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ありふれた悪夢 ~ホラー短編集~  作者: 長篠金泥


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誰にでもできる簡単なお仕事です

「ああああぁあああぁ、お金ないなぁ」

「あんたね、いっつもそれ言ってるけど、何に使ってるの」


 心の底からの嘆きだというのに、カナちゃん先輩には呆れた調子で受け流された。

 仕送りの増額申請は却下されたし、バイトで小銭を稼ぐのは性に合わない。

 というか、大学時代の貴重な数年を切り売りする、なんてのは愚の骨頂だ。

 けれども、日々を楽しく過ごすためには何かと金がかかる。

 そんな八方塞はっぽうふさがりな状況を愚痴りたくて、最近仲がいい大学の先輩を学校近くにあるカフェに呼び出したものの、この流れだと変な説教が始まってしまう予感が。


「何、って……生活費?」

「自分でも言ってて怪しい感じになってるじゃない。服とかアクセとか、とにかく買いすぎなんだって」

「でもさぁ、カナちゃん先輩と違ってカレシもいないし、自分で買うしかないじゃん」

「恋人は何か買ってくれたり、ゴハンを奢ってくれる装置じゃないからね?」


 笑顔の奥に『いい加減にしとけよコラ小娘』というメッセージが透けて見えたので、それ以上の反論はせずに手元のキャラメルマキアートに口をつける。

 カナちゃん先輩は小さく溜息を吐くと、視線を天井付近にしばらく彷徨さまよわせた後でこちらに戻した。


「前にやった飲み会の時か何かに、実家はワリと金持ちって言ってなかった?」

「え? まぁ……貧乏じゃなかった、とは思うけど……普通じゃないかな」


 ちっとも憶えていないが、酔ってそんな話をしていたのか。

 生まれ育った実家があるのは田舎町だが、ウチは昔から地元の名士とかそんな扱いだったらしく、父親は三県くらいにまたがって手広く事業をしている。

 しかし商売人だからこそなのか、金銭的にはそれなりにシビアだ。

 金に困ったことはないが、かといって贅沢な暮らしをしていたワケでもないし、甘やかされて育ったという記憶もない。


「都内であんなマンションに住めてる時点でさ、アイは普通じゃないってば」

「あそこは親が防犯がどうとかで、勝手に決めちゃっただけだから。微妙に大学まで遠くて、そんないいモンじゃないし。むしろ、もっとヘボい家でいいから、その家賃の差額を仕送りにプラスしてくれって感じ」

「なるほどねぇ」


 肯定の相槌は打ってくるが、カケラも共感していない口調でカナちゃん先輩は言う。

 確かに、奨学金の助けを借りて通っていたり、家族の援助が足りずにバイトに明け暮れざるを得なかったりする、そういう学生からすればフザケんなって悩みかもしれない。

 しかし、他人のどんな深刻極まりない悩みよりも、自分の取るに足らない悩みの方が重要に決まっているじゃないか。


「バイト、するしかないのかなぁ……めんどいけど」

「やる前からそんなやる気のなさで、何ができるの。ザックリとでいいから、こういう仕事をやってみたいとかないの?」

「職種には特にこだわらないかなぁ。ただ体力的にも気持ち的にもラクで、一日で二万か三万くらいになって、拘束時間がなるべく短い日給制で、だけどエッチ系はNGで、覚えることが少なければもうそれでいいや」

「あのねぇ……相手があたしじゃなかったら、二時間コースでギッチギチにシメられるアホ発言だよ、アイ。仕事っていうか人生ナメすぎ」


 軽い冗談のフリをして本音を述べてみたら、シラケた面になったカナちゃん先輩から、マジギレの気配がじんわりと伝わってきた。

 知り合ってそろそろ四ヶ月になるが、初めて見るタイプの危うい反応だ。

 ちょっと空気が悪くなってきたので、本格的な説教モードに入ってしまう前に話を元に戻そう。


「でも、ラクで給料がいいに越したことはない、ってのはあるじゃない。カナちゃん先輩だって、コンベアで流れてくる『まるごとバナナ』にバナナをのせる作業を一時間やるのと、南の国のバナナ農園で収穫作業を八時間こなすのが同じ給料なら、絶対に工場でバナナのせるっしょ」

