あいつらの仲間
「ですからねぇ、何度も何度も何度も! 言わせないで下さいよっ!」
「はぁ……やっぱりその、意味がよくわからんのですが」
「わからないことないでしょう! とにかくあなた達は、監視とサインと無線と尾行を今すぐ、今すぐにやめなさい! いいですか、今すぐに! です!」
「だから、ウチはそんなの――」
一方的に捲し立てた須藤は、反論を聞かずに隣家へと戻っていく。
ドアを閉めた俺は、口中に溜まった苦味を溜息にして吐き出した。
近所トラブル――ということになるのだろうが、何が原因なのかも抗議されている理由も要領を得ないので、解決方法がわからない。
なので、ただひたすらにコチラのストレスばかりが蓄積することとなっていた。
「また、須藤さん?」
「ああ。相変わらず、何の話をしてるんだかサッパリわからん……」
リビングに戻ると、朝からチャイムを乱打されて不機嫌になっている、眉間に皺の寄った妻の歌穂に迎えられた。
この借家に引っ越した直後から今に至るまでの半年、隣に住む須藤の謎めいたクレームが散発的に続いている。
六十をいくつか過ぎたくらいの須藤は、古いが広い屋敷に独りで暮らしている。
噂では、ウチにしているような抗議行動を各所でやらかしていて、近隣住民に恐れられたり嫌がられたりしているようだ。
「ボケるって歳でもないと思うんだけどね……もう一回、警察に相談しとく?」
「どうなのかな。何回も警察からは注意されてるハズなのに、まったく効果なさそうだしなぁ」
「病院に強制入院させられるくらいに壊れてれば、逆に助かるんだけどね」
棒読み気味に冷酷なことを言う歌穂に、俺は苦笑を返すしかない。
世間的には狂気に囚われた須藤は、『かわいそうな人』の範疇に入るのだと思われる。
しかし、現実に大迷惑を蒙っている身としては、とてもじゃないが懇切丁寧に付き合ってやる気になどなれない。
実際問題、家族にしたって手に余る状況だろう――歌穂が聞いた話によれば、須藤は妻には先立たれているものの、娘がいて近場に嫁に行っているらしい。
だが、その娘はまったく実家に顔を出そうとせず、おかしくなった父親を放置しているのだという。
そうしたくなる気持ちはわかるが、そのせいでコチラにとばっちりが来ていると思うと、顔も知らない娘とやらに文句の二つ三つもぶつけたくなる。
「出勤前にこんなの、テンション下がるんだよなぁ」
「一人の時に来られるのも邪魔臭いの……無視してるけど、二十分三十分平気でチャイム押し続けるし、須藤さん」
「ちょっと失敗したかも、家選び」
「ごめんなさいね。随分といい条件だし、先方からも急かされてたから……」
「あ、いや、別にさ、歌穂を責めてるワケじゃなくて。大体、探偵でも雇って調べなきゃ隣に狂ったジジイが住んでるとか、わかりっこないんだし」
歌穂が表情を曇らせたのに気付き、俺は咄嗟にフォローを入れる。
駅まで徒歩十分、通勤に三十分、浅築3LDKの駐車場付き一戸建て。
この条件での相場を大幅に下回る家賃の物件が、歌穂の伝手で借りられるかもしれない、と聞いて一番喜んだのは俺だ。
この値段なら事故物件でも我慢できるな――と思っていたのだが、週に二回ペースで言葉は通じるのに会話が成立しない奴が突っ込んでくるような、そんなタイプの事故は想定していなかった。
「相手すんのは面倒だけど、今んとこそれ以上の害もないし。むしろ、何かあってくれた方が警察とか病院とか、話を持って行きやすくなるんじゃないか?」
「そう、ね……」
さっきの歌穂の病院送り発言を補強する感じに、俺は話の流れを誘導する。
ともあれ、そろそろ家を出なければ遅刻してしまう。
須藤の相手で十分以上無駄にさせられたので、ゆっくり食事をする暇もない。
歌穂が用意してくれたサラダとフルーツは諦め、トーストしていない六枚切りの食パンにターンオーバーの目玉焼きを挟み、簡易サンドウィッチに仕立てて口に詰め込む。
「じゃあ、行ってくる。帰りは十一時くらいになると思うから、メシはいいや。早く帰れるようなら、電話入れる」
「行ってらっしゃい……気をつけてね」
妙に感情の籠もった『気をつけて』を背に受けて、玄関から三歩の距離の門扉を開く。
視界の隅で、人影がフワッと動く。
須藤か、と思って睨み気味にそちらを見ると、ゴミ袋を持ったおばさんだった。
