ニチャア…
今のオッサン、「あいつ」に似てなかったか。
そんな気がして、前を横切ったスーツ姿の男を確認しようと目で追うが、ホームの人波に紛れて見失ってしまった。
痴漢だか喧嘩だかのトラブルで遅延が発生し、帰宅ラッシュ時の都内の駅は数本分の客を抱え、人口過剰で酷い有様になっている。
初めて「あいつ」を見かけたのはいつだったか。
待機列の先頭で電車を待ちながら、ボンヤリと記憶の底を探ってみる。
あれは確か、小学五年の冬――近所で火事が起きた夜のこと。
隣に住んでいたオバさんが、テンパった声で「火事ですって!」と報せに来て、両親と一緒に様子を見に行ったんだ。
自宅まで延焼してくるような距離じゃないのに安心しつつ、いつも見ている景色の一部が盛大に燃えていて、炎を消そうと沢山の人が走り回っている非日常な光景に、正直言ってかなり興奮したのを覚えている。
両親がどんな感じだったかは忘れたが、周りの野次馬は心配したり同情したりの態度を示しているのに、どことなくテンションが高い雰囲気だった。
季節を無視した熱気、舞い散る無数の火の粉、悪臭を孕んだ黒煙。
呼吸をするのもつらい状況だったが、見物人はどんどん増えていく。
少し前に読んだミステリー系の漫画に『火事が放火だった場合、犯人は現場にいる可能性が高い』とあったのを思い出した俺は、オレンジに照り返された顔たちを眺めて怪しいヤツがいないかチェックしてみた。
呆けた顔、険しい顔。
半泣き顔、不安な顔。
怯えた顔、真剣な顔。
同じものを見ているのに、色々な表情があるのを不思議に感じていた。
そうこうする内に「あいつ」の、あの異様な笑顔を見てしまったのだ。
ニヤニヤと笑っているなら、趣味の悪さや性格の悪さで理解できなくもない。
でも「あいつ」の笑顔は、ちょっと違っていた。
笑いそうなのを必死に堪え、顔をシワクチャにしながら我慢している。
だけど傍から見れば、笑っているのがバレバレな猿芝居で。
普通に笑うよりもフザケている感が高いし、単純にとにかくムカつく顔だった。
とんでもなくイヤなものを見てしまった気がした。
両親に「笑ってる怪しいオッサンがいる」と報告したが、「どこに?」と訊かれて指差そうとした時には、「あいつ」はもう姿を消していた。
薄くなりかけた頭髪、痩せているが健康そうではない雰囲気、猫背気味の長身。
どこにでもいそうな佇まいなのに、やけに印象に残ってくる。
その後すぐに帰ってしまったので直接は見ていないが、焼跡からは住人の老夫婦が遺体で発見されたらしい。
その日たまたま不在だった同居中の息子が怪しい、みたいな噂も流れたが特に警察沙汰になることもなく、現場には数年ほど経ってアパートが建った。
これは事故物件の扱いにならないんだろうか、と気にはなったが実際どうなのかまでは調べなかったな。
電光掲示板を見るが、電車はまだやってくる気配がない。
次に「あいつ」を見たのは、高二の夏休み。
前日にいきなり仲間内で海に行く話が出て、日帰り予定で千葉に向かったんだ。
色々と声を掛けていったら、男が六人に女が五人と結構な人数が集まった。
早朝に出発して朝から遊び、それなり以上に盛り上がったまま午後になった。
そして、友人の彼女の友人だという初対面の子と、いい雰囲気になっていた夕方頃。
不穏なざわめきが広がった後、「やばい」とか「救急車」とかの言葉が聞こえてきた。
心配そうにしているその子に頼れるところを見せようと、「ちょっと様子見てくる」と言い残した俺は、人の輪ができている波打ち際へと近づいていった。
輪の中心では、日焼けした肌で筋肉質の男が、小さな子に心臓マッサージをしていた。
ライフセーバーらしい男の紅潮した形相と、口から粘ついた泡を吐き出している少女の蒼白な無表情が、珍妙なコントラストを形作っていた。
重苦しい空気の中、誰もが沈痛な面持ちで救命措置を見守っていた――のに、人垣の対面にいるヒョロい男だけが笑いを堪えて震えている。
既視感のある表情は、いつかの夜に見た「あいつ」の不快な笑顔そのものだ。
気付いた瞬間ブワッと頭に血が上った俺は、火事の時のことも含めて文句を言ってやろうと、輪の反対側に回り込もうとした。
だけど、子供の親が現れたり担架が運ばれて来たりと、周辺がバタバタしている内に「あいつ」はいなくなっていた。
結局、溺れた子は意識を回復せずに亡くなり、俺たちは花火と夕食の予定を中止し、どんよりとした気分を抱えて帰るハメになった。
いい雰囲気になっていた子とは二度と会うこともなく、仲間内でもこの日の話は何となくタブーっぽい扱いに。
毎日のようにつるんでいたのに、卒業後はまったく会わなくなったのも、この件が少なからず影響していたのかもしれない。