「そりゃまぁ、そうだろうけど」

「じゃあ、そんなに間違ってないよね……てことで、チョロい仕事紹介して」


 我ながら強引極まりない論法で話を進めてみると、カナちゃん先輩は笑うでも怒るでもない複雑な表情を浮かべている。

 これはマジ説教が来るやつかな――と思ったが、ここから予想外の話が始まった。


「いつになく無茶な要求ぶちかましてくれるね。あたしはそんな都合のいい仕事にコネはない……でも」

「でも?」

「古い知り合いに、やたらと顔の広いのがいるから、話を振ってみたら……もしかするとだけど、あんたがやりたがるようなオイシい仕事がある、かも」

「うっそ、マジ? いや、自分で言っといてアレだけどさ」

「連絡はしてみるけど、あんまり期待しないで待ってて」


 それから五日後。

 私はこの間カナちゃん先輩と会ったカフェの片隅で、その先輩経由で紹介された初対面の相手と差し向かいで座っていた。

 目が大きくて鼻筋が通っていてスタイルもいい、男ウケの良さそうなルックスの所有者だったが、見た目の印象は『セクシー』ではなく『アクティブ』の一言に尽きる。


 長めの髪を適当にまとめたヘアスタイルと、ミリタリーっぽいジャケットにジーンズを合わせた、男っぽいコーデに引っ張られている気もするが、とにかくそんな感じだ。

 ミチルと名乗ったその女性は、何杯かアルコールを入れてきたのかと疑いたくなる饒舌じょうぜつさとフレンドリーさで、こちらとの距離感をグイグイと詰めてきた。

 挨拶がてらの世間話――というには踏み込んだ内容の会話が一通り終わったところで、ミチルはブリーフケースからA4サイズの紙束を取り出した。


「じゃあこれね。カナに言われて、アイちゃんの言ってる条件に近そうなの、いくつか見繕みつくろってみたから。やるやらないは後回しで、まずはザッと目を通してみて」

「ああ、ありがとうございますぅ。何か、色々と手間かけちゃって……」

「いいのいいの。どれも、やりたい人いたら声かけといてくれないか、って頼まれてる仕事だし」


 ミチルの言葉が社交辞令なのか本当なのかはわからないが、本当だとするといくらかの謝礼が払われたりするのだろうか。

 そんなことを考えつつ、ダブルクリップで右肩を留められた求人情報をテーブルから拾い上げ、ペラペラとめくってみる。

 しかしそこに書かれていたのは、見れば見るほどに眉間に皺が寄っていく内容だった。


「あの、ミチルさん……これって」

「んー、職種にはこだわりないって話だったから、条件のいくつかは合ってそうなのを選んでみたよ」

「それは、そうかもだけど……」


 確かに、こっちがフザケ半分で出した条件は、ある程度までは考慮されていると言えなくもない。

 しかしながら、報酬が高くて仕事内容は楽そうだけど拘束時間が異様に長かったり、簡単な仕事で拘束時間も短いけど給料はイマイチだったりと、一長一短から半長三短くらいのものばかりで、どれを選んでも結局は後悔しそうな予感がする。


 短時間で報酬が桁違いなのもあるにはあるが、見ず知らずの相手が運転する車に乗せられて行き先は秘密とか、指定された場所に行って荷物を受け取るが中身の説明はないとかで、犯罪に巻き込まれそうなニオイがかなり濃厚だ。

