ないてないてなきやんだら
『島野のヤツ、体調悪いっつって休んでから、もう五日だろ。シフトもガタガタだし……見舞いがてら、ちょっと様子見てきてくれんか、根岸? ほら、これで適当に差し入れでも買って』
バイト終わりに着替えていると、店長が千円札を差し出しつつそんなことを言う。
自分としても多少は心配していたので、職場の先輩である島野を見舞うことにした。
島野の住んでいる場所は自宅の反対方向になるが、店からは原付で十分もあれば行ける距離だ。
ラインで『これから家に行っていいか』と確認すると、変な動物キャラが『OK』と言っているスタンプが返ってきた。
返信の速さからして、身動きが取れないレベルの不調ではないようだ。
俺はそんな判断をしつつ、途中にあるスーパーで栄養ドリンクやレトルトの粥などを買い込み、島野の住む1Kのアパートへと向かう。
何度か行ったこともあるので、特に迷うこともなく目的地へと到着した。
俺は駐輪スペースに愛車ってほど愛着もない原付を停め、スーパーの袋を提げて島野の部屋のインターホンを鳴らす。
一分以上待たされ、もう一回呼び出しボタンを押そうか検討し始めたタイミングで、チェーンとロックを外す音がしてドアが開き、寝癖だらけの頭で顔色の黒ずんだ島野が顔を出した。
「ぅ、おう……何か久々だな、ネギ」
「顔合わせるのは一週間ぶりくらいですかね。店の皆、心配してますよ」
「あぁ、もうそんなか。スマンな、ホント……まぁ、ちょっと上がってくれ」
「はい、あのこれ、見舞いっていうか土産っていうか」
俺は島野にビニール袋を渡しつつ、玄関で靴を脱ぐ。
島野は膝に変な負荷がかかりそうな歩き方で、キッチンを抜けて居間兼寝室へと戻る。
その様子からして確かに調子は悪そうだが、長く寝込んでいた雰囲気でもない。
キッチンにも洗い物や生ゴミが溜まっていることもなく、病人がいる家に特有の澱んだ空気みたいなものも感じられなかった。
「それでシマさん、どうしちゃったんですか」
「どう、したんだろうな……」
楕円形のテーブルを挟んで正面に座るスウェット姿の島野は、質問に疑問を返してくる。
首を傾げ、半端に伸びた無精髭に覆われた顎を撫でているその様子は、ふざけているのではなく本気でわかっていない感じだ。
しかし、こちらとしては更に何が何だかわからないので、不毛な問答になるのを予想しつつも質問を重ねる。
「風邪とかインフルとか、そういうのじゃないんですよね」
「ああ。違う、と思う」
「店長からは『体調悪くて休むらしい』しか聞いてないんですけど、具体的にどんな」
「どう言ったらいいのかな。全身がだるい……いや、頭か。頭が重くて、体が動かないっていうか……とにかく、何もかもがしんどい」
普段の軽さとは種類の異なる力の入ってない喋りは、島野の語る症状を裏付けている。
寝れば楽になるとかでもなく、ただただ緩やかな苦痛が続いているような気配だ。
「とにかく、病院に行っといた方がいいのでは」
「んー……一応は行ったんだがな。一昨日、駅近くの橋田総合病院」
「医者は何て?」
「色々と調べた挙句に『しばらく様子を見ましょう』だと」
よくわからん、という場合に医者が口にする常套句だ。
感染症だの内臓疾患だのが原因ならば、ある程度は見当をつけられるだろう。
なのに明言を避けたのは、相当にややこしい難病の類か、或いは病気の範疇にない症状なのかも。
「原因っていうか心当たりっていうか、そういうのは」
「いやぁ、全然……ホント、いきなりこんな感じになって、良くも悪くもならない――いや最悪なんだけど、最悪なまんまで六日目なんだわ」
「うーん……どういうこと、なんですかね」
「こっちが訊きたいんだが」
乾いた溜息を吐き、島野はわざとらしい苦笑を浮かべる。
そして二人で見つめ合い、変な間が空いてしまった。
「ちょっとトイレ、借りますね」
微妙に気まずい沈黙を断ち切ろうと、大して行きたくもなかったが部屋を出てトイレに向かう。
手前にある洗面台には、青黒くフワフワしたものが広範囲に張り付いていた。
カビなのかホコリなのか、正体が何にしても数日程度の放置でこんな状態になるとは、ちょっと考え難い。
「ヤバくないか……?」
頭に浮かんだ不安が、独り言になって自然とこぼれる。
用を足して部屋に戻ろうとしたところで、何故かキッチンの床に直置きされている固定電話が目に入った。
留守電ボタンの赤い光がゆっくり点滅し、メッセージが残されているのをアピールしている。
しゃがんでディスプレイを確認してみると、未確認の件数が五十三件というゴツいことになっていた。
「あの、シマさん? 部屋の外にある電話って」
「ああ……まぁ、何つうかアレだ。うるせぇから着信音を切ってある」
「いや、うるさいって。留守電がアホみたいに入ってましたけど」
「いいって。どうせ殆ど同じのだし、放っときゃいいんだって」
島野が何を言っているのかよくわからなかったが、体調不良の原因につながる何かがここにある予感がした。
なので電話機を部屋に持ち帰りつつ、もう少し踏み込んでみる。
「同じ、ってかけてくる相手が? それともメッセージの内容が?」
「内容が。非通知なんで、どっからの電話かはわからん」
「イタズラなんですか」
「どうかな……お前も聞いて、確かめてみるか?」
言いながら、島野の目が少し濁った気がした。
