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ありふれた悪夢 ~ホラー短編集~  作者: 長篠金泥


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バイバイおばさん

 ああ、今日もいるな。

 視界の隅で存在を確認し、俺は歩く速度を幾分か速めてその前を通り過ぎた。

 いつも使っている最寄り駅で、結構な頻度で見かける六十前後くらいの女性。

 いや、そんな丁寧な呼び方より『おばさん』とか『ババア』とかの、ぞんざいな扱いの方がしっくりくる、どことなくすすけた雰囲気のある姿勢の悪い女だ。

 数字的には中肉中背なのだろうが、急角度に丸められている背中のせいで、随分といびつな体格に見えている。


 水分とキューティクルの足りてない、白髪の目立つバサバサのショートヘア。

 化粧っ気が全然なく、シミもシワもダイナミックに晒している、皮膚のたるんだ締まりのない顔。

 量販店で買ったのであろうブラウスとスカートは、別に汚れているワケではなさそうだが、繰り返しの洗濯で毛羽立けばだっていてひどく貧乏くさい。

 何となく縁起が悪いように感じられ、このおばさんを見てしまうと気分が軽く落ちる。


 ボンヤリとただ立っているだけなら、無視もできたのだろう。

 しかし、このおばさんは素通りできない奇行を繰り返している。

 存在を認識した最初の頃は、誰か知り合いにでも挨拶してるのだと思っていた。

 けれど、何度か見かけてその行動を把握してみると、それが勘違いだと気付く。

 彼女は誰もいない空間に向けて、無表情で手を振っていた。

 ゆっくりと、ゆったりと、窓拭きをするような挙動で、漠然と手を振っているのだ。


「――っていう感じの、若干キチ入ってるっぽいおばさんがいてさぁ。何つうかこう、マジでキツいんだわ」

「でもそれって、別に何をしてくるとかでもないんですよね?」

「あー、まぁ……それはそう、なんだけど」


 喫茶店でそんな話をしている相手は、先々月に開かれた友人主催の飲み会で知り合った、梅林うめばやしさんという年下の女性だ。

 何度か会ってデートめいたことをしているのだが、どうにも微妙な距離感があるのを詰めることができずにいる。


 見た目はストライクなんだけど、どうにもこうにもノリが合わない。

 このままだと関係は自然消滅かな――などと考えながら、カフェラテのストローをくわえる。

 同じタイミングでロイヤルミルクティに口をつけた梅林さんは、少し視線を宙に彷徨さまよわせた後で言う。


「そのおばさん、駅以外で見かけたことは?」

「え? いや……多分ない」

「立ってる場所は、いつも一緒?」

「えっと、どうだっけ……大体、連絡通路の改札手前あたりに……でも、ホームやトイレの近くにいることも、あったような」

「どこにいても、手を振ってる?」

「ああ。無表情で、こう」


 おばさんの動きを再現してみせると、梅林さんは手元のグラスのふちを指先でなぞりながら、表情を徐々に曇らせていく。

 その渋面には、話しかけるのを拒絶する刺々しさが感じられ、無言の時間が数分続く。

 今のやりとりの中に、黙りこくる原因があったのだろうか。

 わけがわからないので梅林さんの説明を待っていると、短い溜息を一つ吐いて彼女は立ち上がった。


「今日もそのヒト、駅にいたんですか」

「おぅ、ここに来る前に見てる」

「じゃあ……とりあえず、現地まで行きましょう」


 ここからだと、一回乗り換えがあって五駅の距離だ。

 唐突にアグレッシヴな反応を見せたことへの戸惑いはあったが、ここで話を終わらせたら梅林さんと二度と会うこともないだろうし、おばさんに関する謎も深まるばかりだろう。

 そう判断した俺は、残っていたカフェラテを一息に飲み干した。

 

「にしてもさ。何でいきなり問題の駅に」

「ちょっと、確かめたいことがあって」

「確かめる?」

「着いたら、そこで説明します」


 微妙な空気は電車に乗ってからも続き、どう話しかけても梅林さんは生返事だった。

 会話らしい会話が成立しても、すぐに断ち切られて変な空気が漂うことになる。

 ともあれ、実物を見せたら何らかの進展があるだろう。

 そんな風に考えて、行きしなにおばさんを目撃した場所へと梅林さんを案内した。

 半端な時間の駅は人通りも少なく、フワフワと手を振る姿は見事に悪目立ちしている。


「あー、いるわ。いるいる」

「どこです?」

「ホラあの、無料求人誌とかが置いてあるラック、その横の……」


 十数メートルほど先に立っているおばさんは、数時間前に遭遇した時と変わらぬ姿勢の悪さで、誰にともなく緩慢かんまんな動作で手を振っている。

 それにしても、あまりに変化がなさすぎるのではないか。

 もしやあのおばさん、俺にしか見えてないとか、そんなオチなんじゃ――不意に思い浮かんでしまった可能性に、後頭部が引きるような感覚に囚われる。


「実はですね、バイト先で一緒だった子がこの駅を使ってて、似たような話を前に聞いてまして」

「あれ、そうだったの。で、実際見てみて、どう?」


 ちょっと緊張しつつ訊くと、梅林さんは俺を形容し難い表情で見詰め返してきた。

 それから目を逸らし、うつむき加減になって長すぎる間を置いてから答える。


「確かに……バイトの子が言ってた状況と、ホントよく似てる……んですけど」

「けど?」


 歯切れが悪くなってきた梅林の表情を窺うと、『困惑』の二文字がよく似合う感じになっている。


「その子がよく見かけたっていう手を振るヒト、七十過ぎくらいの太った坊主頭のお爺さん、って話なんですよね。夏も冬も、黒っぽいジャージを着てる」

「は? おじいさん? 二人もいんの、あんなのが」

 

 相変わらずなおばさんの奇行を横目で見つつ問うが、梅林は困惑の色を深めて首を傾げるばかりだった。


何人なんにんとかそういうの、わかんないんだけど……あの、ラックの横の」

「ん」

「あそこで手を振ってるのは……おばさん、なんですか」

「え? もしかして、ジャージ着たじいさんに見える、とかそういう?」

「いえ、あの……ブカブカな紺色のブレザーを着てる、背が低い、中学生くらいの男の子……なんです」


 梅林に言われて、ついつい反射的に凝視してしまう。

 だがそこにいるのは、いつも見かけるあのおばさんだ。

 ブレザーの中坊でも、ジャージのじいさんでもない。

 理解が追いつかず、眉間の奥に疼痛とうつうが走り始める。


 ひょっとすると、話しかけてみれば何らかの反応があって、謎は解けるのかもしれない。

 そう考えてはみたが、瞬時に「無理」という回答が弾き出される。

 こんなものには、僅かだろうとも関わるべきじゃない――かなり遠回りになるが、明日からは隣の駅を使うことにしよう。

 そう決意した俺は、心の中でおばさんに別れを告げた。

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