 期待しないでと言われてはいたが、実際に期待ハズレだとやはりガッカリさせられる。

 こちらの微妙な反応を察してか、ミチルは苦笑いを浮かべながら言い訳を入れてきた。


「いやぁ、頑張って探してはみたんだよ? だけど、アイちゃんが希望するようなレベルに近づけようとすると、どうしてもマイナスアルファがくっついてくるんだよね」

「うーん……無茶な条件出してるな、ってのはある程度自覚してたんですけど、この中だと私がやれそうなのはない、かも」


 自信なさげにそう申し出ると、ミチルは気分を害した風でもなく、再びブリーフケースをゴソゴソと探り出す。

 そして、B5サイズの紙を挟みこんだクリアファイルを取り出し、それをこちらに示しながら言う。

 一番上には大きなフォントで『誰にでもできる簡単なお仕事です』と、バイト募集の常套句じょうとうくが刷り込んであった。


「ついでに、これも見てみて。依頼主が特殊なんで、あんまオススメできないんだけど」

「はぁ、特殊……ですか?」

「身元とかはシッカリしてるんだよ。でも、仕事っていうか研究の内容がね」


 研究、という妙な単語に首を傾げつつ、渡されたファイルの中身を読む。

 三回だけの短期募集で、条件は十八歳から二十二歳までの男女、勤務地は代々木、拘束時間は基本四時間、日給制で交通費別の三万円を当日払い。

 早期終了でもバイト代は満額支給、時間延長の場合は三十分五千円の残業代を追加。

 全ての実験に参加した場合、最終日に三万のボーナスをプラス――何だこれは。

 好条件にも限度があって、ネットや求人誌で見かけたら真っ先に詐欺を疑うレベルだ。


「フルで出たら時給換算で一万って。どんだけ危なっかしい実験なんです?」

「肉体的な危険はゼロだと思う。でも、もしかすると精神的な危険があるかも」

「精神……具体的には、何をさせられるのかな」

「ある大学の化学研究室が、製薬会社と共同で進めているプロジェクトに関連してるらしくて、情報漏洩を防ぐために半端な説明しかできないんだ」

「大学や会社の名前すらも秘密、みたいな?」


 そう訊いてみると、ミチルはこちらに顔を近づけ、声をひそめて一流大学と有名製薬会社の名を告げてきた。

 どちらも知名度は抜群で、高額報酬を出すのも不自然ではない感はある。

 しかし、詳細を伏せられたままの実験に参加するのは、リスクが高すぎる気が。

 腕組みをして考え込んでいると、ミチルがタブレットを操作しつつ説明を始めた。


「やってもらうことを大雑把に言うと、先方が用意した環境下で映像を見ながら音楽を聴いたりして、終了後に感情的・肉体的な変化があったかどうかについて報告、だね」

「そんなので三万ですか。だとすると、相当ヤバいってことじゃないですか? 逆に」

「どうかなぁ。内容とか危険性は、新薬の治験モニターに近いって話だったけど」

「ああ、発売前の薬の安全性をチェックする、とかそういう」


 この間、ネットで『バイト 高額 簡単』で検索してみたら、新薬バイトの体験ブログみたいなのがヒットして、つい最後まで読んでしまった。

 そこの筆者によれば、毎日薬を飲む他には採血とか問診があるだけで、後は一ヶ月ほぼ何もせずにゲームをしたり本を読んだりで、数十万の報酬だったそうだ。

 長年実験を続けた最後の仕上げとして人間で効果を確認する、というのが治験の目的だから、トラブルが起きるのはまずあり得ない、とも書いていたが。


「でもでも、ホントに説明通りのバイトなら、あんまりにオイシすぎじゃないですか?」

「警戒するのもわかるけどね、冗談みたいにボロい儲け話ってのは、あるトコには意外と転がってるのよ。これも年齢制限に引っかからなければ、自分が行ってたかもね」

「正直、かなり興味はあるんですけど……」

「行くだけ行ってみて、雰囲気がヤバそうだったら逃げちゃえば?」


 迷った素振そぶりを見せていると、ミチルはサラッと無責任なことを言った。

 自分の信用に傷がつくだろうに、それでいいのか。

 しかし、そんな適当さでも構わないとなると、グッと現実性は高くなる。

 この条件なら参加希望者はいくらでもいるだろうから、『しばらく考えさせて』なんて言ったら他所に話が行ってしまうに違いない――だったら。

 

