完全に手遅れ
「ミラーハウス、ですか? あの、遊園地とかにある?」
「は? どうして遊園地が出てくんだよ。竹薮の中にあるボロッボロのでっけぇ家、それがミラーハウスだっての。なぁ大内」
俺からの質問に、ピントのズレた答えを返してきた赤ら顔の男は、隣に座っている大内の肩をバンバン叩きながら笑う。
されるがままの大内は、マイナス感情を漂白するのに失敗した、作り物の笑顔で中途半端に頷いている。
高校時代の友人である大内から「今度の週末、久々に飲まないか」と連絡があったのは数日前のことだ。
お互いに何だかんだと忙しく、最後に顔を合わせて会話したのは半年以上も前になる。
そんなわけで土曜の今日、大内の地元にある行きつけだという居酒屋に向かったのだが――そこでメンドくさいタイプの酔っ払いに捕まった。
「松島クン、だっけ? そのミラーハウス、だけどな。マジで、マージでやっべえんだわ、あそこは。ありゃシャレんなってないよな、大内」
「らしいっすね」
大内の通っていた中学で七学年上の先輩だったという柳原は、何の接点もない年齢差の相手でも先輩後輩で括る性質からもわかるように、典型的なマイルドヤンキーだ。
基本的に駅周辺の店で飲んでいるのだが、今日はそこらでしばらく飲んだ後で、気まぐれに住宅街方面へ流れてきた、と言っていた。
「ちょっと便所行ってくっから、ミラーハウスのヤバさをシッカリ説明しとけ、な?」
大内を指差しながら言うと、柳原はデカい声でどこかに電話しながら席を離れる。
ここで大内から得た情報によると、柳原は似たような人間性の連中とつるんでいる地元のボンクラネットワークの中心で、ヤクザや水商売方面にもある程度は顔が利くそうだ。
とはいえ、柳原本人は親の経営する内装屋でもって、地味に働いているのだが。
で、飲み屋で俺らみたいな若いのを見かけると、地元がこの辺なのかとか中学はどこかなどを聞き出し、後輩扱いできると判断したら勝手に身内に組み込んでくるのだという。
大内もそんな感じで、その日まで面識もなかったというのに、駅前の串揚げ屋で声をかけられてから強制的に後輩扱いになり、今では顔を合わせる度に無駄な時間を過ごさせられるハメになっている――と、心底イヤそうに説明してきた。
マイルドヤンキー精神を持っていない者からしてみると、自慢話と風俗話と思い出話が九割を占める柳原の相手は苦痛でしかなく、しかも奢ってくれないどころか下手すると数千円多めに払わされる場合すらあるので、近隣の若者の居酒屋離れに一役買っているらしい。
聞けば聞くほど、三十過ぎてるってのにアホかお前は、としか言い様がない困った生き物だ。
「何つうか、キッツいな」
「いやマジごめん、まっちゃん。ここじゃアレと顔合わせたことないんで、油断してた」
「まぁ、いいけどさ……ところで、ミラーハウスってのは何なん?」
「それ昔からある、この辺で有名な心霊スポットなんだわ。色々と噂はあるけど、行ったことある奴の話だと、基本的にはただの廃屋だってさ」
どこにでも似たような話はあるな、と思いながら大内から噂の内容について聞く。
かつて、連続殺人事件の犯人である兄弟が住んでいた。
二十世紀初頭、軍の機密が絡んだ大量殺人の舞台になった。
狂った父親が無理心中を図り、一家が全滅した。
金持ちの変態が地下室で奴隷を飼っていて、拷問で十人ぐらい殺して庭に埋めた――
どれもこれも設定がド派手で、リアリティという面で大問題を抱えている。
「要するに、ありがちなヨタ話か」
「だろうね。ああいう連中って、この手のネタやけに好きだよな」
個人的には、普通に生活していたらまず縁のない珍獣に遭遇したような感じで、柳原という人物はある意味では興味深いものがある。
ただ、ダラダラと要領を得ない思い出話に続いて、胡乱な心霊話を聞かされるのはちょっとばかり厳しい。
大内ともマトモに話ができないし、適当な口実を作って別の店に移動しよう――そういう感じに流れが固まったところで、柳原が戻ってきた。
