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001.地球最後の日

「我を過ぐれ――」ダンテ「神曲」第三曲より。一部改変

 赤く燃え上がる炎が、家も倉も教会も焼き尽くしていく。昼間のように明るい空間の中に巨大な影が這いずり回り、甲高い悲鳴の合唱を響かせる。人間の頭が、腕が、足が、ただの肉塊になって紫紺の空に舞い、飛び散った血と臓物で、黄金色に実った小麦畑が深紅に染まった。


 のどかであったはずの村は、まさに地獄のようになっていた。つい一刻前まで、広場に集った人々が、笑みを交わしてテーブルに載ったパンに肉にイモを食べていた。しかし今は、闇から集った怪物が、目を血走らせて地面に転がる肉に骨に臓腑を食らっていた。

 その姿は黒い鱗を持つ狼のようでもあった。翼無き竜のようでもあった。何頭もの群れで村を襲い、白銀に輝く牙で人間を食い千切り、鋭い爪の生え揃った四肢で地面を引き裂くように這い寄り、逃げる事すら許さない。

 肉を噛み潰して咀嚼する音がする。炎が何もかも嘗め尽くす音がする。血でどす赤く染まった惨劇が、赤々と照らし上げられる。今まさにそこは、生き地獄と化していた。


「い、いや……」


 悲鳴さえまともに上げられず、一人の娘が村の隅に震えて縮こまっていた。友達も親も兄弟も死んだ。広場を離れていた彼女だけが、幸か不幸か死を免れたのである。それも時間の問題であったが。口から血を滴らせた怪物の群れが、残る獲物を求めて蠢き、今まさに彼女を捉えたのだ。

 甲高く吼え合い、群れで彼女を取り囲み、娘へするすると忍び寄る。怯えて動けない彼女へ、そろりそろりと迫って行く。長い舌を振り回し、彼女の恐怖の一片すらも味わうかのように。


「誰か、誰か……」


 か細い声が死に満ちた虚空をふわりと漂い、炎の轟音に、怪物の唸り声に掻き消される。長い胴をくねらせ、刃のような爪を地面に食い込ませながら、怪物は彼女へとにじり寄る。

 ただでさえ白い柔肌が一層蒼白になる。小さな胸が激しい呼吸に合わせて上下する。珠のように浮いた冷や汗が、細いうなじから背筋へ伝っていく。震えが止まらず、やがて恐怖は彼女の華奢な肉体には収まりきらなくなって、絶叫となり飛び出した。


「助けて!」


 その叫びに釣られて、堪えきれなくなった一匹の怪物が娘に向かって飛び掛かる。一陣の突風のようになって、彼女のか弱い肉体をバラバラに引き裂こうと伸びていく。五体がバラバラになり、腹が割かれて臓物を晒す。醜く悍ましい死の瞬間が脳裏に過ぎり、思わず娘は膝を抱えて目を背ける。


 刹那。鋭く乾いた音が一発響き渡った。


 激しい一発だった。炎は一瞬にして消え去り、現れた暗闇を引き裂くように流星のような光が飛ぶ。真っ直ぐに絶望を貫いたその弾丸は、怪物の頭を木っ端微塵に吹き飛ばした。断末魔を上げる間もなく、頭蓋脳漿を飛び散らせた怪物は、その場にそっくり返って倒れ込む。鈍い音と共に土煙が舞い、後にはぴくぴくと震えるだけの亡骸が横たわっていた。


「また狼竜ろうりゅうか。煩く吠えては下品に這いずる悪趣味な神の失敗作め。良くも偉そうに人間様を蹂躙できたものだな」


 闇夜へと返り、水を打ったように静まり返った空間に一人の男が立っていた。肩紐腰紐やらが縫い付けられ、大きな留め金がいくつも付いた黒い外套に身を包み、黒い帽子を目深に被ったその男は、にやりと歯を剥き出しにして笑っていた。その右手には、月光を受けて白銀に輝く拳銃が握られている。

 目の当たりにした瞬間、怪物どもは震えた。ぶるりと震えてじりじりと退いた。小さな村全てを恐懼させ、地獄へと追い落とした狼と竜を掛け合わせたような化け物が、たった一人の男を前にして怖気を見せていた。


「あ、ああ! 助けて、助けて!」


 娘は現れた男を神の御使いと見た。顔を輝かせ、腰が抜けたまま、這うようにしながら男へ手を伸ばす。月の静謐な光を受けて佇む彼は、確かに見ようによっては天から現れた神々しさだ。