「じゃあ、ミチルさん。このバイト、やりたいって方向で伝えといて下さい」

「オッケー。なら詳しい日時とか場所は、わかり次第アイちゃんに連絡入れるから」


 そして、別れた数時間後にミチルから届いたメールには、バイトに採用されたことと、実験の行われる場所と日時が記されていた。

 勤務先は代々木となっていたが、駅としては参宮橋の方が近そうだ。

 他には、実験中は携帯・スマホは利用不可、服装はリラックスできる普段着、前日からアルコールの摂取は禁止で当日はカフェイン厳禁、といった注意事項など。

 もっと細々とした指示があるかと思っていたのに、何だかちょっと拍子抜けだった。


「――という流れになります。要約すれば、人工的に過度のリラックス状態を作り上げることによって、児童の攻撃性や衝動性を抑制するのを目的としたシステムの一部、ということになりますね。募集要項の年齢が区切ってあるのも、対象に近い年代のデータが求められているからです。ここまではよろしいですか?」

「問題ないです」


 七割方は聞き流していたが、とりあえずわかったフリで返事をしておく。

 説明してくれていたのは、三十前後と思しきひっつめ髪の白衣の女性だ。

 野暮やぼったいメガネと下手な化粧が足を引っ張っているが、ベースのルックスは悪くないように思える。

 もう一人のスタッフはもう五、六歳上に見える、ぽっちゃり気味の女性だ。

 こちらもボリュームを出しすぎた髪型が似合っていない――外見に無頓着むとんちゃくなのが理系女子って人種の特徴なのだろうか。


 それはさておき私がここでやるべきなのは、音楽を聴きながらスクリーンに映し出される映像を眺めていること、らしい。

 ミチルから教えられていた通りの内容なのだが、本当にそんなことだけで金を貰っていいものなのか、今更ながら不安になってくる。

 しかし、こっちの戸惑いにはお構いなしにセッティングは進み、明るくもなければ暗くもなく、寒くもなければ暑くもない、広くもなければ狭くもない部屋に一人取り残されることとなった。


 部屋にあるのは、壁に掛かった大型の液晶テレビと、二人用サイズのソファ。

 それから天井近くの四隅にしつらえられたスピーカーに、白い布で覆われて光量を調節された照明。

 飾り気を微塵みじんも感じさせない、何とも殺風景な空間だった。

 こんな場所でリラックスなんてできるのか、不安はますますつのってくる。

 

「では、これから映像と音楽を流します。もし急な心身の不調が発生し、視聴を続けるのが不可能になった場合、退室していただいて構いません。その場合、謝礼はお支払いできませんが、違約金などを要求することもありません。ただ、守秘義務に違反があった場合は賠償請求が行われる場合がありますので、その点は御了承下さい」


 さっきサインした契約書にも書かれていた注意事項が繰り返された後、テレビに映像が浮かび上がる。

 紅葉している山――のように見えなくもないが、画面いっぱいにせわしなく流れ落ちる丸く透明な大量の何かが、映っているものを曖昧にしていた。

 背後のスピーカーからは、土砂降りっぽい雨音とセミの鳴き声という、普通は同時に聴こえてこないものが低い音量で流れてくる。


 リラックスするどころか、まったくもって落ち着かない。

 この実験は大丈夫なのかと心配しつつも、仕事なので画面からは目を離さずにおく。

 時計がないので正確にはわからないが、三十分か四十分くらい経った頃からだろうか。

 頭がフラフラ――いや、フワフワとしてきた。

 眠さや酔いに似ているようでどこか違う、未経験の不思議な感覚だ


 液晶画面では、二匹の猫が正体不明のゴツゴツしたものを追いかけている。

 スピーカーからは、心音と小さい子の鼻歌が混ざったような音がゆったりと流れる。

 自分の意識が、見えているものと聴こえているものの中に溶け込んでいくような、そういう感覚に囚われるが、そこに実験前に抱いていたような不安はない。

 この場にあるということが、とても自然でけだし当然でまさに必然だと感じた。

 次の瞬間、視界の全てが乳白色に染まっていき、その次の瞬間にスピーカーからの声を知覚する。


「――さまでした。本日はこれで終了となります」


 体感時間では一時間足らずなのに、もうそんな時間が経ったのか。

 ソファから立ち上がると、先程とは別物のフラつきを感じた。

 頭の芯には鈍い痛みも居座っていて、口の中は乾燥して舌にヒリつきがある。

 半端な時間の居眠りをしてしまった後にやってくる、不快な諸々によく似た症状だ。


「あちゃー、参ったなぁ」


 室内はモニタリングされているだろうから、寝ていたのもきっとバレている。

 報酬の減額ならまだしも、支払い拒否って話になると厳しいな。

 そんなことを考えつつ部屋を出ると、メガネの方のスタッフが笑顔で出迎えてくれた。

 