「じゃあオメェら、これからミラーハウス行くから、準備しとけ。換えのパンツとか」
「は? いやいや柳原さん、あそこ歩いて行ける距離じゃないっすよ。全員もう酒入ってるから運転無理だし、タクシー代も――」
「ばーか、そんな心配いらねっての」
そう言いながら柳原は椅子に腰を下ろし、大内の頭を右手でわしわしと掻き回す。
それからワックスでベタついた手を大内のシャツで拭うと、ジョッキに半分ほど残ったアセロラサワーを飲み干してスマホを掲げる。
「さっきな、アズっていう四個下の後輩に連絡して、俺らを車で拾いに来るように言っといたから。マッハで来いって言っといたから、マッハで来るぜ」
「アズさん、ですか?」
「おう、東って書いてアズマな。会ったことないか、松島クン」
「はぁ……ていうか、柳原さんとも今日が初対面ですけど」
「あぁ? そうだっけ? まぁいいや。とにかく行くぞ、ミラーハウス。ちょっと距離あんし、大小便は済ませとけよ、松島」
早くも呼び捨てにされる状況に、自分も後輩枠に入れられたのだと悟る俺だった。
二十分くらい待たされた後で店に顔を出した東は、柳原に対する口調はバイト敬語だったが、あからさまに「めんどくせぇな」という気配を漂わせていた。
柳原はそれに気付いていないのか、或いはいつもそんなノリなのか、特に態度を咎めることもなく、テンション高めに東を紹介してくる。
「これがアズな。呼びづらかったらアズマックスでいいから」
「いや、それ芸人じゃないスか」
「で、こっちが大内と松島な。アズからだと三つ下になんのか?」
「あぁ、そうスか……」
第一印象の通り、東は結構ぞんざいに柳原に接しているようだ。
そして、柳原が一人でどうでもいいことを喋り、それに他の三人が愛想笑いや適当な相槌を返す、ウンザリさせられるドライブが三十分近く続いた後、東の運転するワンボックスカーのカーナビが、目的地周辺に着いたことを報せてくる。
「これは……結構、雰囲気あるっていうか」
「な? やべぇだろ、ミラーハウス。中もっとやべぇからな。覚悟しとけよマジ」
車から降りて問題の洋館に相対した俺の呟きに、柳原は何故か自慢げに応じる。
周囲は畑ばかりで人家はなく、街灯すらも設置されていない。
月明かりに照らされたその館は、かつては瀟洒な建物だったのだろうが、今では竹薮に埋もれかけた廃屋となっていた。
建物の周りは、ぐるりと高いコンクリの壁で囲われている。
半分くらいは竹に侵食されているが、見えない部分も似たような感じだろう。
金属製の重厚な門は、チェーンで何重にも巻かれて封じられた挙句に大型の錠が下りていて、ちょっとやそっとじゃ開けられそうもない。
「中って、どこから入るんです?」
「裏に回ると、鍵の壊れた通用口みたいのがあんだよ」
大内からの質問に答えた柳原は、東に用意させたらしいマグライトを手に、俺らを先導するように竹薮の中に足を踏み入れる。
どう考えても行きたくないシチュエーションだったが、選択の余地はなさそうなので俺と大内は仕方なくついて行く。
「あの、俺らの分のライトって、ないんですか」
「もうねぇよ。贅沢言うな」
足元が覚束ないので東に訊いてみるが、懐中電燈的なものは柳原と東の分しかないようだ。
しょうがないので、月明かりとスマホの明かりを頼りに、ゆっくりと暗くて足場の悪い道なき道を進んでいく。
放置されたままの竹薮の根は、地面のアチコチに凹凸を作って、こちらの足を引っ掛けようとしてくる。
「とっ、おうっ――ったく、何でこんなことを」
「ごめん、ホントごめんな。この埋め合わせは、近い内にするから」
転んで地面に手を突かされた俺が小声で愚痴ると、同じくらいの音量でもって大内が謝ってくる。
別に大内を責めたいワケではないので、溜息を一つ吐いて立ち上がると手のひらの汚れを払い、先に見える柳原と東の持っている光源を追った。
程なくして二人の足が止まり、ライトが通用口らしい金属製のドアを照らし出す。
「おぅ? 立入り禁止の看板、なくなってね?」
