ナカウチアツコを知ってますか
これはちょっと、ハズレを引いたかもしれない。
テーブル席に腰を下ろしながら、若干の後悔が込み上げてくる。
とにかく腹が減ってるし、テキトーでいいか――と考えた直後、うどん屋の看板が見えたので入ってみたのだが、どうにも大失敗に終わる気配が濃厚だ。
店の外見は、それなりに年月の積み重ねを感じる、いかにも和食処の佇まいだった。
なのに、店内はどこもかしこも地元サッカーチームのグッズだらけ。
流れているBGMは、ゴミみたいなボサノヴァ風味を添加されたジャズのスタンダード。
夜は飲み屋に変わるようで、壁には安焼酎のボトルが並んだ棚が鎮座している。
ベタついたメニューを捲ってみると、とにかくやたらと品数が多い。
夜用のつまみも入っているからだろうが、それにしても多すぎる。
ざる、きつね、たぬき、月見、天ぷら、山菜、あんかけ、ぶっかけ、おかめ、卵とじ、肉、カレーをベースに大量の派生系があり、その他にコロッケや豚の角煮や天ぷら単品や半熟卵などのトッピング材料がズラズラッと並んでいる。
作るのも注文とるのも大変だろうな、と思いながらメニューの先を確認する。
予想はしていたが、『激辛マーボーうどん』『パクチー特盛うどん』『ブリリアント海鮮うどん』といった、悪ふざけ感のスパークしたオリジナルうどんが出現し始めた。
そんな中に混ざっている『カルうどんナーラ』は、何一つとして上手いこと言ってないのに、どんなのが出てくるか大体わかってしまうのが悔しい。
「よし……あ、すいません」
「はい、ただいま」
制服なのか、作務衣っぽい紺色の和服を着ている男の店員に声をかけると、ここでやっと水を持ってきた。
こういうのもハズレ要素に加算されるよな、という感情がムクムク湧き上がるが、大人気ないので表には出さない。
味と具材の見当がつかない『いたちうどん』に心を揺さぶられながらも、失敗を最小限に抑えたい気持ちを優先して無難なモノを注文する。
「えぇと、卵とじうどんに、かしわ天をトッピングで」
「はい、ご注文繰り返します。卵とじうどんをお一つ、かしわ天を単品でお一つ……以上でよろしいですか?」
「ああ」
「それでは、少々お待ちください」
厨房に入っていった店員の「たまとじイチ、かし天イチ」の声を聞きながら、メニューを閉じて元にあった場所に戻すと、醤油や七味が並んだ調味料トレーが目に入った。
ラー油や山椒はまぁいいとして、ナンプラーとかカレー塩は何に使うのか。
やっぱりこの店はハズレくさいな、と確信を深めて俺は小さく溜息を吐いた。
料理が出てくるまでのヒマつぶしに、スマホでこの店の評判を検索してみる。
有名外食情報サイトでは、星みっつとちょっと。
別のサイトでも似たり寄ったりで、可もなく不可もなくという感じだ。
まぁ、うどんを不味く作るのも難しいしな――そう結論を出しながら画面を切り替えたところで、店の自動ドアが開く音がした。
何とはなしに視線を向けると、絶妙な異物感を放っている男が立っている。
街中で遭遇してしまうと、本能が警戒信号を出してくるタイプのアレだ。
まるで部屋着のような、襟がダルダルの紺色のスウェット姿だから、だろうか。
四十ぐらいなのに、垢染みたベイスターズの帽子をかぶっているから、かもしれない。
何ともいえない感じの発生源を探っている内に、男は店員の案内を待たずに店の中へと入ってきた。
カツコツカツコツと硬質の足音を響かせ、男は早足で移動する。
ラフな格好なのに履いているのはピカピカの黒い革靴で、これもまたバランスが悪い。
店の奥へと向かい、男が視界から消えた。
早口で何かを言ったのに対して、若い女の声が「いえ、わかりません」と応じている。
店内に、嫌な緊迫感が広がっていく。
「そっか、そうなのか」
気の抜けた平坦な声がして、不穏さがグッと高まる。
男は再び移動を開始し、新聞を広げている六十くらいの鼈甲柄フレームのメガネをかけたオッサンの横で停まった。
さっき俺の注文を受けた店員は、まるで何事も起きてないかのように、客が帰った後のテーブルを片付けている。
コイツを止めないのかよ、と咎める意味を込めて睨むが、スイッと目を逸らされた。
「あの。ナカウチアツコ、知ってますか」
「はい?」
「ナカウチタカコの家の、アツコですよ。知ってるでしょ」
「いや、知らないです」
相手をするのが初めてじゃないのか、男に早口で話しかけられた鼈甲メガネのオッサンは、新聞から顔を上げないまま淡々と答えている。
ああ、こいつは『そういう扱い』でいつも適当に流されている、ここらの名物みたいな存在なのか。