半透明ビニールに半端に詰まった、ビニールを主体にした不燃ゴミ。
あれ、今日は燃えないゴミの日だっったっけ。
半秒ほどそんな疑問が浮かぶが、時間的な余裕がないことを思い出し、駅方面へと足を向け直した。
そこはかとない胃の痛さを引きずりながら、いつものように仕事をこなす。
珍しく残業もなく定時で上がり、随分と早い時間に最寄り駅へと帰り着いた。
本当はこれが当たり前だというのに、何だか得したような感がある。
いつもよりたっぷりの自由時間をどう使おうか――普段使っている道とは違う、駅前商店街を抜けるルートを選んで歩いていると、不吉な人物の姿を見つけてしまった。
須藤だ――朝っぱらから俺に向けてきたのとよく似た、景気の悪い顰めっ面を貼り付けて、『のしのし』と擬音を付けたくなる大股で歩いている。
挙動に妙なぎこちなさがあり、堂々としているというよりも、虚勢を張っている感じが滲んでいる。
まさか声をかけてこないだろうな、と軽く身構えてしまったが、須藤はこちらには目もくれず小型のスーパーへと入って行った。
かなりの資産家だろうに、買い物は自分でするらしい。
須藤の動きを眺めていると、商店街を歩いている何人かも、自分と同様に注視しているのに気付く。
悪い意味で有名人だし、この辺でもトラブルを起こしてるのかも。
朝の不快なやりとりを思い出してしまった俺は、真っ直ぐ家に帰る気にもなれなかったので、適当な居酒屋に寄っていくことにした。
「いらっしゃい。そちら、カウンターへどうぞ」
時間が早かったのか、店内に客はいない。
恰幅と愛想のいい五十過ぎくらいの女将が、テキパキとおしぼりやメニューを用意してくれる。
とりあえず瓶ビールとモツ煮を注文し、店内を観察してみた。
内装は落ち着いた雰囲気で、掃除は行き届いていて小奇麗だ――TVやラジオでなく、昭和歌謡が流れているのもいい。
しかし外観の印象よりもだいぶ狭く、カウンターが六席に四人掛けのテーブルが二つ、という小規模さだ。
店の立地もいいとは言えない場所だし、基本的に常連だけを相手にして成立している商売なのだろう。
「お待たせ。ビールと、煮込みね」
「あ、どぅも」
「……お兄さん、随分疲れてない?」
「まぁ、ちょっと最近、色々と」
自分でもどうかと思う暗い声で応じてしまうと、女将は心配そうに訊いてくる。
曖昧な対応で誤魔化しかけたが、長年客商売をやっている相手ならば、何かいい知恵をくれる可能性がある。
そう閃いた俺は、『最近あった色々』について、自分の情報をなるべく伏せながら語ってみた。
「須藤さん、そんなことになってるの……よくない噂は聞いてたけど」
「もう、かなり話が通じない感じで。買い物は一人でしてるし、身嗜みも普通だから、そこまでオカシくなってるんでもない気はするんですけど」
「そういえばウチの常連さんも先月、雨の日にいきなり傘をひったくられて壊されたらしくて」
ちょっとばかり頭は変でも、直接は手は出してこない――何となく思っていた線引きを一蹴する女将の話に、ビールの苦味が七割ほど増した気がした。
「傘を……何でそんなこと」
「その人が持ってた傘っていうのが、英字新聞をプリントしたような柄だったんだけど、須藤さんがそれを見て『今度は英語か、卑劣なサインを見せても無駄だ』とか言いながら、凄い形相で掴みかかってきたって……やっぱりお兄さんが言ってたように、妄想が悪化してるのかもね。呼ばれた警察も、処置に困ってたそうだし」
「こういうのって、どうすりゃいいんですかねぇ……」
追加でビールをもう一本頼みつつ、夕食も済ませてしまおうと皿うどんを注文する。
客がまだ来ないこともあって、女将は調理を済ませた後はこちらの話にたっぷり付き合ってくれた。
昔から地元の名士的な立場にある家の当主、ということで須藤の奇行は客の間でも時々話題になるらしく、そこで出てきた未確認情報もいくつか教えてもらった。
戦後の農地改革で土地の大部分を失ったのと、先代がバブル期に投資で失敗したことでかなり減らしたが、それでもまだ富豪と呼べるレベルの資産を所有している。
奥さんが重病で倒れた後、詐欺師や親族が大挙して群がり、インチキ薬やデタラメ療法でその資産を吸い取ろうと画策した。
以前は家政婦を雇っていたが、『あいつらの仲間』ではないかと疑っては次々クビにし、最終的にはどこからも派遣を断られるハメに。