「お疲れ様でした。いくつかの質問に答えていただいたら、今回は終了ですので」

「あの……実はですね、ちょっと途中で寝ちゃったみたいで、すいませんけど質問に答えられるかどうか……」


 相手はガチな研究機関らしいし、誤魔化そうとした方が後々で面倒になるかも。

 そんな可能性が脳裏のうりぎったんで、素直に詫びを入れておくことにした。

 掌を返して刺々しい対応になるのを覚悟したが、相手は笑顔をキープしたまま手を振って否定のジェスチャーを返してくる。


「それについては大丈夫です。あの内容で眠れたということは、理論上の数値を超えてのリラクゼーション効果を発揮している証になるので、それも貴重な臨床データとなるのです。眠気が生じた際の状況なども含めて、見たものと聴いたものに対する主観的な印象を語っていただければ、それで結構ですから」

「はぁ……そういうもの、なんですか」


 よくわからない説明だったが、雇い主サイドがそれでいいと言うなら、こちらもそれを受け入れるしかなさそうだ。

 それから、メガネの女性からの質問にいくつか答えて、何枚かの書類にサインした後で茶封筒を渡された。


 そっと中身を確認してみると、一万円札が三枚と五千円札が一枚、その他に幾許いくばくかの小銭が入っている。

 小銭は交通費として、この五千円は何だろう――と少し悩んだが、約束の四時間を十分ほどオーバーしたことに対し、追加報酬が発生したみたいだ。

 大当たりなバイトを引き当てた喜びで、帰り道はずっと口元が緩みっぱなしだった。


 三日後の二回目、一週間後の三回目も初回と同じような感じで、特にトラブルもなく無事に終了した。

 二回目は時間内に終わったので三万円、三回目は二十分近く延長したので三万五千円、それに全ての回に参加したボーナスの三万も渡された。

 殆ど居眠りして過ごした三日間だったのに、手にした報酬は合計で十三万ちょっと。

 ミチルの言っていた通り、冗談みたいにボロい儲け話というのは実際にあるらしい。


「ん? ……何だろ」


 臨時収入で遊び回って十日が経った頃、ほろ酔い加減で自宅マンションへと戻ると、宛名も差出人もなく切手も貼られていない、白い角型封筒がポストに投函されていた。

 出入り口はオートロック管理だというのに、誰かこんなものを。

 首を傾げながら、一応は確認しておこうと封を切って中を見る。

 出てきたのは白いDVD‐Rで、『アイ その1』と殴り書きされたラベルシールが、透明のケースに貼ってある。


 どういう意味や意図があって、これが届けられたのかはわからない。

 しかし、激しく厭な予感が湧き上がる。

 この場で叩き割りたい衝動に駆られるが、その前に内容を確かめておかなければ。

 いつの間にか酔いはめていて、残された頭痛と胃痛だけを抱えて自室へと急ぎ足で戻った。


 画面上に映し出されているのは、ソファに座ってボンヤリとしている自分の姿だ。

 背景と服装からして、くだんのバイトの最中に撮られた映像に違いない。

 画面外から、スッと何かがレンズの前に差し出される。

 ピントが合うと、それが自分の学生証だとわかった。

 理解してしまった瞬間、喉の奥でグブッと妙な音が鳴った。


『シノダ、アイ。十九歳、です。大学二年生、学校は――』


 画面が切り替わり、正面から映された自分が、抑揚のない声で自己紹介を始めた。

 心臓が大きく跳ねて、動悸が忙しなく耳障りな音を立てる。

 こんな記憶は存在しない――これは何なのか、どういうことなのか。

 頭の中で疑問は渦巻くが、その答えは見つからない。

 猛然と込み上げる吐き気をこらえ、自分の顔をした何者かの語りが続いている画面を注視する。


『初体験の相手は、お父さんです。私が小学校、小学四年生の、六月。いつもみたいに、一緒にお風呂に、入って、その時に。私は何も、知らなくて。お父さんのチ――』


 とてもじゃないが見ていられなくなり、リモコンの停止ボタンを押す。

 どうしてこんな、ありもしない過去を――催眠術? 薬物? 私は何をされた?

