ずっと君を見てた
満月数日前の月夜なのに、いつになく闇の濃さを感じる。
十四時間分の疲労が溶け込んだ溜息が、眼鏡の内側をじんわり曇らせた。
最寄り駅から自宅アパートまでの、およそ中間地点となる住宅街。
二又に分かれた道の真ん中には、半ば風化した石像の置かれた祠があった。
ここに何が祀られていたのか、今更ちょっと気になっている。
だが、半月ほど前に起きた事故のせいで確かめようがない。
結構な勢いで車に突入された祠は潰れ、石像もどこかに撤去されてしまった。
立ち入り禁止のテープに囲まれたそこを横目に、いつも通りに左の道を選ぶ。
今日はどうかな、と思いつつ歩いていると、また例の感覚があった。
近くから凝視されている、あの独特の落ち着かなさ。
以前から時々はあったのだが、最近では三回に二回のペースで発生している。
勘が鋭い方でもないのに、視線の存在を確信できる。
それはつまり、実際に何者かの監視に晒されている、ということだろう。
どうにも気味が悪いけど、別の道を選んだ場合は十五分余計に歩くか、照明のない森を抜けるかの二択が待ち構えている。
タクシーを使える経済的余裕があれば、などと思っても仕方がない。
残業代もロクに払われない現状では、そんな願望は夢物語に等しい。
忙しくて恋愛どころじゃないから、彼氏に迎えに来てもらうのも不可能だ。
もう一つ深々と溜息を吐いて、意識的に歩調を早める。
通知をチェックしようと、スマホを取り出したところで不意にバランスを崩した。
「ふえっ?」
大きな手に、自分の右手首が掴まれていた。
掴んでいるのは、黒いスウェットの上下を着た、年齢不肖な太った男。
荒い呼吸で、無精ヒゲで、頭にタオルを巻いて、全身を震わせて、わたしを見ている。
何が起きたのかを理解しようとするが、手首に痛みが走って思考が乱れる。
呆然としている内に、ブロック塀で囲まれた家の敷地へと連れ込まれていた。
「ぎぁ――」
危機を報せる渾身の叫び声は、湿った手で塞がれて軽々と封じられる。
そのまま雑な感じに引き摺られ、開け放たれたドアから屋内に連れ込まれた。
「おぉおっ、大人しくっ、するんだ。いいか? いいな?」
「こっ声をっ、声をどすん、だっ出すんじゃ、ないぞっ」
ドアを閉めた男は、大量の唾を飛ばしながら命じてくる。
ここで鍵まで閉められたら、何もかもが終わってしまう。
抱きつかれた上半身が動かせないので、両足をバタつかせて暴れに暴れる。
「ずっと、ずっと君を見てた……ずっとだ」
「しし静かに、死にたっ、くなければ、静かに」
上擦った声で、男はそんな言葉を告げてきた。
当然ながら無視して、足の届く範囲をひたすら蹴りまくる。
やがて中々の手応え、いや足応えがあった直後、抱きつく圧力がフッと緩んだ。
チャンスだ、と拘束を脱してドアノブに手をかけるが、髪を引っ張られ阻止される。
「あぅうっ――」
「だぁらっ、ししっ、静かにっ、しろって、な? な?」
私の首を掴んで、壁に体を押し付けながら男は顔を近づけてくる。
興奮と緊張が高まりすぎて口が回らないのか、言葉がとにかく聞き取りづらい。
血走った目で見据えてくる男からは、饐えたグラタンと洗ってない鳥籠を混ぜたようなニオイがした。
「ぅぐっ、かっ、はっ」
息が詰まり、頭が熱くなる。
男の腕を繰り返し叩いたら、ようやく手が離されて気管が開いた。
床に崩れて四つん這いで咳き込んでいると、背後から何かを噛まされる。
呻きながら男を睨むと、脂っぽい長髪がワサワサと揺れている。
どうやら、タオルで猿轡をされたようだ。
「すぐに、すぐ終わるから」
「とにかく、とにかくジッとしてれば、大丈夫」
男はそう言いながら、立ち上がろうとする私の肩を押さえつけ、無理矢理に座らせた。
段々と冷静になってきたのか、声のトーンが落ち着いている。
でも呼吸は荒いままだし、泣き笑いに似た奇怪な表情も異様すぎる。
