018.法王のワルツ
「ジュードさん」
血と肉と体液とでぐちゃぐちゃになってしまった広間の真ん中に普段と変わらぬ姿で立ち尽くすジュードを見た瞬間、サリッサは思わず無限の安堵に包まれてしまった。全身からふわりと力が抜け、その場に倒れてしまいそうになる。しかし、そんな彼女に向かってジュードは顔を顰めて首を振る。
「そこに倒れるつもりか、馬鹿」
「あっ」
サリッサは跳び上がる。うっかり自分の吐いたものの中に崩れ落ちそうになっていた。顔を赤らめそこを離れるサリッサに、ジュードは軽くにやついて追い打ちを掛ける。
「口も拭け。汚いぞ」
「ふえっ? ……ううう」
吐いた跡が口についていた事に気付いたサリッサは、恥ずかしげに手の甲で口元を拭う。もじもじするその姿は、先程この世を滅ぼす瘴気の塊に向かって啖呵を切ってみせた彼女と同じであるとは思えない。ジュードはそんな彼女を見てうっすらと微笑むと、革手袋をはめたままの右手で彼女の頭をそっと撫でる。
「お前のさっきの言葉は、中々痺れたぞ」
「……私、あの時は頭が真っ白で。何が何だかわからなくて……」
頭を撫でられたまま、サリッサは俯きがちに呟く。最早、彼女はその時何を言ったかさえろくに憶えていなかった。ジュードは笑みを潜めて肩を竦めると、くるりと背を向け懐から煙草を取り出し火をつける。
「人間が追いつめられると得てしてそうなる。そうして真っ白になった時、何をするかで人間の価値が決まる。お前は……悪くない。あの時といい今といい、土壇場で肝が据わる性質だ」
「は、はあ……」
サリッサには一瞥もくれずにとっくり煙を吐き出すジュードの背中を、彼女はじっと見つめた。ジュードが自分を見る目が、折に触れて寂しげな色を帯びる事に気付き始めていた。悲愴に荒々しく狂喜乱舞するハレの姿と、ひっそりとして、黙々と煙草をふかすケの姿。余りに違う二つの姿。サリッサはジュードに何があったのかを訊きたくて仕方が無い。だが、地獄の権化のような彼に訊く勇気も無い。惨憺たる有様をちらりと見渡し、ぼそぼそと尋ねる。
「それにしても、こんなになってしまったら、これからこの地はどうなってしまうんです?」
「私に聞くな。私はそもそもカメーリエ伯に事の真意を質すつもりだっただけだ。それで来てみたら想像以上に事が深刻だっただけだ。ここまでの事態になる事は算の内に入っていない」
ジュードは燃え尽きた煙草を放り投げ、ぼきぼきと首を鳴らす。
「どちらにしてもこれ以外の解決法など無かった。……クランズマン共なら伯の一族郎党もまとめて死体に変えそうなもんだが、いなかったという事はどこかここでないところにいるんだろう。とっととここを放棄してそっちに移る方がいいな」
「そ、そんな簡単に言いますけど――」
突如彼方で軍喇叭の高らかな音が鳴り響く。目を見開いたジュードは、風のように広間を駆け出し、そのままの勢いで城の塔を昇っていく。サリッサはそれを見て慌ててその後を追いかけるが、ぐいぐい離されとうとう階段の果てにその姿は見えなくなってしまった。
「待ってください! 待ってくださいよおっ!」
叫んで、息を切らしながら長い長い階段を上り切る。果たしてジュードはそこに居て、物見台の上から、城へと向かって集まってくるカメーリエ兵――否、遥か彼方を眺めていた。広がる草原の中に、魚の鱗のような形をした巨大な影が一つ、カメーリエ城に向かってきていた。太陽の光を受け、ビロードに真砂を散らしたように光る影が一つ、押し寄せていたのである。
「突撃せよ! 総てを焼き払え!瘴気を一時でも地上に滞留させるな!」
レオは旗付き槍を振り上げ、カメーリエ城を指し示す。騎士団はレオの命に合わせて鬨の声を上げ、タリスマンが穂先に括り付けられた槍を揃って一気に擲つ。土で塗り固められた城壁に切っ先が突き刺さった瞬間、タリスマンに刻みつけられた炎の紋章から白い輝きが放たれ、激しい光と共に吹き飛んだ。その一撃は城壁を粉微塵に砕き、呆気無く崩してしまった。
出来上がった穴に向かって、騎士団は一気になだれ込む。ケルベロスの城へ飛び込んでいった様子を見て不安を抱いていた街の人々は、彼らの姿を見て更なる不安と安堵が入り混じった顔をする。
「レ、レーヴェ聖騎士団! レーヴェ聖騎士団だっ!」
「怪物は城へ行った! 三つ首の怪物だ!」
駆け込んでくる騎士達に向かって、集まった人々は城を指差して口々に叫ぶ。神の加護の下に、現れた怪物を討ち果たす救世主を迎えるために。どうして城壁を突き崩してしまったのか、その事は疑わないふりをして。レオ達は彼らを見て一層馬の足を速め、その場で猛然と槍を振るった。
「ぎゃあああっ!」
悲鳴と共に街の人々が鮮血を噴き出して倒れていく。レオ達が振るった槍は、人々の身体をすっぱりと切り裂いていた。その刃を免れた男は、切られた妻を掻き抱きながら呆然と呟く。
「……どうして……」
「この地は浄化されなければならない! 聖なる炎によって! 全てを焼かなければならない!」
呪文のように唱えながら殿の騎士が躍り出て、剣の一撃で男の首を跳ね飛ばす。そのまま、亡骸に向かって懐のタリスマンを放り投げた。その瞬間にタリスマンは燃え上がり、転がる亡骸も、近くの建物も何もかもを燃やしにかかる。
「瘴気に浸ったモノは、全て!」
白馬は嘶きながら燃え上がる街を疾駆し、目についた人間を残らず鏖殺しながら本城へ向かっていく。中からは街の異変に気が付いた兵士達が慌てて飛び出してくるが、瞬く間に槍で突かれ、首を刎ねられ、踏み潰されてしまった。先頭に立って城へと乗り込んだレオは、再び旗付き槍を振り上げて叫ぶ。
「浄化せよ! 塵芥さえ残すな! さもなくば瘴気は地を穢し、この世を悪霊の巷、化生の巣へと変える! 阻止せよ! 神の恵みを守れ! 神の栄光のために!」
「アレルヤ!」