「誰かが持って帰ったんじゃないスか、戦利品とかそういう感じで」
「マジかよ。ったく、マナーがなってねぇな」
そんなことを言いながら、柳原はドアを開けて平然と不法侵入を開始する。
ドアの端が地面を擦っているのか、ガロガロガロッと派手な音が響いた。
手招きをする東に従い、俺と大内もドアを抜けてミラーハウスの敷地内へと入る。
館の裏手は竹薮の侵食を免れていたが、セイタカアワダチソウがみっしりと繁茂していて、手入れのされていない川原みたいになっていた。
「ここを抜けると、秘密の入口があっから」
その辺の酔っ払いが知ってる秘密って何だよ、と思いつつ俺は黙って柳原に頷き返す。
最近は誰も出入りしてないのか、獣道すらない雑草の中を漕いで広い庭を突き進む。
そうやってしばらく進むと、草の生え方が疎らになっている場所に出た。
足元が硬い――暗くてよくわからないが、石畳が雑草の成長を阻害しているようだ。
「アズ、ここだったよな」
「そっスね。じゃ、コレどかしますんで」
そんな会話の後、東は窓の頑丈そうな鎧戸を無造作に外した。
どうやら、ここが侵入者達の玄関になっているようだ。
柳原と東のライトが、長年に渡って荒らされ続けた屋内の様子を照らす。
想像よりもマトモな状態だが、落書きだらけの壁とゴミだらけの床、そして破壊された家具の織り成す風景は、廃墟に特有の寒々しい気配に満ちていた。
「そういや、どうしてミラーハウスって呼ばれてんです?」
「あー、確か前の持ち主のコレクションだか何だかで、家の中が鏡だらけだったとかそんなんじゃなかったか。鏡は殆ど割られたり盗まれたりで残ってねぇとか、そんな」
「あれ? 俺が聞いた話だと、ミラーって外人が住んでたって話っスけど」
「何だそりゃ。ダジャレかよ」
いやダジャレではないだろう、と思ったがツッコむのも面倒なので流しておく。
ここで何が起きたのかと同様、ここがどんな場所だったかについても、誰も詳しい事情を知らないのだろう。
結局のところ、単なる廃墟にそれらしい噂話が好き勝手に盛られただけ、という可能性もワリと高そうだ。
「つうかよ……雰囲気、変わってねぇか」
「そうっスね。前まであった本気でやべぇ感じ、だいぶ消えてるような」
「ったく、アホ共が無駄に出入りすっからだな」
自分のことを棚に上げ、柳原がイラついた様子でアルミ缶を蹴飛ばす。
先客の置き土産は、ビールの空き缶や煙草のパッケージの他、壊れた懐中電灯やレトルトカレーのパウチ、果ては埃に塗れた女物のパンツなんて物まであった。
こんな所にまで来て、一体ナニをしているのか。
柳原と東の後についてミラーハウスの各部屋を回るが、どこもかしこも没個性な荒らされ方をしていて、三十分も経つ頃にはすっかり慣れてしまった。
澱んだ空気に含まれた、濃厚な黴と埃のニオイが場の異様さを伝えては来るが、不快ではあっても恐怖にはかなり遠い。
誰かが「もう帰ろうぜ」と言い出すのを待つ雰囲気が生じる中、東が不意に動きを止めて元はキッチンだったらしい区域の一角を凝視する。
「んぁ? どうしたよ、アズ」
「いや、あの、あそこの端っこ、妙にヘコんでないスか」
「お、そうだな。ちょっと調べてみろ、大内」
東が照らした先では、確かにクッションフロアが不自然な感じに沈んでいた。
床板が腐り落ちたのか――と思ったが、それなら周辺もダメになっているはずだ。
東からライトを借りた大内がゆっくりとそこに近付き、ビニール製のシートの端を摘んで捲り上げる。
その下からは、明らかに人工的な四角い穴が出現した。
一辺が八十センチくらいの正方形に、床板が切り取られている。
「これは……床下収納、とか?」
「そんなら上にシート被せんのはアホすぎるだろ。どうよアズ、何か見えるか」
「えっと、階段っつうか梯子っつうか……とにかく、そんなんがあるっスかね」
「おいおい、秘密の通路大発見かよ! 地下室があるって噂はガチだったんだな」
大内に代わって様子を確認した東からの答えに、柳原はハイテンションな声を上げる。
