026.少女
「医者……か。医者ならば、一つ都市に居を構え、その都市のみにて患者を診て回るのが普通なのではないのか」
相変わらずショイアックの後ろで馬に揺られたまま、レオは尋ねる。大聖堂にも両手に余る数の医者がいた。彼らは決して大聖堂を出る事無く、遠征から帰還したレオ達を法術も駆使しながら癒していた。ショイアックはそれを聞くと、ころころと笑って応える。
「普通はそうです。ですが、それでは塀の中に居る人々の命しか救う事が出来ない。だから私は塀の外に飛び出した。ただそれだけの事ですよ」
「自ら塀の外に飛び出した、というわけか。不安は無かったのか」
レオは表情を曇らせ、続けざまに尋ねた。先日塀の外に追い出されたばかりのレオは、とにかく不安だらけだった。現に行き倒れかけてもいる。この質問にも相変わらずの微笑みを崩さず、ショイアックは首を振った。
「ええ、もちろんです。塀を越える事で、塀を越えずには救えなかった病人を救えるのかもしれないのですから。喜びを感じこそすれ、不安を覚える事などありませんでしたよ」
「そうなのか……」
表情はさらに陰っていく。薪束でも背負わされたかのように肩が沈んでいき、振り返っていたショイアックまでいよいよ訝しげな顔をした。
「おやおや、御加減がよろしくありませんか」
「いや。同じ塀の外に出た身ながら、こうもあり方は変わるものか。そう思ってな」
「ふむ」
奥歯に何か挟まったような物言いをするレオの姿を、ショイアックは改めて見つめた。金髪碧眼、整った顔立ちと勇士の風体としては十分だったが、そこに収まる魂が枯れ果てているようだった。立ち枯れした楡の木のような有様だ。ショイアックはふむと唸り、詮索をやめて顔を再び屋敷の方へと向ける。
「病むは病むでも、心持の方ですか。それを診るにはもっと適任な方がいるな」
「適任?」
「ええ。ヴィヴィアン様。この地を収める騎士、ウェステンラ家の令嬢です。あの方は生来病弱で寝台を中々離れる事が出来ませんが……その心はお優しく、寝台の上に有ってもこの村の人達の悩みや問題などを聴き上げ、いつもその解決に心を砕かれているのです」
「それは……中々奇特な方だ。病に苦しみながらも下の者へ心を配ることが出来るとは。そう出来る事では無い。それに比べて私ときたら、たった一度槍を折られただけで何も出来なくなってしまうほど情けない人間だ。こんな人間が勇猛果敢なレーヴェ騎士団の長を務めていたとは……恥ずかしい限りだ」
何を聞いてもレオは心が休まらない。流れを止めた川が必ずそうであるように、次々に泥濘が彼の心の奥底へと溜まっていく。最早その口調には彼がかつて持っていた闊達さの欠片も無い。そんな小さな呟きで、ショイアックはようやく後ろに載せた人間が何者であるかに気が付いた。はっと目を丸くして、ショイアックは再びぐいと身を捻ってレオの顔を覗き込む。
「レーヴェ騎士団の長! まさか貴方、レオ・ランスナイト様なのですか!」
「……一応、そうだ」
レオは暗い顔のまま頷く。ショイアックはみるみるうちに申し訳なさそうな顔となり、しょんぼりと肩を落とした。
「全く気付きませんでした……精悍な雰囲気は感じていたのですが、まさかあの精強な騎士団の長のような方が、街道をとぼとぼ歩いているとは思いませんで……」
「そうだろうとも。そうだろうとも……そもそも私は今は長ではない。ただの情けない旅人だ」
「気を落とさないでください。気を。一緒にヴィヴィアン様に会いましょう。人に伝染るような病気ではありませんから、一緒に会って、お話を聞いてもらいましょう。きっと、曇った心を晴らしてくださいますよ」
