016.蜂の巣のバラード
「大司教! レーヴェ大司教殿!」
黒いローブを着込み、正十字の切られたブローチを胸に留めた青年が息急き切って城内の一室へと飛び込む。壁一面を覆う棚にびっしり収められた本、雑然と書簡の積み重ねられた机。書簡と本とに囲まれて黙々と書き物を続けている一人の年老いた男。同じく黒いローブに身を包んでいるが、その胸に留められた正十字のブローチには、十字の背後に獅子の顔が刻み加えられていた。
男は鷲羽のペンを走らせる手を止めて、ちらりと顔を上げ青年を見つめる。相当に急いだと見え、すっかり息を切らしていた。
「どうしたんだ、ヨハン。まずは息を整え、落ち着いて事と次第を報告したまえ」
「は、はい。……大変なんです、大司教殿。カメーリエ伯の本城より、巨大な瘴気が先ほど確認されたのです!」
物腰穏やかに微笑んでいたレーヴェ大司教の顔が、それを聞いた途端にむっと陰った。眼鏡だけが光を受けて閃いている。
「巨大な瘴気か。確かなのだな」
「え、ええ。……どちらなのかまでは、まだ判別出来ておりませんが……」
「地獄還りの亡者であろうと、天国騙りの妄者であろうと我々の知るところでは無い。我々の使命は、神の恵みを汚すものを一毛たりと残さぬ事、ただ目の前に存在する瘴気を払う事。これのみである」
「は、はいっ!」
レーヴェ大司教は立ち上がる。書簡に取り囲まれて隠れていた、その肉体が露わになる。ローブの下からでもはっきりとわかる、筋骨隆々とした肉体であった。書きかけの書簡を彼は握りつぶし、力強く大司教は出口を指差した。
「レオに使いを出せ! 直ぐにカメーリエへ『聖騎士団』を出す! 私が広場に『縮地』の法陣を組んで準備している旨を伝えろ!」
「しょ、承知です!」
ヨハンは飛び上がると、踵を返して脱兎のごとくに走って行った。それを見送ったレーヴェ大司教も席へと戻る事はなく、目を見開いたままのしのしと部屋を横切る。
「聖戦。魔を払うための聖戦を始める!」
「TABRIS! TABRIS!」
小夜啼鳥の様な声で叫び、血塗りの瞳から飛び出した化け物は粘液塗れの翼を広げて飛び上がった。そのままベタリと天蓋に張り付き、長い首を垂らして、翡翠のように輝く無数の目を開いてジュードを見据えた。
ジュードは不定形の魔物に向かって舌打ちすると、銃を構えてその眼に向かって何発も弾丸を撃ち込んでいく。帽子の陰に隠れた赤黒い瞳に、怒りと悦びがぎらぎらとひしめき輝いていた。
「煩い魔物だ。魔物になっても貴様らはピーチクパーチク喋る事しか出来ないのか」
「TABRRRRIIIS!」
何発もの銃弾が粘液塗れの肉体にずぶりずぶりと突き刺さる。痛みに身体が歪む様子は無い。それどころか、肉に食い込んだ銃弾をゆるゆると絞り出し、ジュードに向かって鋭く弾き出した。咄嗟に右腕で庇うが、銃弾はその闇をやすやす貫きジュードの肉体に幾つもの大穴を空ける。
「その程度か? 魔物。天使を騙る魔物!」
全身に炎を滾らせ傷を塞いだジュードは、そのまま高空に身を躍らせ、天井に張り付く粘体を蹴りつけにかかる。形無き魔物は、無数の目を細め、どこからともなく赤い粘液に塗れた牙を剥き出しにする。粘体はくたりと歪んでその形を変じると、ジュードの蹴りをいとも簡単に躱しきり、そのままぬらぬらと光る牙で彼の右脚を捉えた。
「TAAA!」
甲高い唸り声を上げてジュードに噛み付いた魔物は、そのまま強引に彼の脚を食い千切ってしまった。
「ぬぅ……!」