 だが違う。彼は天からの使いなどでは決して無い。むしろ、地獄の羅刹に近しい存在に違いなかった。帽子の陰に隠れたその目は怪物以上にどす黒く、娘をねぶるように見つめていたのだから。娘はその視線に気が付き、その手を慌てて引っ込める。


「助けて? そうだな。助けてやってもいい。その代わり、私はお前を一晩抱かせてもらうぞ」

「え……?」


 娘は愕然と男を見つめた。男はにやりと笑うばかりで、こちらもまた、娘の仰天する顔を見て愉しんでいるようだった。


「どうした? この先に千日万日の人生が待っているんだぞ。たかが一日も、男に自由にされたくないか」

「う、うう……」

「どうした。貞潔が死よりも大事か。見上げた誇り高さだ。称賛しよう。私は称賛するし手も出さんが、後ろの怪物はそうもいかんぞ」


 言葉に詰まる娘に、男は追い打ちを掛けた。振り返ると、怯えの緩んだ獣達が、娘を襲おうとじりじり動き始めていた。もはや一刻も猶予は無い。呻いて震えて、涙を浮かべる。生きたい、生きたい、生きたい。死の恐怖に溺れる彼女の目の前にあるは藁ではない。巨大な船だ。縋りさえすれば必ず助かる。しかし、その上には悪魔が乗っている。自分を値踏みしている悪魔が乗っている。

 しかし、獣の唸り声が再び聞こえた瞬間、彼女はどうでもよくなった。迷っているのが馬鹿馬鹿しくなった。頬を紅潮させ、涙を浮かべ、顔を歪めて絶叫した。


「わかりました! 好きにしてください! だから助けて!」


「……いいだろう。生きる為なら身体も差し出す、その泥まみれの根性は称賛に値する。助けるに値する」


 かっと目を見開いた男は嵐のように飛び出した。腰に差さったもう一丁の銃も引き抜き、二丁の銃で怪物を次々撃ち抜いていく。怪物は泡を食って倒れ、腕をもがれ、悲鳴を上げてのたうち回った。どす黒い血が飛び散って大地を穢していく。

 間髪置かず、悲鳴を聞きつけた怪物の仲間が慌ただしく迫ってきた。飛び散った仲間の亡骸を捕らえた怪物は、怒りに目を見開き、威嚇するように男へ吠える。しかし男は怯みもせず、鼠でも見つめるような目で獣を見据え、静かに二丁の拳銃を構えた。


「ピンカートン探偵社所属、ジュード・ラプレイス。荒事の際はどうぞ御贔屓に」


 主役の名乗りを終えるや否や、男の姿がふっと闇へ紛れる。次の瞬間には、半数の怪物が頭を潰され、胴を刎ねられ、心の臓を抉り取られていた。漆黒の汚れた血を浴びながら、男は獣の群れのど真ん中に立っていた。両手の拳銃を交差させて構え、男は呪詛のように呟き始める。


「……我を過ぐれば憂いの都あり、我を過ぐれば永遠の苦患あり、我を過ぐれば滅亡の民あり」


 獣が最期の意地とばかりに吠え、一斉に襲い掛かる。影となってぐるぐると蠢き、口蓋を大きく開いて男の足に、腕に、頭に首に腹に向かって噛みつこうとする。男は構えを解かず、帽子の影で赤黒い瞳をぎらぎらと輝かせる。


「義は尊き我が造り主を動かし、聖なる威力、比類なき智慧、第一の愛、我を造れり。永遠の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ」


 銃を突き上げ、頭上から襲い掛かる獣の顎を吹き飛ばす。身を捻り、両脇から迫る獣の首を毬のように蹴り飛ばす。しまいには血飛沫浴びて怯んだ一体の頭を鷲掴みにし、地を這う残りと一緒に地面へ叩きつけた。月明かりに照らされ、男の邪悪な笑みが輝いた。


汝等地獄(ここ)に入る者、一切の望みを棄てよ」


 折り重なって呻く獣に残弾全てを叩き込む。乾いた音の連続。肉が、骨が、臓物が次々に飛び散る。獣の汚れた血で地面は黒く染まっていった。



ピンカートン設定覚書

1.サリッサの村

前触れも無く滅んだ。冒頭に死体を転がせとは一体誰が言ったのか。地理的にはカメーリエ伯領とアイヒェ伯領の境目くらいに位置している。山間の村で規模は小さいが、交通の要衝にあるため結構栄えていた。

でも滅んだ。覆水盆に返らず。


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