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ありふれた悪夢 ~ホラー短編集~  作者: 長篠金泥


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ちがいます

 化学薬品を扱う会社に勤めている、Kさんから聞いた話。


 数年前の十月のこと。

 通常なら電話とメールのやり取りだけで済ませてしまうような小口の取引なのに、東京の南西部にある本社から北関東の某所までKさんが車で出向いたのは、新規の取引先に担当者として挨拶するという意味も含めてのことだった。


 打ち合わせは滞りなく片付いて、商談そのものもスムーズにまとまった。

 今回の注文では大した儲けにはならないが、コンスタントに取引が続けば上客になってくれそうな気配がある。


 今後の窓口役となる相手に見送られて客先を出たのは、まだ夕暮れの半端な時間帯。

 今日中に東京へと戻れそうだが、上司からは泊まりの出張でいいと言われているし、何だかんだと気疲れしている状態で、長時間の単独ドライブは少々厳しいものがある。


 そう判断したKさんは、それなりに栄えていそうな駅近くの場所で宿をとってから、軽めに飲みに行くことにした。

 スマホで検索してみると、近くのビジネスホテルよりも二割ほど安い宿泊料金なのに、落ち着いた雰囲気を漂わせている良さげな旅館が見つかった。

 ただ、あまりにもサービス価格すぎて若干の胡散臭うさんくささも否めない。


「ダメ元で、訊くだけ訊いてみるか……」


 釣り広告的な感じかもな、と思いつつ予約の電話を入れてみたKさんだったが、特に何の問題もなく宿を確保できてしまった。

 着いた先で案内されたのは、一人客には贅沢に思える広縁付きの十畳間で、歴史を感じさせる外観に反し、内装は小奇麗で畳の匂いも新しい。

 これならゆっくり休めそうだと安心したKさんは、荷物を置いて駅周辺へと向かった。


 一軒目は常連だけを相手にしているようないけ好かない店だったが、二軒目はマイナーな地酒を揃えて郷土料理なども豊富に用意してある、中々気が利いた店だった。

 いい具合に酔って宿に戻ったKさんは、あまり動きたくない気分だったので雑に入浴を済ませ、用意してあった布団の上に寝転がる。


 そしてボンヤリとスマホをいじっていたKさんは、自分がいつの間にか転寝うたたねしていたことに気付く。

 画面を見れば、最後に確認した時刻から五十分ほど経っていた。

 変な姿勢で半端に寝てしまったせいか、軽めの頭痛が湧き上がっている気もする。

 明かりを消して布団に潜り込むと、数分もしない内に眠気が再びやってきた。


 ぐいっ、ぐいっ


 胃の辺りに重みが生じて、Kさんは目を覚ましかける。

 強く押されているような、もしくは踏まれているような、そんな圧力が腹部にかかっていた。

 飲みすぎ、ってことはないよな――まだハッキリしない頭で考えながら、とにかく身を起こそうとするのだが、どうしても上手く力が入らない。

 というか、動かそうとしているのに体が言うことをきかない状態だ。


 どうなってんだ、こりゃ。


 疑問を言葉にしようとするが、唇も舌も動かない。

 目を開けようとしても、まぶたが持ち上がらない。

 もしかしてまだ夢の中なのか、と思ったが心音はリアルに聞こえてくる。

 そこでKさんは、自分の置かれた状況を説明するのにピッタリなものを思い出す。

 これは俗に言うところの、金縛りってヤツなのでは――


「ちがいます」


 Kさんの思考に割り込むように、早口な女性の声が否定してきた。

 機嫌の悪い中年女性みたいな雰囲気もあるし、母親のそんな発言を真似した子供の声と言われても、そうかもしれないと思える奇妙な響きがある。

 しかし違うと言われても、普通こういう状態を金縛りと呼ぶんじゃないのか。


 というか、お前は誰なんだ。

 どうやって入ってきたんだ。

 いつから、ここにいたんだ。


 何かがおかしいと気付いてしまったせいで、困惑と恐怖と焦燥がKさんの頭の中でグルグルと渦巻く。

 混濁した感情はやがて『次に何が起きるのか』という不安に集約される。

 耳を澄ますが物音は聞こえず、鳩の低い鳴き声が遠くから届くだけ。

 声の主の気配も感じ取れないが、胃の辺りにかかる圧はまだ残っていた。

 

 かなり長い時間が経過した後で、不意に光を感じた。

 目を開けようとKさんが意識すると、今度は普通に目が開くし体も動く。

 腹を押される異物感は消え、カーテンの隙間からは薄く朝日が差し込んでいる。

 起き上がって明かりをつけるが、部屋の中には誰もいなかった。


 頭の芯に妙な重たさが残り、肩には変な張りがある。

 まるで徹夜の後みたいに疲れが取れておらず、コンディションは最悪だった。

 Kさんは季節はずれの寝汗で湿った頭を右手で掻き回しながら、深々と溜息を吐いて自分の身に起きたことについて考える。

 生まれて初めての経験だが、これはやっぱり心霊体験――


「ちがいます」


 考えている途中で、夜中耳にしたのと同じ口調の否定が聞こえた。

 どこから、と慌てて周囲を見回してみるが、当然ながら部屋の中には誰もいない。

 ただ、気のせいかもしれないが――

 カーテンの下部が、不自然に膨らんで見えた。

 まるでうずくまった誰かが、布一枚をへだてて隠れているように。


 Kさんは窓の方をなるべく見ずに急いで荷物をまとめると、早々に旅館から逃げ出した。

 その後、件の旅館や周辺地域についてネットで調べてみたが、この出来事を説明できそうな情報は何も見つからなかったそうだ。

今回は創作ではなく、実話ベースになっております。

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