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隣は何をする人ぞ

 油断すると引きずりそうになる足を気力だけで動かし、御機嫌な酔客や不機嫌な若者が我が物顔に陣取っている通りを抜けていく。

 現在の時刻は夜の十一時を少し回ったところだが、自宅に着くのは日付が変わって三十分も過ぎた頃だ。

 殺人的とまでは行かないが、殺人未遂程度には混雑した電車を三回乗り換え、一時間近くかかって最寄り駅へと辿り着いた。


「疲れた……」


 家に向かう道すがら、雲の多い夜空を眺めながら歩いていると、無意識にそんな呟きが漏れていた。

 仕事はキツいし勤務時間は長いし休みは月に五回だし給料も安いし残業代もまともに出ないが、通勤は自転車で十五分だからギリギリで大丈夫。

 そう自分に言い聞かせてきたのだが、会社からの命令で勤務地を東京西部から都心に変更された結果、通勤に往復で約三時間持って行かれるハメになり、どこからどう見てもブラック以外の何事でもない状況になってしまった。


「ホント、疲れたなぁ……」


 自宅のドアを開け、ヒールの低い靴を脱ぎ、大きく溜息を吐いて、バッグを投げ捨て気味に下駄箱の上に置く。

 ちょっと前までは「疲れた」が口癖になりかけている危機感があった。

 しかし、今はもう完全に口癖になっている――というか、心が発しているSOSなのだという自覚がある。

 転職か引越し、まずはこの二択で考えるべきだろうか。

 

 風呂を沸かす気力も時間もないので、シャワーを浴びながら身の振り方を考える。

 無名大学を卒業して五年、これといってアピールできる職歴もない。

 特殊な資格もなければ貯金もロクになく、免許はAT限定の普通免許だけ。

 現在は居酒屋チェーンの正社員だが、あからさまにブラックな勤務形態で、この先ロクな出世も望めそうにない。

 知り合いになる独身男といえば、若さ以外に何もないバイトか、自分同様にドン詰まりな低所得者ばかりで、結婚という選択肢も半ば潰されている。


「あぁ、もう! ふざけんな!」


 ストレスというか嫌気というか、とにかくそんなマイナス感情が高まり、誰に向けているワケでもない抗議声明をユニットバスの中で表明し、タイル貼りの壁を平手で叩く。


 ドンッ――ドン


 低く二回、連続して振動音が聞こえた。

 反射的にシャワーを止め、浴室のドアの方を振り返る。

 誰かが、ウチのドアを叩いているのだろうか。

 様々な思考が頭の中をグルグルと回る。


 こんな時間だってのに誰が?

 チャイムではなくノックを?

 さっきドアの鍵かけたっけ?


 何かが起こらないか待ってみるが、一分ほど経っても何も起こらない。

 湯気が渦巻いているのに、得体の知れない寒気が這い上がってきた。

 早々に浴室を出ると、雑に体を拭きながらチョコレート色のドアを見据える。

 いつもは無駄に重たくてイラつかされていたのに、今日はやけに頼りなく思える。

 

 放置するか確認するかを少し悩んだ末、玄関まで行って様子を窺ってみた。

 鍵は勿論のこと、チェーンロックもシッカリとかかっている。

 恐る恐るスコープから外を見てみるが、人影は見えない。

 しばらく息を顰めて人の気配を探ってみるが、足音も声も聞こえない。

 外に出てちょっと見回る――のは危険な気がするしヤメておこう。


「気のせい、か」


 そうじゃないだろう、と理解はしている。

 でも、そういうことにしておこう。

 イマイチ誤魔化しきれていないが、深く考えても気分が沈むだけだ。

 そんな風に謎のノックを片付けると、冷蔵庫から発泡酒のショート缶を取り出す。

 安酒を売りつける商売をしながら、自分用のはもっと安い酒、か。

 終わってるなぁ、と苦笑しながらテーブルに缶を置こうとするが、うっかりリモコンの上に置いてしまい、滑るようにして床に落ちた。


「――っと」


 ガチャン!


 床に置きっ放しだったCDケースにぶつかり、缶は軽く跳ねて床を転がる。

 開ける前で良かった、と思いつつそれを拾おうとした瞬間。


 ドンドンドンドンッ!


 と、連続したノックの音が荒々しく響く。

 発生源はドアじゃない。

 目の前の壁だ。

 正しくは壁の向こう側の隣室、だろうか。

 いわゆる『壁ドン』というヤツだが、急に勢い良く壁を叩かれたことよりも、隣人が存在していたことに驚いた。


 ここは二階建てアパートの角部屋である205号室で、隣の204号室には半年くらい前まで七十前後のおじいさんが一人で住んでいた。

 齢のせいで耳が遠かったのか、いつも大きな音でTVを流していたが、それも昼間だけなのでトラブルになることも特になかった。

 そのおじいさんはいつの間にか引っ越していたが、新しい住人が入ったのか。

 

