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ありふれた悪夢 ~ホラー短編集~  作者: 長篠金泥


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非科学変化

 色褪いろあせた緑のドアを引くと、店にはいつになく賑やかな気配が満ちていた。

 今日はヤメて帰ろうか、という思いが反射的に頭をぎるが、半分開いた扉の先でカウンターに座る若い女性客と目が合ってしまった。

 女の明るい髪色と、青いフレームの眼鏡に見覚えがある。

 確かアジロとかいったか――何度か店で一緒になって話したことがあった。

 この状態で引き返すのも気まずいな、と判断した俺は店に寄っていくことにした。


 行きつけの飲み屋である『チエの輪』は、料理の味は悪くないし値段も良心的だ。

 しかし、駅前商店街から一本外れた通りの更に奥まった袋小路にある微妙な立地のせいか、満席になっているのを見たことがない。

 それでも客がゼロということも殆どなく、その絶妙なヒマ加減が作り出す気怠けだるい雰囲気は妙に居心地が良かった。

 そんなこんなでお気に入りの場所となって、月に三回は顔を出していたのだが。


「いらっしゃい、オグさん」

「今夜は随分と盛り上がってるね」


 カウンター席に腰を下ろし、大声で話しているテーブル席をチラ見しながら言う。

 先客はそこの三人組とアジロ、それと古臭いジャケットを羽織った、初めて見る初老の男の計五人。

 ママの千恵ちえさんはおしぼりを差し出すと、いつもの柔らかい笑顔で説明してくれる。


「ええ、カジキさんがお友達を連れて来てくれまして」


 そういえば、ワイワイやってる面子の中にカジキも混ざっていた。

 普段は大人しく飲んでいるタイプだが、仲間内だとまたキャラが違うのか。

 以前に雑談していた中で、不動産屋に勤めているとか言っていた記憶がある。

 漏れ聞こえてくる単語からして、同年代の男二人は同僚なのだろう。


 今はまだ「賑やか」で収まるレベルだが、これが「騒々しい」になったら厄介だ。

 いつでも切り上げられるように、注文するのは中ビンと煮込みだけにしておいた。

 おしぼりで手を拭いている内に、冷えた赤星とグラスが目の前に並ぶ。

 続いて、仕切りのある長方形の小皿に盛られてお通しが出てくる。


 アミの塩辛と、明太子で和えたイカそうめん――ツマミ性の高い二品だ。

 店にしてみたら、客のペースを進ませて次の一杯が注文されるのを早める、そんな計算があるのかもしれない。

 だが、マヨネーズの味しかしないポテサラなんかが出てくることを思えば、断然こちらを支持したくなる。


「はーい、みなさん注目! 注目でーっす!」


 カジキの連れの一人が、パンパン手を叩きながら大声を出す。

 何事かとそちらを見れば、眉の細いチャラそうな男が、カバンから日本酒の四合ビンを取り出していた。

 同席の二人はニヤニヤ笑いで、カウンターの二人とママは怪訝そうな表情だ。

 ビンをテーブルの真ん中に置くと、細眉は「んんっ」と咳払いをして語り始める。


「えー、オレ、っていうかオレらは仕事で不動産の、賃貸をメインで扱ってんだけど……物件を貸していて一番困ることと言ったら、さて何でしょう?」


 いきなり開始されるザックリとしたクイズに、勘弁してくれという感情がふくらむ。

 雑な絡み方をされてストレスを溜める前に退散かな、と思いながらも最低限は付き合うしかなさそうだと腹をくくった。

 同じような思考を辿ったのか、アジロが微妙に眉根を寄せつつ一人目の回答者として手を挙げた。


「はい、そこのお姉さん!」

「家賃の滞納、ですか?」

「んー、違う! それも困るけど、もっと困るヤツ。じゃあ次は、そちらのお兄さん!」

「もっと、だと……火事になるとか、ゴミ屋敷にされるとか」


 少し考えてから答えると、細眉は「惜しい! これは残念賞!」と言いながらこちらに寄ってきて、俺のグラスにビールを注ぐ。


「考え方、ってか方向性は合ってるんけど……じゃあ、最後はお父さん、どうすか」

「……住人が死ぬ」

「おおっと、まさかの大正解! さっすが人生のパイセン!」


 細眉がそう言って拍手をするものだから、何となく俺たちも合わせて拍手する。

 初老の男は、だから何なんだと言いたげな表情で「いやいや」と手を振り、ハイボールが入っていると思しきグラスを傾ける。

 こちらがウザがっている気配を察したのか、ママが間に入ろうと話に加わる。


「何でしたっけ? そういうの。事故物件、とか呼ぶんでしたっけ」

「そうそう、よく御存知で。死んですぐに処理できればいいんだけどさ、発見が遅れたり刃物で自殺だったりすると――」

「あ、ストップストップ。そういう話、苦手な人もいるからね」

「んっ、そうか、そうですね……スンマセン。でもまぁ、本題はそっちじゃなくて、コッチなんですよ」


 ママに頭を下げた細眉は自分らのテーブルに戻り、さっき取り出した四合ビンを掲げる。

 店中の視線がそこに集まったところで、また「んっ」と軽く咳払いをして話を続けた。


「何年か前に、ウチで管理してるアパートに住んでる大学院生が自殺しましてね。借りてた部屋の中じゃなくて、近くのマンションから飛び降りたんだけど」

「それでも事故物件になるの?」


 アジロが訊くと、細眉は大袈裟な動きで否定する。


「いやいや、そうはならない……けど、滞納してた家賃や家財の処理でゴタついて、色々あってウチでその部屋を片付けることになって。で、その作業に休日出勤で駆り出された先輩が、手当ては出ないけど処分する品の中に欲しいモンがあれば持ち帰っていい、ってその場の責任者に言われて。それなら、とCDを何枚かと未開封の日本酒を貰ってきた」