そんな島野から視線を外し、テーブルの上に置いた灰色の電話を見下ろす。
厭な予感しかしないが、この流れで「やめときます」というのも何か違う。
そう判断した俺は、顔を上げて頷き返した。
島野が、本体の脇にあるスピーカーの音量調節のツマミを調整する。
「再生するのは、赤いボタンな」
「はい……行きますよ」
赤く点滅する丸に触れると、『用件を再生します』という無機質な声と、ピーッという短い発信音の後で、その音が流れてきた。
『ぅうえっ、えっ、ぶぇ、うぇ、えんっ……ふぁああああぁああああぁ……ああぁああああ、あああぁああ……ぅああああああぁん、あああああぁあああぁあああぁ……』
再生が終わり、機械音が昨日の夜中の日時を告げる。
何だこりゃ、と口に出すのを我慢しつつ島野の様子を伺うと、顰めっ面で電話をジッと見ている。
再び発信音が鳴り、次の用件が再生された。
『ひっ、うぅひっ、んっ、ひっ――ひんっ、ふっ、ふぅうう……ひっ、ひぐっ、くっ……ひぃんっ、ひっ――うっく、ひっ、ひんっ、ふぅ……ん、んあっ、ぁああああああ』
ここで音は途切れ、さっきから十数分進んだ時刻を告げられる。
次の用件を再生する前の発信音の最中、島野が再生停止ボタンを押した。
五十一まで減った留守録件数をしばらく眺めた後、俺は訊いても仕方ないだろうとは思いつつも訊く。
「……何ですか、これ」
「だから、わかんねぇんだって。こんなんがずーっと入ってるんだ」
スピーカーから流れてきたのは、年齢も性別も不祥の泣き声。
最初のは、悲憤が際限なく昂った挙句の慟哭のようだった。
次のは、鎮まりかけた嗚咽が何かのタイミングで破裂したような。
にしても、剥き出しの感情を含んだ泣き声というのは、やたらと癇に障ってくる。
「こんな泣き声が、延々と入ってるんですか」
「そうなんだよ。イタズラにしても、何でこんなブタみたいな……」
留守電に入っているのが、普通じゃない音声なのは間違いない。
だけど、ブタって表現はどうなんだ。
違和感があったので、一応確認しておく。
「泣き声、ですよね」
「だから、鳴き声だろ」
ニュアンスがやっぱり違うようだ。
俺は右の瞼を小刻みに痙攣させている島野に「ちょっといいですか」と断り、赤く点滅するボタンをもう一度押す。
『ひっふ、ひっ――すん、すっ、ふぅうう……ひくっ、ふぁっふ、ひっ……ぅうううう、ふぅうううううんんんん、んんぁふぅうううううううっ、ぅうう……ひっん、くっあ』
喚き散らしたいのを歯を食い縛って堪えているような、そんな啜り泣きを垂れ流した後で録音は終わる。
俺は停止ボタンを押してから、訝しげな視線を送ってくる島野を見返し、質問を投げた。
「シマさん、今のってどんな感じに聞こえてました?」
「どう、って……ネギも聞いてたろ。ブイブイブヒブヒ、ブェゲゲゲゲって。ブタの鳴いてる声、聞いたことないんか」
「いや、それはあるんですけど……」
島野の返事に、これまでに感じていた不安とは別種の落ち着かなさが生じた。
それは尻の辺りから背骨を這い上がり、速やかに全身へと拡散されていく。
一体何が聞こえてるんだ、あんたには――
そう訊いてしまいそうになる寸前、着信音が鳴ってディスプレイのライトが点る。
発信元は非通知だ。
島野の方を見ると、電話を指差してから俺を指差す。
どうやら「お前が出ろ」と言っているらしい。
泣き声が聞こえたらすぐ切るか、と思いつつ俺は受話器に手を伸ばした。
「……はい?」
『……………………』
相手は何も言わず、カリカリカリ、カリカリカリカリ、とネジを巻いているような音だけが返ってくる。
三十秒ほど待っても進展がないので、こちらから話を進めようとした瞬間。
「あの――」
『かぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっかぃせっ』
「ふぉあっ!」
物凄い圧縮された早口で音の塊が流れ出て、反射的に受話器を叩き付けてしまった。
怒声や罵声ではないが、濃密な悪感情を孕んでいる。
ついでに言えば、女性の声じゃないかと思えた。
妙なアクセントだったが、何と言っていたのか。
かいせ、せっかい――いや、多分『かえせ』だ。
途中で『カァオ』とか『ガァイ』とか、別の誰かの意味不明な声も混ざっていた気がしたが。
脂っぽくなった額を擦りながら電話を凝視していると、島野が不安げに訊いてくる。
「やっぱり、ブタの泣き声か」
「いえ……女の人、でした。『かいせ』だか『かえせ』って、繰り返し何度も」
「かい、せ……かえせ……」
「はぁ、そう聞こえましたけど」
何か思い当たるフシでもあるのか、と島野の様子を伺う。
黒ずんで見えていた顔色が、一転して真っ白になっていた。
血の気が引いて青褪める、というのはこういう状態を表現しているのだろう。
よろめきつつ腰を上げた島野は、倒れ込むような姿勢で指先の震える右手を伸ばし、俺の肩を弱々しく掴む。
「あのな、ネギ。ちょっと頼みたいことが――」
「お断りします」
考えるよりも早く、自動的に拒絶のセリフを述べていた。
愕然としている島野の手を払い除け、俺は靴の踵を履き潰してアパートから転げ出る。
何を頼まれかけたのか不明だが、本能が『話を聞くな』と告げてきた。
島野からの恨み言は、次に会った時に聞くことにしよう――次があれば。




