おうちにはいれない
ダラダラ過ごしてしまった休日は、ビールで締め括るのが丁度いい。
そんな気分だったので、散歩も兼ねて普段は使わないコンビニへと向かう。
最短距離だと歩き足りなくなる予感がしたから、知らない住宅街の景色を眺めながらの遠回りルートを選んだ。
駅からも国道からも半端に遠くて再開発の需要がないせいか、くすんだ色合いや煤けた風合いの古い家が多い。
夕飯時が近いせいか、付近の家からは様々なニオイが漂ってくるが、不思議と空腹感を刺激してこない。
その理由をボンヤリ推理していると、感情を逆撫でする声が耳に刺さった。
「うっ、んぅー……えっ、え、ひぐっ、うっ、うー……」
子供の泣き声だ。
大声で喚くのではなく、泣くのを我慢しているのに我慢できずにいるような、そんな。
とりあえず、視界の中に泣いている子供の姿はない。
近所の家からかな、と警戒心を高めて耳を欹てる。
そうやってしばらく歩いていると、ある家の前で佇む子供を見つけた。
小学校の一年か二年くらいの女の子、だろうか。
雑に切られている髪、全体的に薄汚れた服装、サイズの合ってないサンダル。
放置子――という単語が浮かぶと同時に、家の様子を確認して眉を顰める。
昭和の中期に建てられたと思しき、古ぼけた平屋。
壁の大部分が、半ば枯れた蔦に覆われている。
敷地内にゴミやガラクタが積まれているワケでもないのに、どうにもならない不潔感が漂っていた。
その原因は恐らく、妙に鼻につく不快な臭気のせいだ。
養豚場の悪臭と殺虫剤の刺激臭を混ぜて、泥水で薄めたようなニオイ。
人が住んでいる気配はあるのに、廃屋特有の寒々しい印象を纏っているのも、落ち着かなさの原因になっていそうだ。
端的に言えば、とにかく『厭な場所』だった。
放置子に関わると、高確率で理不尽なトラブルに巻き込まれる、というのもある。
ここは見て見ぬフリでのスルーが賢明だろう。
泣いている少女は、こちらの存在を確認して僅かに声のボリュームを上げたように思えたが、ひたすら無視を貫いて歩調を速めた。
コンビニでロング缶を三本と適当な惣菜、それと明日の朝食用オニギリを二つ買って帰路に就く。
違う道を選んだ方がいい、との警報が頭のどこかで鳴っていた。
しかし、あれからどうなったかも気になるので、来た時と同じ道を選んで帰る。
十分ほどで、またあの家と子供のセットが登場した。
近所の人や通行人に無視され続けているのか、同じ場所で泣きべそをかいている。
「……どうしたの?」
このまま見過ごして、数日後のニュースで名前を知るオチになったら気分が悪い、との思いからつい声を掛けてしまった。
少女は静かにしゃくり上げながら、潤んだ瞳でこちらを見詰めてくる。
確か、子供と話すには目線の高さを合わせるといい、ってのを聞いたことがあるな。
屈んで顔を近付けて、もう一度「どうしたの」と訊くと、震え気味の声が返ってきた。
「おうちにはいれない」
「ここが、そうなのか?」
蔦に埋もれた家を指差すと、大きく頷いて肯定してくる。
明かりは点いておらず、話し声やTVの音なども聞こえない。
カギが掛かっていて帰れない、って状況なのだろうか。
「カギを忘れたとか、失くしたとか」
「もってない」
となると、やはり放置されてるのか。
同情心を増量しながら少女を見れば、視線を真っ直ぐに玄関のドアに向けていた。
睨むというか凝視というか、やけに熱が篭っている。
そこはかとない違和感があったが、確認しようがなさそうなので話を進める。
「近所に、知り合いの人はいる?」
首を横に振られた。
実際には、近隣住民からは既に無視されてるのだろう。
「お友達のところは、どうかな?」
さっきより強めに首を振られた。
