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009.ICE AGE

「貴様らなど、腕一本(・・・)で十分だ」


 銃口を右の上腕部に押し付けたジュードは、躊躇わずに引き金を引いた。平原にずどんと音が響き渡り、銃弾は肉も骨もまとめて吹き飛ばしてジュードの右腕を地面に千切り落とす。どす黒い血が噴き出し、黒く焦げた草の上に飛び散った。地面に落ちた自分の腕を見下ろし、ジュードは肩を震わせ、愉悦の笑みを浮かべた。


「何のつもりだ、ユダ」


 狂気の沙汰としか思えないその有様に、ベルドットは訝しげに顔を顰める。彫像のように無表情を貫き続けていた顔が歪む瞬間をその目に捉えたジュードは、したり顔で応えた。


「言っているだろう。貴様など、腕一本で十分なんだ。……来い、『地獄の番犬ケルベロス』」


 目を見開いて唱えた瞬間、地面に落ちた腕がひとりでに蠢き始める。肉の表面が歪み、泡立ち、毬の様に膨らんでいく。瞬く間に臨界に達したその腕は銃声にも似た音を残して弾け飛び、その中から、一体の魔が現れた。三つ首で、蛇の鬣を持ち、竜の尾を振り乱し、漆黒の毛をなびかせる地獄の番犬が姿を現した。


()け、番犬。貪欲に喰らえ」


 ジュードの言葉に従い、象のように巨大な魔は劈くような咆哮と共に跳び上がった。そのまま、目の前に居た一回りも小さい鹿の怪物を爪の一振りで引き裂いた。どす黒い血と臓物が飛び出し、緑の大地を穢していく。そのまま番犬の巨体は波のうねりの様に流れ、その牙で、爪で、棒立ちになっている怪物を次々に引き裂いていく。鬼の首が飛び、獅子の骨が散らばり、百足の肉が叩き潰されていった。

 ベルドットは愕然とした。ロザリオを振り回して化け物を一体の魔に対峙させるが、焼け石に水が如く、次々にねじ伏せられ、息の根を止められていく。瘴気に当てられ姿見が歪んだだけ、地に蔓延るが精一杯の化け物には、地獄の責め苦を与える本物の魔に敵うはずもないのだ。一分と持たず、二十体居た怪物達は全て物言わぬ血と肉塊に変えられてしまった。息を荒げ、ベルドットはジュードを見つめる。彼の傷口にはどす黒い闇が質量を持って押し寄せ、腕のような形となって収まっていた。その背後では、かの地獄の番犬が、お座りをして侍っている。

 膝ががくりと折れた。ベルドットはその場に崩れ、頭を抱え、目の前に立つ悪魔を見つめて叫んだ。


「き、貴様は。貴様は一体! 貴様は一体何だと言うのだ!」




「あ、あれは、あれはいた、た、一体……」


 遠眼鏡で彼方で広げられる一方的な殺戮を目の当たりにしてしまったアイヒェ伯は、すっかり腰を抜かして悲鳴を上げる。心底、奴の言葉を呑んでよかったと彼は思った。下手に拒めば、かの男にこそ街を滅ぼされていたに違いないと確信した。


「地獄に入らんとする生者を、地獄を出ようとする死者を罰する、地獄の番犬……」


 サリッサもまた、怪物をあっさりと捻じ伏せてみせたジュードとケルベロスを血の気を失った顔で見つめ、ぽつりと呟く。既に、彼をただの人間とは思いもしていなかった。


「貴方は、一体……」




「私はただの探偵だった。汚れ仕事ばかりをして生きて、それに何の後悔もしない、地獄に堕ちて当然の探偵だった。だが、貴様らのおかげでその運命を受け入れられなくなった。いずれにせよ地獄に堕ちて責め苦を受けるのだという、諦めを私から(・・・・・・)奪い去った(・・・・・)


 抗する手段を失い、絶望を前にして震える事しか出来ないベルドットに、一歩一歩をじりじりと踏みしめ、ジュードは迫っていく。


「諦めを失った私は、地獄に刃向かう事を選んだ。ディーテの炎に焼かれても、コキュートスの絶対零度に魂の一片まで凍らされようと、私は貴様らを世から永遠に滅する事を望んだのだ。天国にも、人の世にも、地獄にも貴様らの居場所は無いんだ、クランズマン。真底狂気なクランズマン」


 ジュードが指をベルドットへ向けると、ケルベロスは立ち上がり、のっそりとベルドットへと歩み寄った。涎を滴らせ、鼻をひくつかせて獲物の品定めを始める。

 目を見開き、憔悴したように俯いていたベルドットだったが、不意に口元を歪ませ、低い声で笑い始める。不敵に笑みを浮かべて、朗々と言い放った。


「……この肉体失ったとしても、魂が費えたとしても、私がこの世から消え去るわけではない。私と心を共にする者が、我らの誓いを叶える。我らの前にかの御使いが現れ喇叭を吹いた時から、千年世界の完成を代行するという使命は始まったのだ!」

「相も変わらずの狂信ぶりだ。神様なんぞくそったれだと思っているが……貴様らみたいな狂信者の狂気を正当化するための道具にされるとは。哀れなものだ」


 ジュードの目から歓喜の光が消える。一切合切を見下す濁った眼をして、満面の笑みを浮かべるベルドットを真っ直ぐに見据える。彼は憎しみに歯を食いしばり、闇で出来た右腕をベルドットに突き出した。


「消え去れ。貴様には、せいぜい犬の餌が相応しい」


 ケルベロスは三つ首をもたげ、次々にベルドットへと食らいついた。肉を引きちぎり、骨を砕き、内臓を貪る。その間も、ベルドットは誇らしげな表情を一切崩すことは無かった。冷めきった眼で、ジュードは彼がケルベロスの胃の腑へ収まっていく様をただただ見つめていた。




「クランズマン。貴様らが目指す全てを、私は否定する。一片の猶予も無く、打ち砕く」


 やがて、全てを喰らいつくしたケルベロスは、のろのろとその姿を闇に溶かし、血と肉塊へと変わって再び彼の右腕へと収まる。化け物の残骸が芝生を溶かし続ける無残な光景の中で、煙草に火を灯し、ジュードは黙し立ち尽くしていた。

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