レオは何があってもどんよりと苦悶を吐き出す。困り果てたショイアックは、努めて明るい声を張り上げた。いつの間にか馬は丘を登り切り、二人は屋敷の前に辿り着いていた。門の前に立ち尽くしていた兵士が彼らに気付き、足早に駆け寄ってくる。
「ショイアック様! 来てくださいましたか!」
「ああ。またお加減が悪くなったと風の便りで聞いたものでね。今はどうしておられる」
「それが……実は……」
革鎧を着込んだ兵士は、嬉しさと申し訳なさが同居したような苦笑いをする。その不思議な表情に、ショイアックも、レオも揃ってきょとんとしてその顔を見つめるしか出来なかった。
「ショイアック様! ようこそいらっしゃいました!」
屋敷に入るなり、二人は呆然とするばかりだった。玄関に立って二人を快活に出迎えたのは、他ならぬヴィヴィアン・ウェステンラその人であったからだ。白磁の頬にはうっすらと朱が差し、二つの脚ですくと立ち、いたく健康そうな様子である。レオは狐につままれたような顔でショイアックの横顔を見つめるが、本当に不思議がっているのはむしろショイアックその人であった。
「どうして……またお加減が悪くなったと聞いて、飛んで参ったのですが……」
「ええ。確かについ先日まで全身の力が抜けたようで、立ち上がる事さえままならない有様でした。ですが……あの方がいらっしゃって、私を癒してくださったのです!」
ヴィヴィアンは笑みをぱっと輝かせたと同時に、中央の階段から一人の男が降りてくる。ウェーブのかかった黒い髪を後ろで束にし、たっぷりと髭を蓄えた浅黒い顔に、いかにも自信たっぷりで誇らしげな笑みを浮かべる男だった。
「初めまして。ディラックと申します」
「狂信者どもの尻尾を掴む、ですかぁ……確かにそれは私向きの仕事かもしれませんねぇ」
所変わって、フランの家。三人は揃ってベッドのある部屋へと戻っていた。フランはほんわかと呟いて、窓から身を乗り出し、細い右腕を目いっぱいに伸ばし始める。その様子にサリッサは首を傾げ、ジュードの方を窺う。
「何してるんです?」
「渡り鳥を呼ぶらしい。奴は野鳥を何羽か飼い慣らしてるんだ」
「渡り鳥はですねぇ、凄く凄く敏感なんです。人間の千倍も万倍も。夏を、冬を一番気持ちいい場所で過ごしたいから。瘴気を少しでも感じるとすぐ逃げ出しちゃうんですよぉ」
「はぁ……」
相変わらずサリッサが首を傾げている間に、フランは一羽の小鳥を腕にとめて戻って来た。麦の粒を食べさせながら、彼女はそっと小鳥の頭をするすると撫でる。小鳥はちらりとフランの顔を見上げ、一言ぴぃと鳴いて再び飛び立った。フランは小さく、何度も頷く。
「なるほど、つい最近逃げて来たみたいですね。場所はここより南。レーヴェ司教領東、ナルツィッセ伯に従うウェステンラ家の領地から、らしいですよぉ」
それを聞いた途端、腕組みをしていたジュードは目を見開き、にやりと歯を剥き出す。まさに会心の笑みだった。
「これから寒くなるというのに、わざわざ南からこちらへ逃げて来たか。とんでもなくその地に留まるのが嫌だったらしいな。……行くか。そのウェステンラとかいう奴の所に」
ピンカートン雑書
2.封建体制
これは高校以上なら学校でも使えるので読んでおいた方がいいかもですよ。
トップにはもちろん皇帝がいるわけですが、今の国家みたいに皇帝が上から下まで全てを治めているわけでは無くて、それぞれの土地を治める君主に、そこを治めてもいいよと認める事で間接的に支配権を行使しています。ザックリとした説明ですがこれを封建制度といいます。
この世界の場合はどうかというと、トップに王様なり皇帝なりがいて、それらに支配を認められた公や司教がいて、公に支配を認められた伯がいて、伯に支配を認められた小領主がいる、そんな感じです。
領土が小さい場合は小公とか小伯とか言われるって設定にしてます。