ああ、これは面倒なことになりそうだ――俺も含めた残る三人の表情は、薄暗い中でもよくわかる程に一致していた。
当然ながらその急勾配で幅の狭い階段の先を調査する流れになり、大内、俺、柳原、東の順に一人ずつ下りていくことに。
「どうよ、何か見えるかぁ?」
「ドアが……ドアが二つ、あります」
俺がゆっくり階段を下りていると頭上から柳原の声がして、足下から大内の声が返ってくる。
階段は全体的に微妙にグラついていて、踏み板に体重をかけると厭な音が鳴る。
古いからというのもあるのだろうが、それにしても作りが甘くて不安定だ。
無駄に緊張させられつつ俺が下りきると、東と柳原は階段の危うさを気にする様子もなくサッサと下りてきた。
向かって右側にあるのは、古くなって縁が剥がれて浮いた化粧板のドア。
左側にあるのは、見るからに重たそうな鉛色をした金属製の扉。
覗き穴のようなものや、何かを出し入れできそうな小窓の設えられたそれは、まるで刑務所の独房を思わせる物々しさだ。
「とりあえず、どっちからスかね」
「まぁ、右じゃね。ここは松島、お前いっとけや」
柳原の一言で、何故か俺がドアを開けることになった。
二つのライトに背後から照らされつつ、安っぽい作りの銀色のノブを握る。
右に回してみると、僅かな抵抗もなくカチャリと小さな音が響いた。
どうやら、鍵はかかっていないようだ――「空けるぞ」という意味を込めて振り返ると、逆光で顔の見えない誰かが大きく頷いた。
「キギッ! キィイイイイッ!」
「んおぁあっ!」
「おぉおふっ!」
甲高い声と何かの気配に、思わず悲鳴に似た声が出る。
俺じゃない誰かも、ビビって大きな声を出していた。
ライトがドアの先を照らすと、あたふたと動き回る二匹のネズミが見えた。
「ネズミじゃねえか。ビビりすぎだっての」
「はぁ……あ、いやあの、これ」
呆れた調子の東に曖昧な返事をした後、目線をネズミが逃げ去った部屋の中へ戻すと、妙な品々が視界に入ってくる。
壁にいくつも掛けられた、太い革のベルトを鎖で繋いだもの。
イメージ的には手枷とか足枷とか、そういうのに近い。
いくつものゴミ袋に突っ込んである、汚れた細長い布の塊。
薄いベージュと海老茶が斑になった色合いは、使用済みの包帯を思わせる。
「うぅわ……何だよこれ」
「やべぇっスね。隠し階段の先にコレは、マジやべぇっスね」
散々ふざけていた柳原と東も、声のトーンが低くなっている。
その三畳ほどの小部屋には、科学の実験に使うような薬瓶の並んだ棚や、大量のガーゼが入った箱などがあった。
それらの品々は、この地下で尋常ではない何事かが起きていたことを、うるさいくらい雄弁に物語っている。
「ちょっと、あの、シャレになってなくない、ですか?」
「んだよ松島、おめぇさっきからビビりすぎなんだって。何十年も放って置かれた家だ、何もいやしねぇよ」
「いや、そうじゃなくて……」
自分に霊感なんてないし、誰か――或いは何かが潜んでいる、とも思わない。
しかし、本能的な部分が危機感を告げている。
大きめの地震が発生する寸前に予知できてしまうような、あの感覚。
アレに近いがもっと切実なものが、さっきからずっと頭の中に渦巻いているのだ。
「次は順番的に大内だな。ここ、開けてみ」
「はぁ……」
逆らっても無駄だと諦めているのか、柳原に従って大内は左側のドアを開けにかかる。
こちらは右の安っぽいドアノブとは違い、重々しい音を立てそうなレバーハンドルだ。
予想通りの金属音と派手な軋み音を鳴らしてレバーが下がると、ゆっくりとドアは開いていく。
そこを柳原と東がライトで照らすと、徐々に中の様子が見えてきた。
部屋の中の――どう表現すればいいのかわからない、異様な光景が。
「うぅわ、えぇええ、こりゃ……うーわうわうわうわ」
「ははっ、ふっふはっ、んははははははははははっ」
ドン引き感の滲んだ東の震え声と、困惑気味な柳原の笑い声。
大内は無言で頬を引き攣らせている――俺も多分、似たような表情だろう。