もしかすると、学校でも孤立しているのかもしれない。
警察に連絡するのも違うよなぁ、と思いつつ質問を重ねる。
「……家に入る方法はないの?」
少し考えてからそう訊くと、パッと笑顔に近い表情に切り替えて言う。
「ある。そこの、それ」
「ん、どれ?」
「そこのはしっこの、こわいの」
「怖い……?」
そんなのあるかな、と思いつつ指差された辺りを観察する。
ドアの右上あたり、枯れた蔦と半ば一体化していてわかりづらいが、確かに何かある。
よく見れば、手のひらサイズの黒っぽいものが、壁に取り付けられていた。
変色と風化で元がどんなものだったか判別が難しいが、何となく正月の注連飾りに似たフォルムに思える。
「それ、とって」
「俺が触っちゃっても、大丈夫なの」
「だいじょうぶだから、とって」
裏にカギが隠してあったりするのだろうか。
子供の手が届かない場所じゃ、あんまり意味がないだろうに。
家の敷地に入り込むと、独特な悪臭が更に強くなる。
黒っぽい飾りに手を伸ばしていると、不意に「やめといた方がいい」との強い感情が湧き上がった。
「ほいっ、と」
躊躇いを捻じ伏せようと、わざとらしく声を出して飾りを掴み取る。
壁から外した瞬間、すぐ近くで「パキッ」と乾いた何かが割れる音が鳴った。
「むおっ!」
同時に、右手の中で爆竹が破裂したような感覚が生じ、思わず飾りを取り落とす。
敷石に落ちた飾りは四つに砕け、細かい破片や粉末が周囲に散らばった。
これはちょっと謝っておいた方がいいかも、と振り返ったが少女の姿がない。
あれ、と家の敷地から出て辺りを見回すと、俺の横をすり抜けて駆ける人影が。
「あぶな――」
ぶつかる直前、止めようとした。
だけど少女は速度を落とさず、閉じたままのドアを突き抜けて消えた。
呆然と木製のドアを見据え、何が起きたのかを理解しようとする。
やがて屋内から「ドタッ」「バリン」「グショッ」と、派手な騒音が流れてきた。
いくつもの感情や疑問が絡み合い混乱しているが、確信を持って言えることはある。
とんでもなくマズいことが起きた――或いは起きようとしている。
ふと壊れた飾りに目を向けると、赤黒いスライム状の何かに変じている。
視線をドアに戻すと、数センチの隙間が開いていた。
誘われている。
自分が何をやったのか、知りたかったらココまでおいで、と。
何故だか足が動いてくれず、ドアからも目が離せない。
その場に立ち尽くしていると、黒々とした隙間はじわり、じわりと広がる。
十五センチくらい開いたところで、暗がりの奥にいるものと目が合った。
「ブッホァ!」
その瞬間、無意識に止めていた息が吐き出された。
右の膝がカクッとなり、崩れるように尻餅を搗く。
その痛みと衝撃が効いたのか、普通に動けるようになっている。
慌てて身を起こした俺は、ドアに背を向けると全速力でその場を離れた。
さっきは明らかに、入ってはいけない場所に片足を突っ込んでいた。
そんな自覚に、粘ついた脂汗が際限なく噴き出してくる。
自宅に戻ってからすぐ、泡だらけになった三本のビールを数分で飲み干した。
部屋にあった焼酎も追加で数合飲んで、その日は気絶するように眠った。
その後、蔦に埋もれた家がどうなったかはわからない。
あの住宅街に足を運ぶことは、きっと二度とないだろう。
あれから二ヶ月ほどが経つが、とりあえず平和に暮らしている。
奇妙な少女を見かけもせず、怪現象に遭遇してもいない。
ただ一つ、困ったことがあるといえば、ある。
右手の指や手のひらに、小さな水疱がポツポツと発生するようになってしまった。
少し痒いぐらいで、生活に支障が出るほどではないのだが――水疱が潰れると、養豚場の悪臭と殺虫剤の刺激臭を混ぜて、泥水で薄めたようなニオイがする。