そして、娘と没交渉になっている理由は、嫁いだ先の家が新興宗教にのめりこんでいて、しつこく巨額の寄付を迫ってきたから――等々。
「うーん……あの人もかなり苦労してる、ってことですか」
「だからって、周りに迷惑かけて許される、ってんでもないからねぇ。どうにかなるんなら、どうにかしてあげたいけど」
「難しい、ですよね」
助けが必要なのにそれを自覚していない――そんな人間を救うのは至難の業だ。
それより何より、散々に迷惑をかけ倒されている相手を助けたいとは全く思えない、という問題点もある。
場の空気が沈んだところで、常連らしい親爺たちが三人つるんでやってきた。
まだゆっくりしていっても構わない時間だったが、その三人がいかにも騒々しい雰囲気だったので、会計を済ませて早々に退散することにした。
金があるからって幸せになれるとは限らない、か――それはそれとして実家が金持ちってアドバンテージは羨ましいけれど。
そんな益体もないことを考えながら歩いている内に、自宅である借家と須藤家を取り囲む高い壁が見えてきた。
家の手前で、犬を散歩させていた子供と擦れ違う。
小学生くらいの子が、こんな時間に明かりも持たずに、一人で。
気にはなったが、ハイペースで空けた大瓶二本が帰り道で回っていたので、とりあえず一休みしたい気分の方が勝った。
自宅に戻ると、リビングの明かりが消えていた。
歌穂はどこかに出かけているのだろうか。
しかし、夜の十時になろうとしている時間帯にどこへ。
あいつも色々と気疲れがあるだろうし、早めに寝てしまったのかも。
そう思い至った俺は、様子を見ようと二階にある寝室に忍び足で向かう。
寝室の引き戸をそっと開けるが、ベッドの上に歌穂の姿はない。
しかし、その先にあった。
寝室の窓の外、監視カメラをこちらに向けて設置した須藤への対策で、目隠しシートを張り巡らせてあるベランダ。
そこにしゃがみ込んだ歌穂が、手にした妙なものを須藤の家の方へと向けている。
先端がラッパ状になった、アンテナのようなものが多数伸びている、五十センチくらいで光沢のある棒状の何か。
それは太いコードでもって、旧型のラジオみたいな無骨な機械とつながっている。
暗い中で状況が確認できるのは、そのラジオもどきの本体が、緑と赤の光を交互に点滅させているから。
カラフルな光に照らされた歌穂は、まったくの無表情だ。
というか、顔の筋肉が機能していない、死人にも似た弛緩ぶりだった。
本当ならば、「何をしてるんだ」と訊いてみるべきなのだろう。
しかし俺は、無言で寝室の戸を静かに閉じた。
それから、足音を立てないように注意して、ゆっくりと階段を下りる。
変な緊張に呼吸を乱しながら、俺は考える――考えてしまう。
ひょっとして、須藤の言い分にも真実があったのではないか、と。
財産を狙う詐欺師や、寄付を迫る娘夫婦の存在、これは実在している。
では、監視とか尾行に関してはどうか。
ゴミ袋を持ったおばさん、犬の散歩をする子供、須藤の姿を見つめる通行人たち――疑おうとすれば疑えるが、確証はない。
サインというのはよくわからないが、無線についてはどうだ。
反射的に、さっき目撃してしまった歌穂の姿が思い浮かぶ。
歌穂の伝手で格安で借りられたこの家だが、俺は家主について何も知らない。
ここに越すと同時にパートを辞めたが、歌穂はいつも家で何をしているのか。
時々は趣味の写真を撮りに車で遠出しているようだが、その写真を見たことはあっただろうか。
様々な疑念が渦巻くが、それを晴らすべきかどうかの決心はつかない。
リビングまで戻ったところで、階段を急ぎ気味に下りてくる音が響いた。
「おかえりなさい……早かったのね」
「ん、ちょっとね。夕食は済ませてきたから」
「わかった。わたしは上で片付けしてたんだけど、ちょっと転寝しちゃったみたいで。疲れてるのかな」
「隣もアレだし、心労のせいかもな……ホント、無理しなくていいから」
いつもの調子で言う歌穂に俺も合わせるが、どうしても振り返ることができない。
あの、ベランダにいた歌穂の顔がそこにあったら。
俺に見られたと知ったら、歌穂の態度が豹変しないか。
よからぬ想像が、背筋を際限なく強張らせていく。
今なら、須藤の気持ちが少しわかる――そんな気がした。