その空間は家具も装飾もない、八畳くらいの部屋だった。
コンクリが剥き出しの床は、所々に黒っぽいシミが広がっている。
同じく暗灰色の天井には、照明器具の名残のソケットだけが見える。
そして四面の壁は、同じサイズの長方形の紙で埋め尽くされていた。
パッと見でお札かと思ったが、よく見れば違っていた。
漢字は一緒でも、コレはお札――現行のものではない、古いお金だ。
同じ種類の紙幣がビッシリと隙間なく同じ面、同じ方向で貼り付けられている。
その圧迫感のあり余る絵面と几帳面にも限度がある仕事ぶりは、この部屋の住人の神経質という言葉では片付けられない心理状態を想起させた。
「もしかして、お宝発見ってやつ? こういう古いのって、プレミア価格なんだろ? 拾……円? 中国の金か?」
「十円っスよ」
柳原のナチュラルボケに、東が面倒臭そうにツッコむ。
そもそも、国会議事堂が描かれていると気が付いていないのか。
スマホで部屋の様子を撮影していた柳原は、何か閃いた様子で声を上げる。
「ん、でも昔の十円って今の十万くらいだろ? だったら、これ凄ぇんじゃね? おう、ちょっと買取価格とかググってみろや、大内」
「はぁ……えーっと、いや、電波が入んないですね」
大内はスマホを色々な場所に翳してみるが、人里離れた地下深くというのもあってか、当然ながら圏外になっているようだ。
全部剥がして持って帰る、などとトンチキなことを言い出されても困るので、俺の知識の範囲で大内の代わりに答えておく。
「あの、昔ちょっと調べたことあるんですけど、確かこの十円って新品同様なら一枚何千とか何万とかになるけど、ここまで状態悪いと行って百円とか二百円じゃないかと」
「マジかよ! 全っ然カスじゃねーか! チッ――超期待ハズレだわ。チッ――マジでムカついてきたわ、ゴミすぎんだろ」
舌打ちを連発しながら、柳原は十円札を乱雑に引き剥がしていく。
使っていた糊が経年劣化したのか、元からベッタリと貼り付けていなかったのか、札は何の抵抗もなく壁を離れて宙を舞う。
その直後、壁の中から眩い光が向けられた。
「ふぉっ――んん? あ? 何だ、こりゃ」
柳原がライトを動かすと、それに合わせて壁の光も踊る。
十円札で塞がれていた壁の先は、どうやら一面が鏡になっていたようだ。
「ぁんだこれ? 鏡、か? おいお前ら、目の前のヤツちょっと剥がしてみ?」
「こっちも似たような感じっス……いやぁ、意味わかんねぇけどキモいっスわ」
「ここも、札の下は鏡ですね……床に近いとこも、鏡張りになってる」
柳原に言われ、東と大内が無遠慮に壁の紙幣をベリベリと剥がす。
流れ的には俺もやるべきなんだろうが、薄気味悪すぎて触りたくなかったので、さりげなくシカトを決め込むことにした。
鏡は巨大なものが設えられているのではなく、数十センチサイズの同一形のものを大量に貼り付けてあるようだ。
「おぉ……これがミラーハウスの、本当の由来ってことか」
「そっスね。何がしたかったんだか知らんけど、やった奴が完全に手遅れな精神状態だった、ってことは確実っスわ」
「まぁ、どうしょうもなくイカレてるわな。隣の部屋に手錠とかあったし、頭おかしいのをココに閉じ込めてた、みたいなんじゃねぇの」
異様な雰囲気に呑まれているのか、柳原と東の声もトーンが下がりつつある。
それにしても――四方を全て鏡で覆い、その鏡の表面を紙幣で埋め尽くすという行為。
まるで意味がわからず、考えるほどに不安感が募ってくる。
ただ、何一つわからないのも不安だが、この行為の意味がわかってしまったら、より深刻な感情と向き合わされるような気がしなくもない。
何はともあれ、一刻も早くこの場から立ち去りたい。
俺と同じ気分であろう大内も、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
柳原と東はライトをアチコチに向けているが、口数が極端に少なくなっている。
ハイレベルに無神経な人間でも、流石にこの部屋では居心地の悪さを感じるのだろう。
