落ちる
「騙された……」
思わず漏れた恨み言を、盛大な溜息で撹拌しながら歩みを止めた。
額に薄く浮いた汗をタオルで拭い、日光を遮っているライトグレーの空を見上げる。
『登山初心者にオススメ、景観抜群な山歩きの超穴場!』
余った有給をアクティブに消化しようと、「山歩き」「初心者」でネット検索して出てきた記事のタイトルがコレだ。
コースの説明や風景写真が掲載され、女性や老人が一人でも何の問題もなく楽しめる、という趣旨の紹介がされていた。
通過困難な場所はなく、休憩所がいくつも用意された、女性やお年寄りや家族連れの多い、明るく安全なアウトドアスポット。
広場でランチを楽しむ親子の写真に、そんなキャプションが付けられていた。
初心者で女性である自分には丁度よさそうな雰囲気だったので、電車を乗り継いで隣県の知らない低山へとやって来たのだが――
「道が悪すぎる、っての」
小声で愚痴を述べ、ゆっくりと水分を補給する。
傾斜はなだらかで、命の危険を感じるような難所もない。
休憩所も確かにあるし、老夫婦や中年女性の登山客も見かけた。
しかし、とにかく山道がガタガタで階段の昇降もやたら多く、歩いているだけで体力の削られぶりがハンパない。
地面に気を配り続けていないと、不意打ちで足を挫きかねない。
そのせいで、周囲の景色を楽しむ余裕はまるでなかった。
体感としては『休日の山歩き』ではなく『何かしらの修行』に近い。
今年度の個人的失敗ランキングでも、春先に遭遇した『客と店員がグルになって強引なナンパを仕掛けてきたスペインバル』と、どっちを一位にするか迷うレベルだ。
寒くも暑くもない、長距離を歩くのに最適な気温だけは助かるけど。
そんなことを考えつつ、水筒をリュックのポケットに突っ込むと、首筋にスルッと冷たいものが触れた感覚があった。
雨とも風とも違う、ような――そっと肌を撫でても、汗の湿り気があるだけだ。
何だろうな、と周囲をぐるりと見回してみる。
「うはっ」
ついつい、驚きの声が吹き出る。
予期せぬ距離の近さ、二十メートルくらい後ろに人がいた。
背が低い、軽装で丸刈りの――少年、だろうか?
まるで気配を感じてなかったのもあって、心臓が派手に跳ねている。
胸に手を当て、呼吸と動悸が落ち着くのを待つ。
道の端に寄って、少年が追い越すのを待とうとするが、あちらも足を止めているようだ。
見れば、手に提げた小型の灯油タンクみたいな容器から、どぷどぷと水を飲んでいた。
何か変な感じがする、と警戒心が膨らんだので、引き続いて少年を観察する。
身長は百五十センチくらいで、顔立ちがわからなくなるほど黒々と日焼けしている。
白い半袖のボタンシャツに黒いズボン――中学や高校の夏服に似ている印象だ。
いくら何でも、この晩秋に薄着すぎないか。
今はまだいいとして、日が暮れたら体を動かしていても凍えかねない。
上着を用意しているのか、と持ち物をチェックしてみるが、ミニタンク以外の荷物はなく、リュックやカバンも背負っていないようだ。
初心者向けの山だし、これはこれでアリかもしれないが――足元で視線が固まる。
サンダルだ。
俗に便所サンダルと呼ばれる、底が木製のユルユルな履物。
いくら山に慣れていても、この足場の悪い道をあんなもので歩くのは正気じゃない。
気付いた瞬間、「こいつはガチでヤバい」と本能が理解した。
サッサと先に行ってほしいが、そうはしてくれない予感がする。
となると自分が先に行くしかないが、無理をすればまた別のトラブルが発生するかも。
「最悪じゃん……落ちるわー」
自分の感情を言葉にして確認し、誰かに状況を知らせておこうとポケットからスマホを取り出すが、圏外。