 最近は寝に帰るだけの状態だったせいか、全然気付かなかった。

 面倒クサそうな隣人の出現に気が重くなるが、どうせ今後も寝に帰るだけだろうし、大きな音を立てないように気を付ければ済むだろう。

 抗議してトラブルになるのもイヤだから、そう割り切ってしまうことにした。

 なので、それなりに静かな生活を心がけていたつもり――だったが。


 ドアの開け閉めでちょっと大きな音がすれば、ドン。

 料理の最中に切りかけの人参を床に落としても、ドン。

 休みの日にTVを見ていて芸人のトークに笑えば、昼間でもドン。

 夜中に仕事関係の電話がかかってきたんで、嫌々ながらも受け答えしていたら、ドン。

 あんまりな壁ドン連発にイラっとして殴り返せば、壁が抜けるんじゃないかと心配になる勢いでもって、ドカン。


 ファースト壁ドンから僅か一週間で、こんな有様になっていた。

 さすがに無理なので不動産屋に抗議してみるも、204号室は別会社の管理になっているとのことで、早期の問題解決は期待できない雰囲気だった。

 やがて、壁を殴られる頻度ひんどは日に日に上がっていって、その理由も徐々に理不尽さをアップさせていく。

 

 スマホが鳴らす目覚まし音に対しても、ドン。

 まだ夜の八時なのに洗濯機を回したら、ドン。

 ステーキ肉を包丁の背で叩いていたら、ドン。

 昼間にヘッドホンで音楽を聴きながら口笛を吹いたら、ドン。

 夜中にトイレに行こうとしたら、こちらの足音に合わせて軽めにコツコツコツコツ。

 

 更に一週間が経った頃には、こんな状態にまで悪化していた。

 ここまでされたら、もう限界だ。

 仕事のせいで心身共にギリギリなのに、妙なトラブルまで抱え込んでいられない。

 直接乗り込むのはヤバそうだし、友達の彼氏とかお店のバイトとかに頼んで文句言ってもらうしかないか――職場の休憩所で賄いを食べながら対応を検討していると、見知らぬ番号からの着信があった。


「……はい」

『ええっと、あなたはタヌマショウコさん――でいいのかしら?』


 自分から電話しておいて疑問形をぶつけてくる、中年よりも年嵩であろう女性の声に、かなりの勢いで警戒心は高まる。

 しかし、携帯の番号と本名を知られている状態でトボケても仕方ない。

 そんな判断が働いたので、ちょっと迷いながらも正直に答えておく。


「そう、ですけど……そちらは?」

『あなたの住んでるグリーンパレスの、大家ってことになるのかしら?』


 だから何で疑問形なんだ、と思いながらも電話の相手と理由を把握する。

 不動産屋への抗議が、やっと伝えるべき相手にまで伝わった、ということだろう。


「どういう問題かは、不動産屋の方から聞いてますよね」

『ええ、それなんですけど……ちょっと、よくわからなくて』

「は? わからない、とは」

『いえね、おっしゃってることはわかるんですよ? けど、何でそうなるのかがわからないの』


 もしやこのオバサン、物腰の柔らかさを駆使して何もかもをなぁなぁで片付けようとする、厄介なネゴシエーションを仕掛けようとしているのか。

 社会人となってから時々遭遇するが、やたら疲れさせられるんで苦手なタイプだ。

 話が長引くと休憩時間が終わってしまう、という問題もある。

 あれこれ言い訳されて状況をややこしくされる前に、こちらの要求がキチンと通るよう話を持っていかねば。


「わからないことなんて、何もないでしょう。普通にしてるだけで壁をドンドン叩かれたら、まともに生活できないんでやめさせてくれ、ってだけの話ですって」

『うーん……そんなことが起きるはず、ないんですけどねぇ』

「いやいや、はずがないって言われても! 現にもう二週間も――」


 話の噛み合わなさにイラッとして、つい大声を出しかけたところで、ある可能性に気付いてしまった。

 ありえない執拗しつようさで、こちらの生活音に反応する隣人。

 洗濯物が干されているのを見たことがない隣人。

 顔を合わせたこともなければ、声を聴いたこともない隣人。


 本当に――『隣』には『人』が住んでいるのか。


 考えれば考えるほど不自然だった。

 半年前にいなくなった老人が、引っ越したのではなく孤独死していたら。

 そして、そのまま室内に居座っていたのだとしたら。

 全身に鳥肌が広がるのを感じながら、大家に確認してみる。


「あの……隣には誰も住んでない、とかそんなことはない……ですよね?」

『えっ? 勿論、住んでますけど』


 何でここで勿論って単語が挟まるんだ、と思いつつも質問を重ねる。

 

「じゃあ、どうして『そんなこと起きるはずない』って結論になるんです?」

『どうしてって、そりゃねぇ。今、204に住んでるのはウチの息子ですし。だからね、そんな問題を起こすわけがないんですよ、あの子が』


 電話の向こうの大家は、四十過ぎでヒキコモリの息子がかつてどれだけ優秀な学生だったのか、軽快な調子で語り続けている。

 どうやら、もう引っ越すしかないみたいだ。

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