 そこで話を区切った細眉は、炭酸系の何かが入ったジョッキを二口ほど呷ってから続ける。


「その夜、先輩はさっそく日本酒を飲んでみたんだけど……味がおかしい」

「古くなっていたんでたのかな」

「違くて。製造年月日を確かめても二ヶ月前で、季節は春先だし生酒でもないから、開けてない日本酒が腐るってことは考えづらい。だけど、普通じゃない味なんだ」


 俺の言葉を否定した細眉は、声のトーンを低くしながら述べる。

 そこはかとなく渋い表情のママが、お義理の雰囲気を滲ませつつ口を挟む。


「普通じゃないって、どんな感じかしら」

「先輩が言うには、青汁を海水で割ったような味だったとか」

「それは……確かに普通じゃないわねぇ。ハイ、こちらハイボールね」


 ママは苦笑しながら、カウンターに座る初老の男に酒を出す。

 想像しづらい味を思い浮かべていると、今度は細眉じゃない方のカジキのツレ――赤いセーターの男が話し始めた。


「まぁ、その話を聞いて気付いちゃったんすよね。それって昔、ネットの怪談サイトで読んだ状況に似てるな、って。知らないっすか? 事故物件に置いといた日本酒を飲ませたら、霊感あるヒトが『味が変だ』って反応する話」

「あー、似たようなの聞いたことある、ような」

「どうやらね……霊がいる場所に酒を置いとくと、オカシなことになるらしくて」

「へぇ……実際にあるのか、そういうの」


 そう応じる俺だが、実際にはネットではなく怪談本で読んだ話だ。

 確か、事故物件ガラミの不可解なトラブルに困った不動産屋が、問題のある部屋に一晩放置した酒を入居希望者に飲ませて、味について何も反応しなかった相手だけに部屋を貸す、とかそんな内容だったハズ。

 アジロが、氷だけになったグラスを置いて質問を投げる。


「死んだ大学生が、幽霊になって自分の部屋に帰ってきてたってこと?」

「まぁ、そういうことじゃないかって考えて、先輩にその怪談を教えたんすよ。したら先輩がそんなことあるワケないって、イワクつきの部屋に酒を持ち込んで何日か後で回収するってのを始めちゃって。二回目までは何ともなかったんすけど、三回目で……」