「ねぇねぇ、電車もいつ来るかわかんねぇし、ここは飲みに行っとくべきじゃね?」
「いえ、結構です」
「えー、今日は木曜だし四捨五入すれば週末じゃん。ここは行くべきだって」
「あの……やめてください」
二つ隣の列では、バッグを掴まれたOL風の若い女性が、泣きそうな表情でチャラい男の手を振り払っている。
どうやら強引なナンパを仕掛けているようだが、周囲に止めようとする気配はない。
ガタイのいいチャラ男は明らかに酔っていて、横から口を出そうものならトラブルに発展する確率は180%だ。
しかも少し離れた場所では、同類らしい二人組が「もう殆どメスの顔だって」だの「ここはキスから始める大胆さが必要」だのと、ゴミみたいなエールを送っている。
仕事帰りでアホに絡まれた子は災難だが、本当にマズい状況になれば誰かが駅員に通報するだろう。
そう結論付けて静観することに決め、周囲の人々と同様にスマホを眺めて電車を待つ。
「おい、いい加減にしないか」
「あぁ? んだテメーは」
「その子、迷惑がってるだろう」
「うるっせぇな! やんのかぁ? ジジィ!」
見るに見かねた初老の男が、チャラ男を止めにかかったようだ。
すると案の定、仲間二人が半笑いで加勢に向かおうとする。
チャラ男の意識が自分から離れたのを察したOLは、予想外の素早さと薄情さを発揮してどこかへ消えた。
どうでもいいから早く帰りたい、という俺の願いが通じたのか、数分後に電車が到着するとのアナウンスが流れた。
そんな中でもチャラ男グループと初老の男の口論は勢いを増し、巻き込まれるのを避けたい人々が距離を置き始めている。
いつ暴力が飛び出しても不思議じゃない、嫌な緊張感が高まっている。
一方で「自分は関係ないです」的な態度を保ちつつ、ヒートアップしていく揉め事にスマホを向けているヤツもいる。
その光景に刺激されたのか、三度目に「あいつ」を見た時のことが思い浮かぶ。
あれは三年前の十月くらい、だったっけか。
日曜に買い物ついでに映画でも観ようと出かけた先で、忘れかけていた「あいつ」を十数年ぶりに目にしてしまった。
複数の衝撃音の後、ガラスが割れる音がして、それから叫声と怒声が湧き上がる。
何事かと音のした方に向かえば、歩道を乗り越えてショーウインドウを突き破ったハイブリッド車と、周囲で倒れたり蹲ったりしている人々の姿が。
中学生ぐらいの少年が、左の脚を轢き潰されて喚いていた。
頭を強打したらしい少女は、鼻と口から赤黒い血が噴き出させている。
ガラスの破片に塗れた妊婦の、手足と首が変な方向に屈折していた。
妊婦の肩を揺する虚ろな表情の男は、意味不明な奇声を上げ続けている。
この惨状を引き起こした車の運転席では、ハンドルを握ったままの中年女が首を左右に振り続けていた。
髪を振り乱している女の動きは、眼前の光景を否定していたのか、それとも自分のせいじゃないと言いたかったのか。
そして、あちこちが歪んだ車体の傍らに「あいつ」がいた。
前回と同じ、前々回とも変わらない、いつものあの――
「ふぉ――あだだっ! まっ、ちょぉおおおっ?」
間の抜けた大声で、回想が中断される。
さっきの連中がフザケてるのか、と視線を向けると予想外の展開が発生していた。
護身術の心得があったらしい初老の男は、チャラ男が蹴り上げた右足をキャッチする。
そして足首をグリッと捻り、バランスを崩した相手を勢い良く突き放した。
綺麗に決まった反撃だったが、問題はチャラ男が倒れる先に地面がないことだ。
「ぶぇっ」
チャラ男の姿が消えた直後、警笛が大音量で鳴り響く。
それと同時に、ブレーキの軋む音も鼓膜に刺さってくる。
止まりきれずに車体がホームに滑り込むと、離れた場所からいくつもの悲鳴が弾け、騒然とした気配は急速に拡大されていく。
「何、何で? 飛び込み?」
「轢かれた! うーわ、瞬間見ちゃったよ」
「マジかよ……また電車止まるし」
異常事態を目撃した人々から、混乱する感情を言葉に変換したものが漏れていた。
俺としては、帰りが更に遅くなるのが確定した倦怠感と、自業自得な自爆を見物した爽快感が同居した、表現の難しい気分になっている。
あの馬鹿をホームから突き落とた初老の男は、過失致死罪に問われるのだろうか。
この事件をニュースで知った逃げたOLは、どういう感情に囚われるのだろうか。
様々な思いを混濁させながら、チャラ男の死因となった車体を眺める。
慌しい車内の様子を窺わせる窓に、ボヤけ気味の「あいつ」の姿があった。
薄くなりかけた頭髪、痩せているが健康そうではない雰囲気、猫背気味の長身。
安物のダークスーツを着て、あちこち擦り切れたカバンを提げた中年男。
ガラスに写った「あいつ」は、今日の俺とまったく同じ格好で、いつもの笑いを堪えたシワだらけの表情を浮かべていた。