そういうことなら、厄介は厄介だがそこまでの危険はなさそうだ。
男は新聞から顔を上げない相手に話しかけるのをやめ、再び移動を開始する。
こっち来るなよ――という思いが男に通じたのか、カツ丼を無表情で食っている坊主頭の若い兄ちゃんの方へと向かった。
坊主は男の接近には気付いたようだが、箸を止める様子はない。
「ナカウチ――」
「知らん」
「ナカ――」
「うっせぇ」
取り付く島もない、見事な塩対応だ。
メガネのおっさんと同様、こいつも慣れている感じがある。
勢い良く拒絶された男は二歩、三歩とテーブルから離れる。
目線は空中を彷徨い、両手の指は腹の前でうにうにと動いている。
そのキモい動作を中断した男は、首を左右にゆっくりと傾けてから、その場で小刻みに飛び跳ね始めた。
「んんんんんっ、んんんんんんんんっ!」
唸り声のような、鼻歌の出来損ないのような、よくわからない音を男が発する。
もうどうでもいいから、サッサと帰ってくれないかな。
そんな切実な願いも虚しく、男は俺の方へと近づいてきた。
料理の注文とかをシカトして逃げられないのが、日本人に特有のダメな律儀さだな――などと考えながら、やけに澄んだ目をした男の接近を待ち構える。
「ナカウチアツコを知ってますか」
男の言葉は、さっきまでと同じ質問だった。
ナカウチアツコ、というのは女の人の名前だろうか。
服が原因なのか体臭か口臭なのか、煙草とビーフジャーキーを消毒液で煮詰めたようなニオイが鼻につく。
帽子の下の、左のこめかみから後頭部にかけて細長いハゲが――いや、怪我の縫合跡か。
「あの、誰って?」
「ナカウチレイゾウの娘、アツコです。ナカウチアツコ、知ってますか」
「いや、知らないけど……その人、何なんです?」
こちらが訊き返すと、男は不思議なものを見るような目を向けてきた。
さっきは澄んでいると感じた瞳だが、こうして間近で再確認すると『異様にキラキラしている』と表現するのが正解に思えてくる。
無言で見つめ合うのに耐えられず、何か質問してみようかと悩み始めたタイミングで、男が「ぽぁ」と聞こえる変な声を発し、大きく息を吸った。
「ナカウチレイゾウとナカウチタカコの娘、ナカウチアツコです。生まれは山梨の韮崎、育ちは北区の滝野川。○○第四小学校、××東中学校、△△高校を卒業して●●●大学に入るが二年で中退、それから有限会社コンドウセイミツで事務員として勤務して、七年目に結婚退職したナカウチアツコですよ。それでサワダアツコに名前が変わったけど、三年で離婚したからナカウチアツコに――」
男は二拍くらい置いた後、相変わらずの早口でもってズラズラッと、ナカウチアツコとやらの情報を並べてきた。
ちょっともうマジで勘弁してくれ、という気分に追い込まれた俺は、男の言葉を遮って強い口調で質問を投げた。
「ああ、もういいって! それで、何をした人なの」
「ヒトゴロシです」
予想外の返事にぎょっとして固まっていると、男は俺の前に置かれていた水を勝手に飲み干し、グラスを逆さまに戻すと早足で店から出て行った。
呆然と後姿を見送っていると、店員がグラスの交換にやってきた。
黙って男の方を指差し「アレは何なんだ」と目顔で問うが、店員は苦笑いを返してくるばかりなので、仕方なく声に出して訊く。
「あいつ、何なの」
「まぁ……害はないから放っとくように、店長に言われてるんで」
いやバリバリ有害だろ、と返したくなるのを我慢して、質問を続ける。
「この店、よく来るの?」
「いえ、時々……それよりお客さん、随分と長く話しこんでましたけど、一体何を?」
「あいつが一方的に話してただけだよ。ナントカさん知ってますかって訊いてくるから、それ誰だよって訊き返したら止まんなくなって」
「ああ、やっぱりそんな感じですか。何か質問されてんのはわかるんですけど、何て言ってるのかサッパリわかんないんですよねぇ、毎回」
「……ぅん?」
「え?」
俺の疑問の声に、店員が訝しげに応じてくる。
どういう意味か確認しようとしたところで、「たまとじ、かし天、上がったよ」と俺の注文の完成を告げる女性の声が、厨房から聞こえた。
それを運んできたのが別の店員だったせいで、話は半端なところで中断されることに。
微妙なモヤモヤを抱えつつ啜るうどんは、まるで記憶に残らない味だった。
火傷しない程度に急いで丼の中身を腹に収めると、伝票を手にしてレジに向かう。
入った直後からハズレの予感がする店だったが、話のネタになるという意味ではアタリだったかも、などと思いながら店員が来るのを待つ。
ふと、壁に掛けられたプレートの文字が目に入った。
食品衛生責任者――仲内敦子。