小さく舌打ちして、周囲の景色を撮影するフリをしながら、ヤバみの強い少年の記録を試みる。
もしも何かあった場合、警察への通報がスムーズになるように。
自然な動作で少年の方へとスマホを向けるが、いつの間にか姿が見えなくなっている。
脇道はないし、追い越されてもいないから、引き返したのだろうか。
コチラのあからさまな不審者扱いを察知して、諦めるなり別のターゲットを探すなりに路線変更したのか。
或いは、服装や靴がおかしいだけで、普通に山登りを楽しんでいる野生児だったのかもしれないが。
ともあれ、妙なプレッシャーを感じながら山道を歩く事態は回避できそうだ。
落ち着かなさは解消されていないが、とにかく先を急ぐとしよう。
足元に視線を落としながら、小さな歩幅でひたすらに前進する。
気持ちとしては走って進みたいのだが、高確率で捻挫か骨折を経験するハメになるだろうからそれはナシだ。
今となっては、ハイキングが主目的の長いコースが本気で忌々しい。
「くおぉお、にぃいいぃ」
音程と音量のオカシい声が、背後から唐突に投げられた。
中年男が子供の演技をしているような、不自然さしかない声色。
首筋をまた、冷たいものでシャッと撫でた感覚が通り過ぎる。
「てぃい、ぅあぁああぁ」
あの少年が、たぶんコチラに呼び掛けている。
こんにちわ、と言っているっぽいが、よく聞き取れない。
挨拶を返した方がいいのか、無視を貫くべきなのか、正解はどっちだ。
液化した脂を大量に飲まされたような異物感が、胃袋を支配していた。
十秒ほど迷ってから、無視を選択すると決めた。
決めたのだが、追ってきている少年の様子は確認しておきたい。
歩きながらスマホを眺めるフリをして、インカメラで背後を映すと――
いる。
三メートルくらいの距離から、日焼けした顔がコチラを凝視していた。
「いぎっ――」
飛び出しかけた絶叫を、下唇を強めに噛んで引き止めた。
一刻も早くこの時間が終わるのを祈りながら、チョコマカと足を動かし続ける。
涙腺が緩むのを堪えきれず、視界が徐々に滲んでいく。
ヒッ……フバッ……
ヒグッ……べゥ……
ヒン……ウブッ……
呼吸が整わず、咽喉の奥からは泣き声のような鳴き声のような、濁った音が駄々漏れになる。
そんな状態のまま数分が経過したところで、「音?」と不意に気づいてしまう。
すぐ後ろにいる、あの、アイツの。
足音も、呼吸音も、聞こえない。
瞬間、両膝の力が抜けて転びそうになるが、間一髪で踏み止まった。
左手は岩壁だが右側は藪になった崖で、下手に躓けば命の危険もある。
とりあえず落ち着け、落ち着かないとマズい、と大きく息を吸った直後――
「あぅあぁいっ」
さっきよりも馬鹿でかい、それでいて平坦な声が空気を震わせる。
「なっ? たっ! わぼっ?」
高まりに高まっていた危機感が暴発したのか、体が勝手に動いた。
飛び跳ねるように走った三歩目か四歩目の着地時、グネッた右足首に鋭い痛みが走る。
怒りと痛みで沸騰した頭で、つい「ふざけんなよ」と後ろを振り返る。
ドッ ゴドッ ボゴッ ザザッ――
ガツッ ゴッ ガショ ドンッ――
バスケットボール大の岩が二つ、上から降ってきた。
一つはバウンドして崖下に消え、もう一つは地面に転がっている。
落下地点は、自分とアイツの中間ぐらい。
さっき転びかけて、蹲っていた辺りだ。
「ふゎ………………あっ」
しばらく思考停止した後に、あの大声の意味が浮かんできた。
あれはきっと、私に「あぶない」と報せてくれたのだ。
となると、ここまでの奇妙な行動も、警告や注意が目的だったのでは。
そうだったんでしょ、と問うようにして私は少年の表情を窺う。
そこにあったものを表現するのに、最も相応しい言葉は『落胆』だった。