人生で初めて経験する問答無用の暴力に、恐怖心は果てしなく増幅されていく。
辺りに散らばった様々なものが、男の手で一箇所にまとめられる。
ダクトテープ、黒ずんだ木製のバット、古いビデオカメラ。
錆の浮いた工具箱、液体の入ったビン、サバイバルナイフ。
視界が暈けて嗚咽が漏れ、自分が泣いているのに気付いた。
「傷つけるつもりは、ない。ないから」
「だけど、余計なことすると……死ぬぞ」
矛盾した内容を語りながら、男は震える指先で小型のビデオカメラを操作する。
いつも感じていた視線は、このカメラ越しに見ている男のものだったのか。
一秒でも早く逃げたいのに、進路を塞がれていてドアに辿り着くのは難しそうだ。
他の方法を考えたくても、収まらない耳鳴りと動悸が邪魔をしてくる。
「これでな、ずっと見てたってのが、わかってもらえるから」
「どうして君が、こうなってるかも全部、全部」
汗だくになっている男は、ベタッとした調子で語りかけてくる。
猫撫で声のつもりなのかもしれないが、どうしようもなく気持ちが悪い。
こちらへの態度から好意らしき感情も伝わってくるけれど、それがまた深みのある怖気を掻き立てた。
目を背けたいのに目を離せず、男の一挙手一投足を追いかける。
「おっ、ほっ――」
汗か脂で手が滑ったのか、男がビデオカメラを取り落とした。
その瞬間、「ここだ!」という言葉が脳内に閃く。
立ち上がろうとすると、下半身に力が入らず腰と膝がフワフワしている。
それでもどうにか身を起こし、カメラを拾おうと背を向けている男の尻を全力で蹴り飛ばし、その反動を使って体ごとドアにぶつかる。
「んがっ」
「ぐぇっ」
顔面から壁に突っ込んだ男と、思い切り背中を打った私の呻き声が重なった。
逸る気持ちを抑え、痺れる手でノブを探る。
体重をかけながらノブを捻り、転がるようにして家から抜け出た。
「こっ、ここにいなきゃダッ、ダメなんだ!」
「君をしっ、死なせたくないから! だから待っ――」
口の中を切るか歯が折れるかしたらしい、男の水っぽい声が追いかけてくる。
とにかくこの場から離れたくて走り、転び、起き上がってまた走る。
警察に電話を、と思ったがスマホはどこに落としたかわからない。
大声で助けを呼ぶか、どこかの家に逃げ込むか――こういう場合、「火事だ」って叫ぶのが有効なんだっけ。
混乱しながら走っていると、また足が縺れて道路に転がる。
その衝撃で外れた眼鏡が、地面を滑ってどこかに消えた。
数年ぶりの全力疾走に、鈍った体が完全についていけてない。
両手をついて起きようとすると、左の足首あたりが鋭い痛みを主張した。
どうしよう、動けなくなったらあいつに捕まって――
「おい、おまえ」
焦りで目の前が暗くなったのかと思えば、誰かが頭上から声をかけていた。
押し殺したような低い声は、あの男のものではない。
やっと助かった、と思えた安堵で瞳が潤む。
手の甲で涙を拭い、スッと顔を上げた。
「ありが、ヒュッ――」
お礼を言いかけて、後半を飲み込んでしまう。
見上げた相手は全裸で、輪郭がおかしなことになっていた。
二メートル半はありそうな長身と、アンバランスに細くて短い腕と足。
でっぷりと突き出した腹には、妊婦のような赤黒い肉割れが広がっている。
歪に膨らんだ頭は、たぶん普通の倍くらいのサイズ。
その顔の中心に一つだけある、大きすぎる目玉に私が写っていた。
「いいか、もう」
唇のない、赤茶けた歯を剥き出した口が、よくわからない問いを発した。
眼鏡をなくしたのに、どうしてこれはハッキリ見えるのだろう。
焦げるまで焼いたネギに似た臭気が、ムワッと周辺に広がっていく。
濁った瞳に見据えられ、さっきまでのやりとりを思い出す。
あの男は「死ぬ」とは何度も言っていた。
けれども「殺す」とは一度も言ってない。
だから、ずっと私を見ていたのは――




