それより僕と踊りませんか
休日だけど中途半端な時間帯なせいか、都心へ向かう電車内は座席にもポツポツ空きが見える程度の乗車率だった。
私はドア脇の壁にもたれ、肩に掛けたバッグから文庫本を取り出そうとする。
だが、手を入れてもそこにあるはずの感触が返ってこない。
「あっれ……」
おかしいな、と思いながら広くもないバッグの中を掻き回すが、書店の紙カバーをかけられた文庫は見つからない。
家から出る時には確かに入れたし、さっきまで待合所で――
そうだ、電車が来るまで五分くらいあったから、ちょっと読み進めようとして。
途中で着信があったんで、本を隣の席に置いてスマホに持ち替えて、話してる内に電車が来たんで待合所を出たんだった。
そこまで思い出したところで、アナウンスが次の停車駅を告げてくる。
昨日買ったばかりの、読みかけの新刊文庫本。
もう誰かに持ち去られているかもだけど、まだ一駅しか離れてない。
どうせ急ぎの用でもないし、残ってたらラッキーくらいの気持ちで戻ろう。
そう決めた私は、電車を降りて下り方向のホームへと向かった。
ベビーカーを押している女性と入れ違いに、私は待合所へ足を踏み入れる。
何だか慌てている様子だったな、と思いながらガラス張りの室内を見回す。
中にいるのは、腕組みをして忙しなく貧乏揺すりをしている男が一人だけ。
その隣の席に、私の忘れ物と思しきカバーのかかった文庫本が見えた。
雰囲気的に多分間違いないが、万が一ということもあるので男に声をかける。
「あの、すみません。その本って――」
「ぁあ、ん」
かすれた声で応じた男は、私をチラッと見るとすぐまた視線を元の位置に戻す。
パサついていそうな長めの髪には、白髪がかなり混ざっている。
だが肌の感じと服装は若そうで、どうにも年齢不詳だ。
無視されるのかな、と思ったが男は腕組みを解くと緩慢な動作で本を拾い上げ、こちらに差し出してくれた。
「あっ、どうもです」
浅く頭を下げながら本を受け取る。
軽めに冷房が効いているのに、何故か日向に長いこと放置していたような、ボンヤリとした熱を指先に感じた。
挿んでおいた栞が消えているので、ページを捲って中身を確認する。
「……えっ?」
パラパラと見ていく作業を始めた直後、つい疑問の声が出てしまう。
この本、私のじゃない。
というか本でもないし、何なのこれ――
「ぅ、ぐぇ……」
手の中にある、大学ノートを文庫サイズに切って束ねたらしいモノを読む内に、胃の辺りから濁った音が迫り上がった。
余白を作ってしまうのを恐れているかのように、サイズが均一な文字と不可解なイラスト、そして意味不明な図やグラフで埋め尽くされたページがどこまでも続く。
異様に強い筆圧で描かれた、小鳥の体に女性の歪んだ顔らしきものが乗っている絵。
特定の宗教と政権与党の癒着を糾弾しているのかと思えば、途中からよくわからない電気回路の説明にワープしている図。
途中で★や◎みたいな謎の記号が混入しているので、確実に珍妙なことになっているであろう数式。
そういったものに混ざって、雑誌や新聞から切り抜いたと思しき写真や文章の一部が貼ってあるが、前後との脈絡がどこにあるのか見当がつかない。
とんでもなく目が滑る物体だったが、赤ペンで書かれていて繰り返し出てくる、三種類の四文字だけは強烈な印象を押し付けてきた。
一つめは、『胎中潔浄』。
二つめは、『淫奔矯風』。
読み方もわからないし、そもそもそんな言葉があるのかすら怪しい。
でも三つめに関してなら、誰よりもよく知っている。
新島優佳――私の名前だ。
気付いてしまった瞬間、手にしたモノへの嫌悪感が爆発的に膨張する。
フンッ、と鼻で笑う音に反応して顔を上げると、これを渡してきた男は何故か憐れみを滲ませた感のある、湿った視線を私に向けていた。
「ふぃッ――!」
私は悲鳴を噛み殺し、本だかノートだかわからない気持ち悪い何かを振りかぶると、男に向かって全力で投げつける。
踵を返し、ノロノロと開く自動ドアの隙間に体をねじ込んで、待合所から一歩でも遠くに離れようと走った。
「まってよ」
「なんでよ」
そんな声が、背後から追いかけてくる。
怒鳴ったりするのではない、ただただフラットな大声だ。
こちらの行動に対して、本気で戸惑っているような気配すらあった。
それがまた、全身を掻き毟りたくなる類の不快感を喚び起こす。
叫んで助けを求めたい――けど息が苦しくてそんな余裕がない。
反対側のホームで電車を待つ老夫婦が、不思議なものを見る目を向けてくる。
何も考えず逃げてしまったが、この先は出口につながっていただろうか。
走るほどに頭の中が白くなり、思考能力が低下していく。
「――だから――だって――みんな――なる――でしょ」
男がまた何か言っているが、断片的にしか聞き取れず、内容が汲み取れない。
わかったところで、何がどうなるものでもないのだろうが。
慣れない全力疾走に喘いでいると、白くなった脳裡をスクリーン代わりに、自分が殺されるシーンがスライドショーみたいに展開される。
長い刃渡りのナイフで、背中を抉られ首筋を裂かれる。
通過する急行電車の前へと、体当たりで突き飛ばされる。
首にロープをかけられ、引き倒された後で一気に絞められる。
タックルで転がされ、地面に顔を何度も叩き付けられる。
考えたくないのに、次から次へと鮮明な映像が現れる。
『もうやだ、何なのこれ、早く終わって――』
心からの願いが声に出せていたかどうか、自分では判別できない。
何かのアナウンスが流れ始めた直後、地面から両足が浮く感覚があった。




