえ……」
フランはそっと髪の毛を梳り、目をこする。同時に部屋の戸が叩き破られ、虚ろな目をした旅人達が、呻き声を上げながら乗り込んでくる。口からは血を垂れ流し、すっかり正気を失っていた。サリッサは軽く悲鳴を上げ、ジュードはつまらなそうな眼差しを彼らへぶつける。
そして目を開いたフランは、バケモノに向かってにっこりと白い歯を剥き出した。
「おはようございます。バケモノさん」
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12:ヴィヴィアン・ウェステンラ
薄幸の美人のはずであったが、ディラックにあんなことやこんなことされたせいですっかり吸血鬼になってしまった。父親がナルツィッセ伯に召喚されている間に、屋敷の守衛をせこせこグールに変えていた。本来の彼女は優しかったが、既に化け物であるためどうしようもない。




