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ありふれた悪夢 ~ホラー短編集~  作者: 長篠金泥


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図鑑に載ってないアレ

 首から胸にかけて、得体の知れない圧迫感があった。

 生温かい重さがへばりついていて、どうしようもなく息が詰まる。

 日光に晒されすぎたプールで溺れているような、そんな感覚。


 眩しい――ここは――あれ?


 気がつけば、見慣れたアイボリーの天井と、LEDの平べったく白い照明が視界に入り込む。

 自分の部屋で一人酒をしていて、いつの間にか転寝うたたねしていたようだ。

 圧迫感の原因を退かすと、「ぅなっ」と不満げな短い鳴き声を発して逃げ、ベッドからチェスト、チェストから本棚へと素早く飛び移り、高所からこちらをジッと見下ろしてくる。


 何年飼っても馴れない猫だな――と思いつつ、変な寝癖がついた髪を撫でる。

 時計を見れば、あと数分で夜中の三時といったところだ。

 このまま寝直したいダルさだったが、そうするには頭がハッキリしすぎている。


「あー……歯、磨いとくか……」


 大した量も飲んでないのに寝落ちしてしまうとは、疲れが溜まっているのか酒に弱くなったのか。

 どちらにしても、まだ三十前だってのに先が思い遣られる。

 三十近いのに実家暮らしでバイト生活、って事実にも不安しかないが。

 そんなことを考えながら、二階の自室から一階の洗面所へと移動する。


 床で寝たのがマズかったのか、右肩や腰の周りに違和感が残っている。

 階段を下りながら腕を回したり、背筋を伸ばしたりしてみるが、あまり効き目があるようにも思えない。

 いっそ、もう一回風呂にでも入ろうか。

 そんな考えも過ぎったが、それをやったら完全に目が覚めてしまう。


「明日は休み、明後日は遅番……」


 中身の少なくなった歯磨き粉を捻り出しながら、小声で何となく呟く。

 学生時代には確実にあった、休日前に浮き立つ気持ちはどこに消えてしまったのだろう。

 最近は仕事している時も遊んでいる時も、無意味にダラダラしている時でさえも、大体同じ低めのテンションで固定されている気がしてならない。


 特に用事も目的もないが、明日はどこか遠出してみようか。

 電車で街に出てもいいし、自転車でフラフラ走ってもいい。

 ボンヤリと明日の予定を考えながら歯ブラシを動かしていると、視界の右端に何かがあるのに気付いた。


 近眼を細めて、その何かを凝視する。

 黒っぽくて、一センチないくらいの――シミだろうか。

 いや違う、じわじわ動いてる。

 Gの幼生かとも思ったが、フォルムからして違うように思えた。


 メガネを置いてきたせいで、パッと見だとよくわからない。

 もっと近付いて見ようとして、飛んでぶつかられるのもイヤだ。

 多分チョウバエとかいう羽虫だろうと判断し、ブラシを咥えると右手の人差し指で始末することにした。


 かしゃふ


 ちょっと予想してない音と手応えがした。

 セミの抜け殻を握り潰したような音と、短いチョークを指先で押し砕いたような感触。

 意識の外側にあるモノに触れてしまった薄気味悪さに、ふつふつと肌が粟立っていく。


「うぅわ――」


 指先を確認すると、潰した何かのサイズとは釣り合わない、大量の赤色でベットリと染められている。

 動物性でも植物性でもなさそうな、メタリックな風合ふうあいを帯びた嘘っぽい赤色だ。

 クリーム色の壁を見ると、濡れた手で触った後の水滴がチョコンと残っているだけで、黒い残骸も赤いシミも存在しない。


 何だこりゃ、何が、何を――何なんだ?

 混乱しつつも、まずは妙な汚れを落とそうと流水で指をこする。

 洗面台は赤く染まるが、赤色の薄まっている感じがまるでしない。

 石鹸を使ってみても、汚れた範囲が広がるばかりで、事態は一向に改善しない。

 

 シャンプーとかメイク落としとか、そういうのを使ってみるか。

 思い付いて風呂場に向かおうとすると、指先に痛みが走る。

 刺し傷や切り傷によるものではない、輪ゴムを何重にもキツく巻かれた状態に似た、締め付けられるタイプの疼痛とうつう


 痛む箇所を見ても触れても、何が起きているのかわからない。

 もしかすると、この赤に塗りつぶされている下で、ヤバい感じに肌が変色してたりするのだろうか。

 ロクでもない想像ばかりが浮かんで、不安が胃の底に溜まっていく感じがする。


 ゴトッ


 重たい落下音が響くのと同時に、視線が不意に五十センチほど下がる。

 自分が両膝をついている、と気付くには五秒ほど必要だった。

 いきなり妙な格好で転んだことに戸惑いながら、まずは立ち上がろうとするが力が抜けていく。

 体は脳からの指示を無視して尻餅をつき、続いて上半身も床に突っ伏してしまう。


「っふ……ぁ……」


 これは本格的にヤバい、と直感して大声で誰かを呼ぼうとするが、舌がロクに動かず口もまともに開いてくれない。

 指先のうずきは腕から肩へと移動し、そこから緩やかに全身に広がる。

 痛みを追いかけてしびれも湧き上がり、呼吸ができているのかどうかも覚束なくなっていく。


 混濁する意識を捉まえられない。

 海水のような味が口腔に満ちる。

 体中が細かい泡で埋め尽くされていくような感覚。


 この次に目が覚めた時、自分はどうなっているのだろう――いや、それよりも。

 ちゃんと目が覚めるのだろうか。

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