 とにかく普通じゃないし、意味がわからないし、気持ちが悪い。

 世間的には性的虐待の証言になるのだろうが、トラウマを封印しているとかではなく、こんな出来事はなかったと自信を持って断言できる。


 思い返せば、語っている私の様子も不自然だ。

 喋り方もそうだが、視線がカメラではなく、少しズレたところに向けられていた。

 もしかして、カンペを読み上げさせられていたのだろうか。

 いや、そんなことより、どうしてこんなビデオが存在しているのか、何を目的として作られたのか、それこそが問題になる。


 スマホを操作し、カナちゃん先輩の番号を呼び出すが、呼び出し音すら鳴らない。

 連絡を待ってるとメールを送った後で、あの仕事の仲介者であるミチルに連絡をしてみるが、こちらも全くつながらない。

 実験のスタッフから緊急連絡先として教わった番号にかけてみるが、電話に出たのは赤羽あかばねにあるデリヘルの受付係だった。


「嘘……何これ……何なの……やだ……やだやだ……」


 グチャグチャになった思考から、止め処なく否定の言葉がこぼれ出た。

 手の込んだドッキリの可能性にすがりたい気分だが、それはありえないと自分の中の冷静な部分が否定してくる。

 カナちゃん先輩から紹介された、ということでミチルを信じてしまった。

 よくよく考えれば、ミチルはあの日が初対面の見ず知らずの相手だし、有名大学と大企業の実験とやらも胡散臭うさんくさいし、あんな条件で大金を払うなんてどうかしてる。


 今更な後悔で自己嫌悪に陥りかけるが、そこでフとあることに思い当たってしまう。

 そもそも、私はカナちゃん先輩のことをどれだけ知ってるんだ。

 しばらく前に飲み会で一緒になって、そこで意気投合して時々遊んだりするようになったけど、あの人の学部も知らないし、どこ住みかも知らないし、苗字すら曖昧だ。

 というか、本当に同じ大学に通っているのか、先輩と呼ぶべき立場なのかも怪しくなってくる。


 あの映像をどう使われるんだろう――脅迫か、恐喝か、イヤガラセか。

 想像と連想は悪い方へ悪い方へと転がり、荒くなった呼吸音に変な濁りが混ざる。

 どうする――誰かに相談するとして、警察、両親、大学、友人、どこに?

 混乱の深まる頭を落ち着かせたくて、奥歯を噛み締めながら室内をウロウロ歩き回っていると、テーブルの上に置いたスマホが震えた。


 恐る恐る、痛みはあるが目視できない箇所を鏡で確認するような気分で、スマホに手を伸ばす。

 ディスプレイに表示されている発信元は、カナでもミチルでもなく実家だった。

 安堵なのか拍子抜けなのかわからないが、腰が砕けて床にへたり込みそうになる。

 それをギリギリで耐え、乱れ放題の呼吸を落ち着かせようと二回深呼吸をして、それから通話ボタンを押した。


「……はい?」

『アイ! どうしたの! 何なの、あのっ、あんなっ――ねぇ!』

「おっ、お母さん? 落ち着いて。そっちこそどうしたの?」

『どうしたもこうしたも……どういうことなの! 何を考えてあんなこと! 説明しなさい、説明を! 相手のっ、あの男は誰なんです? それに買取るなら五百万円って!』


 最初は状況が把握できなかったが、母親をなだめながら話を聞いている内に、自宅に届けられたのと同じDVDが、実家にも送り付けられたのだと理解した。

 実家向けには、金を要求する脅迫状めいたものも追加されているようだ。

 ただ、どうにも話に違和感があったので、そこのところを確認してみる。


「えっと、その、ビデオ? それって、タイトルみたいなの、ついてる?」

『えっ? あ、あぁ、ケースにシールが……ええと……アイ、その4』


 母親からのその返答で、無意識状態の私の出演している動画が、少なくとも他に三本は存在していることを知る。

 それと同時に、ミチルの言っていた『冗談みたいにボロい儲け話』の提供者が、他でもない自分自身なのだと理解させられた。

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