空中でバランスを崩し、ふらりと自由落下に転じたジュードを、魔物はその身から巨大な触手を伸ばして捉える。そのまま勢いをつけて振り回すと、魔物はジュードの身体を思い切り大理石の床に叩きつけてしまった。
骨が砕け、肉の潰れる音が広間中に響き渡る。ジュードが今しがた縊り殺した残骸に塗れ、彼もまた物言わぬ血塗れの肉塊と化していた。
「ジュードさん」
ケルベロスの身体の隙間からその光景を見つめていたサリッサは、蚊の鳴くような悲鳴を上げる。右脚から闇を脈々と溢れさせ、残った四肢があらぬ方向に曲がったジュードは、すでに虚ろな目を晒していた。ケルベロスは全身の毛を逆立て、無数の眼を持つドロドロの魔物に威嚇を続ける。身を縮めて、今にも飛び掛からんとしていたが、決してその場は動かない。主が無残な血の塊と化しているのに、彼は決してサリッサの前から去ろうとしなかった。
「TABR, TA. TabRtaBriiIIs」
笛のような鳴き声を上げて、瘴気の権化は勝ち誇ったような視線をケルベロスとサリッサへ向けた。触手を伸ばして地面に落ちた槍を拾い上げ、不定の魔物は雨垂れの雫のようにぼたりとジュードの上に降った。その巨体に、悲鳴も呻き声もなくジュードは四肢を胴を押し潰された。肉がひしゃげ骨が突き出し、その身体は残酷な針鼠のようになる。
それだけでは飽き足らず、四つん這いの姿へと変わった魔物は、槍を振るって何度も何度もジュードの身体へと突き刺し、肉を引きちぎって大きな口蓋の中へと収めていく。ごりごりと、骨を砕く音が響き渡る。ずるずると髄を啜る音が洩れる。サリッサは涙を浮かべ、息を詰まらせた。
「た、食べてる……? ジュードさんを……」
ついに耐えきれなくなり、サリッサは胃に溜まったものを全て吐いてしまった。何度えづいても、あまりのおぞましさに吐き気が収まらない。
「TabRi, s. Tabri, s」
歓喜の声を上げ、竜のように伸ばした首をもたげた魔物はサリッサに向かって何かを口から飛ばした。それは宙を飛び、サリッサの吐き出したモノの中に転がる。それは赤黒い瞳。ジュードの眼球だった。震える手でサリッサはジュードの眼を吐瀉物の中から拾い上げる。
食べてやったぞ。亡霊を食べてやった。もういない。次はお前の番だ。甲高く鳴き続ける魔物の言葉が聞こえて来たかのようだった。刹那、怯えて震えるだけであったサリッサの、頭の奥で何かが弾けた。目玉を彼女は握りしめ、静かに迫る魔物を睨みつける。
「馬鹿にするな! お前が天使だと? そんなわけがあるもんか! 醜いんだ! 人間の眼が節穴だからお前達が醜く見える? そんなわけあるもんか! お前達は醜いんだ!」
悲鳴混じりの声で、サリッサは叫んだ。その瞬間に魔物は思わず足を止め、がたがたと震えながらそこらじゅうの槍を掻き集める。
「TTTTTT!」
目の前に立ち塞がる三つ首の狗ごと、魔物はサリッサを刺し貫こうとする。しかし、その身体はその場からピクリとも動かない。翡翠の眼が次々に砕け、代わりに赤黒い瞳が次々に姿を現す。苦しみ、呻いてもがく魔物の全身が震え、鈍い声を紡ぎ始める。
「……そうだ。お前は醜い。醜いただの化け物だ。天使などではない。決して。……よしんば天使だとしても、私は貴様を一片も残さず否定する」
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8.変幻魔タグイェル
テケリ・リ! テケリ・リ!