「あー、見るモン見た感じだし、帰るか。これ以上は、特にねぇだろ」
「もう何もなさそうっスね……あ、柳原さん。売れないにしても、やべぇ部屋の証拠品として土産にどうっスか、コレ」
「おっ、そうだな。探検の話とセットでこの金があれば、ネタとしては鉄板じゃね?」
「そっスね。周りに配るのも考えて、多めにいっときますか」
言いながら東は、札を数十枚束にしてポケットに入れていく。
柳原も同様に、紙幣を大量に剥がしては一まとめにしている。
少し迷っていた大内も、数枚を丁寧に剥がして財布に入れていた。
俺としても、話のネタに持ち帰りたい気持ちはあったが、それより「この家にあった物を身近に置きたくない」感覚の方が強かったのでやめておく。
帰り道の車内は『凄いものを見た』という興奮と、『厭なものを見た』という後悔が混ざり合った空気に支配され、会話らしい会話もなかった。
率先して騒ぎそうな柳原が、ラインだかツイッターだかに黙々と今夜の出来事を書き込み続けている、というのも話題の少なさの原因だったが。
そんなこんなで、その日は微妙な雰囲気のまま解散となり、俺は転んだ拍子に捻ったらしい手首の痛みと、全身に纏わりつく疲れを抱えて帰宅することになった。
そして、日々の雑事に追われてミラーハウスの衝撃もすっかり薄れた二週間後。
また近い内に連絡する、と言って別れたのに音沙汰がなかった大内から、日付が変わる直前にメールが来た。
件名は『かヨウ尾』――火曜日の誤変換だろうか。
今日は金曜だし、どういう意味なのか。
本文はなく、画像だけが添付されていた。
「……何だよ、これ」
開いてみて、反射的に呟きが漏れた。
脱力した感じでもって、俯き加減に立っている二人の男。
それを斜め下から見上げるような、そんな構図で撮った画像だ。
全体的に暗く、撮影モードの選択をミスっている感じがする。
明度が足りないのでハッキリしないが、手前の被写体はおそらく柳原だろう。
奥にいるもう一人は、背格好が東に似ていなくもない。
メールか電話で、この画像が何なのか大内に訊こうとしたところで、再びメールが届く――件名は『ニム』、本文はなく添付画像だけ。
両腕が粟立つ気配を感じつつ、深呼吸を一つ入れてからファイルを開く。
中身はさっきと同じく、二人の男を下からのアングルで撮影した画像だ。
ポーズも大体一緒で、俯き加減で肩の力を抜いている。
少し違うのは、レンズの位置が下がっていること、だろうか。
一枚目は膝から上が写っていたが、二枚目だと爪先まで全身が写って――
「……え?」
爪先が、宙に浮いている。
手前に写る柳原らしい男も、その隣にいる男も。
気付いた瞬間に心臓が大きく跳ね、耳の奥に金気のある音が鳴った。
どういうことだ――目を凝らし、薄暗い画像をもう一度確認する。
柳原らしき男のカーゴパンツは、股間の辺りが変色している。
二人とも両手がダラリと垂れていて、どこかに掴まっている様子もない。
首の長さと顎の位置が、どうしようもなく不自然に思える。
背景に、うっすらと光の点がいくつも見える。
これはもしかして、フラッシュを反射しているのでは。
そこから連想される場所を思い浮かべた直後、また大内からメールが届く。
件名は『買え2』で、やはり本文はなく画像のみ。
ディスプレイに水滴が落ちる。
額に手をやると、粘ついた汗がいくつも玉を作っていた。
次の画像を開けば、このメールの意図がわかりそうな気配はある。
だがこれはあの地下室と同じく、わかってしまうと終わる部類ではないか。
その考えが頭を過ぎるとほぼ同時に、あることに気付いた。
メールの件名、これって――
その瞬間、指が半ば自動的に動いてメールを消去していた。
続けて前の二通も消し、大内のアドレスと電話番号を着信拒否の設定にしてから、電話帳から情報を全削除する。
我ながら薄情だとは思うが、こんなことに巻き込まれるのは勘弁だ。
どうせ完全に手遅れだし、俺がしてやれることは多分、もう何もない。