「また変な味になってた、と」


 眼鏡の女が言うと、赤セーターが頷いた。


「アタリっす。俺らもその酒の試飲会に付き合わされたんすけど、別に何も変なことなくて。でも先輩とバイトの事務員の子は、腐ってるみたいな味って言い張るんすよ」

「なるほど……ところで、そこの酒ってもしかして」


 俺が指差しながら訊くと、細眉が待ってましたと言いたげなドヤ顔で再びビンを掲げる。


「そう! これがまさしく、四度目の実験で回収されたブツ」

「うわぁ」


 感心しているのか引いているのか、判断のつき難いトーンの声をアジロが漏らす。

 細眉が手にしているのは、千円くらいで買えるスーパーなんかでも扱っているメジャーな銘柄の日本酒だ。

 とりあえず、見た目からは怪しい雰囲気などは感じられない。


「で、これを皆さんにも飲んでもらおうかな、って考えてるんだけど……どうです?」

「どう、って言われてもなぁ」


 細眉がコチラを見ながら訊いてくるのでしぶしぶ答えるが、どうしたものか。

 興味がなくはないが、それ以上に「薄気味悪い」という気分が勝っている。

 アジロと初老の男も、リアクションに困って苦笑いだ。

 こちらの微妙な反応を受けて、ママがまた話を引き取った。


「ちょっと、ウチは持ち込みNGよ」

「一口だけですし、ネタですから大目に見て下さいよ、ね?」

「だけど、ねぇ……」

「じゃあアレですよ、カジキが代わりにボトル入れますから、高めの焼酎とか」


 言われたカジキは一瞬「えっ? 俺が?」と言いたげな表情を浮かべるが、すぐに笑顔を作ってコクコクと頷く。

 そんな提案と、両手を合わせて頼んでくる細眉に押し切られ、ママは人数分のグラスを用意した。


 こうなってくると、もう断るのも野暮って空気だ。

 目の前に置かれた青いガラスの杯に、半分ほどの日本酒が注がれている。

 ニオイも普通に日本酒だし、濁っていたり異物が入っていたりもない。

 ただ、散々に事故物件の因縁を聞かされた後だと、口をつけるのには躊躇ちゅうちょがある。


「まーまーまーまー、霊感とか普通ないですから、飲み屋で遭遇した面白ネタとしてね、皆さんグイッといっちゃって下さい、グイッと!」


 細眉にうながされ、アジロが舐めるように杯を傾ける。

 初老の男は胡散臭うさんくさげに細眉と杯を順繰りに見て、短く溜息を吐いてから中身をした。

 仕方ないので、俺も配られた酒を口に含む。

 澄んだ液体が舌を包み、香りが鼻から抜けていく。


「どうですか、皆さん?」

「これは……普通の日本酒ですね」

「ああ、ただの酒だな」

「……ん、何も変なことはない」


 アジロも初老の男も、強張った表情で杯を置く。

 安心して拍子抜けしたのと、無駄に身構えさせられた反感から、きっと俺も渋い表情になっていることだろう。

 赤セーターに杯を押し付けられたママも、一口飲んだ後で小さくかぶりを振り、オカシな点はないと伝えてくる。


「えーっと……それじゃあ皆さんは、霊感ゼロってことで! おめでとうございます!」

「おめでとう、でいいの? これって」


 シラケた空気をどうにかしようと変なテンションで拍手する細眉に、アジロが疲れた声でツッコミを入れる。

 気まずくなりそうな場の状況に、ママが素早く助け舟を出した。


「だけどアレね、こういうホラーっぽい展開とかは滅多にないから、ちょっと面白かったわ」

「あれ、ママはホラーとか大丈夫なの?」

「怖いのは苦手だけど、TVで怪談ドラマとかやってると、つい見ちゃうのよねぇ」


 初老の男に応じた一言でまた流れは変わり、店内はプチ怪談大会と化していった。

 カジキと他二名は不動産にまつわる諸々、アジロは学校が舞台の話をいくつか。

 初老の男は、昭和の怪談本に出てきそうなタイプの、わかりやすい因縁話を語った。

 俺には自分の体験談はなかったが、ネットや本で読んだパンチの効いた話をテキトーにアレンジして披露しておく。


 話が三巡したところでカジキたちは帰り、初老の男も勘定を済ませて帰った。

 ママは洗い物をしたり食材を片付けたりしていて、店じまいモードに入りつつある。

 俺もそろそろ引き上げるかな――とスマホをいじりながら考えていたら、アジロが隣の席に移ってきて二人の間に例の四合ビンを置いた。

 中身はまだ、半分くらい残っている。

 

「あれ、あいつら持って帰らなかったの?」

「そうみたい。店でも出せないし飲んじゃえば、ってママが。まだいけます?」

「ああ、じゃあ貰っちゃおうかな」


 もう結構な量を飲んでいて、正直に言えばアルコールを追加したい状態ではない。

 しかし、若い女性から誘われて断るというのも、生き物として間違っている気がする。

 頭に浮かんだ謎の理屈に従い、俺はさっき使ったガラスの杯をアジロに差し出した。

 注がれたものは先程と変わりなく、色も匂いも普通の日本酒だ。

 微かに揺れる狭い水面みなもに視線を落としながら、溜息混じりに呟く。


「にしても、今日は何だったんだ」

「この店、時々おかしな状況になりますよね。それがイイってのもあるんですけど」

「まぁ、ねぇ。しかし、事故物件でかもした酒を持ち込んでくる、とかどういうセンスなんだ」

「そういうの、醸したって言わなくないですか」


 珍妙イベントに巻き込まれた余韻が残っているのか、アジロのテンションは高めだ。

 俺も何だか浮ついた感覚になっているので、気持ちはわからなくもない。

 少し疲れた笑顔のアジロと顔を見合わせ、二人で同時に杯に口をつけた。


「ぉおんぅ?」

「ぶっへぁ!」


 そして揃って奇声を発し、せて吹き出した。

 とてもじゃないが、飲めたものじゃないシロモノだ。

 本能が体に入ることを拒んでくるような、そんな凶暴さがあった。

 雑草を塩水で煮たような味の中に、どうにもならない生臭さと変な金気かなけが混ざりこんでいる。

 アジロの悪フザケか、とも思ったが涙目で咳き込んでいる様子からして違うだろう。


「何だ、こりゃ……」

「くっふ、えほっ、えふっ……いやちょっと、ホント、何ですかこれ」


 咳が収まったアジロと、二人の間に置かれた四合ビンを見つめる。

 店の奥に引っ込んでいるママに声をかけて、酒がおかしなことになっているのを確かめてもらおうか――と思ったが、ここであることに思い至る。


「あのさ、事故物件で酒の味が変になるのは、そこが人が死んでるからじゃなくて、その場に幽霊がいるから……だったよな?」

「うん……さっきはそんなことを言ってた、ような」

「だとすると、この酒がおかしくなってる理由ってのは、つまり」


 最後まで言ってしまうと不安が事実になる気がして、話を途中で切り上げる。

 それでも理解したらしいアジロは、表情を硬くして店内を見回している。

 怪談をしていると寄ってくると聞いたことはあるが――何はともあれ、しばらくこの店には近づかないでおこう。

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