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チョコと娘と父親と

作者: 初空

 私の名前は(すが) 明弘(あきひろ)。今年でよわい三十八になる。

 家族構成は美しい妻と十四歳になる麗しき我が娘の三人暮らしであるが、娘とは二年、口を利いていない。口を利いていないといえば語弊があるかもしれない。実際には私が一方的に無視をされ続けているのだ。私は嫌われている。年頃の娘だし、それも仕様が無いことだと思っている。子に好かれる事だけが親の役目ではない。娘が道を踏み外さず、健やかに成長を促せる存在であればそれで良い。今は親が鬱陶しく思える時期であり、それはしばらく続くだろう。

 そう思っていた。


「……はい、これ」


 二月十四日。世間はバレンタインデーで一色だ。テレビを付ければ朝の情報番組で人気のチョコレート特集をやっているし、コンビニの雑誌コーナーにはバレンタインデー攻略と銘打たれた週刊誌が乱立している。ウチの娘も、昨晩から何やら熱心にキッチンに籠っているかと思えば、年相応にこのイベントのための準備を進めていたようだ。


「ありがとう」


 父としての威厳を残したい私は、満面の笑みを微笑み程度に抑え、娘が差しだす赤い包装に緑のリボンのついた小箱を受け取った。二年ぶりの会話にしては短く味気ない。しかし、私の心は熱く感動に打ち震えていた。私は知っている。この箱の中には娘が人生で初めて手作りしたチョコレートが入っているのだ。

 私が受け取ると、娘は照れたように顔を背けた。


「別に、本命のついでだし……」


 ついででもいい。本命を送る相手がいる事実もこの際どうでもいい。娘が私の為にチョコレートを用意してくれた。今日ほど娘を愛おしく思えた日はない。いや、娘はいつでも愛おしいが今日は格別だ。

 朝ごはんも食べずに学校へ向かう娘を見送り、私は威厳という鎧を一瞬で脱ぎ捨てた。


「母さん! 母さん!! 亜美が私に! 私の為に!」


「はいはい。早くご飯食べて会社に行きましょうねぇ」


 妻はいつでも冷静だ。

 私はこのチョコレートを今日一日の活力として食すか、それとも楽しみにとっておくか、悩みに悩んだ末、中身だけを確認することを決断した。父として、娘の努力の成果を知るべきだ。リボンをほどき、包装紙を破かないように慎重に剥がす。これは後で復元し、書斎の金庫にしまっておく事にしよう。

 妻の気持ち悪い物を見るような目つきを無視し、私は慎重に箱の蓋を外した。

 そして、表情が凍りついた。

 箱の中に入っていたモノは茶色く、確かにチョコレートだった。しかしそれはいびつながらもハートの形をしていた。型にはめて作ったのになぜ歪むのだろうという疑問はさておき、そのハート型の上にはホワイトチョコレートで文字が書かれていた。どういう内容かといえば、


『たっくんへ あなたと初めて知り合って7年の月日が経ちました あれは桜が満開に咲き乱れた入学式のことで父母とはぐれた私は どうしようもない孤独感の中で絶望に打ちひしがれていましたが あなたに出会ったその日 私は運命を感じたのです 小学校二年生になってお互い友達も――』


「って長いぞ娘!!」


 数十行と続く恋文章に、私は思わず叫んだ。あぁ!妻が私を迷惑そうな顔で見ている。

 ってか、〝たっくん〟って誰!? 完全に私じゃないよね!?

 明らかに渡す相手を間違っているだろう!? 

 というか、入学式での出会いから今日に至るまでの思い出を事細かくつづった恋文は、明らかにペース配分を間違えており、後半の字がほとんど読めないほどに潰れている。おそらくは綴っているうちに興が乗り、長文になっていることに気付かなかったのだろう。私にも経験がある。想いをレポート用紙に三十枚程度にしたため、当時付き合っていた彼女へ一度にFAXしたら警察沙汰になった事があった。強過ぎる想いは時に理解されないものである事を、娘は知るべきだろう。


「…………」


 さて、ここで一つ問題が発生したわけである。

 私が貰ったチョコレートが〝たっくん〟という馬の骨に渡る本命チョコだとしたら、娘が今持っているのは本命のついでに作った私へのチョコレートということになる。気付かずに相手に送ってしまえば、娘の気持ちは永遠に伝わらない。娘の努力が報われないということだ。それは父として避けてやらねばならなかった。

 私はすぐさま携帯電話を取り出し、発信履歴の二番目をプッシュする。数回のコールのあと、私の直属の上司に当たる人物が電話に出た。


「すみません。娘の聖戦を守るため、今日はお休みさせていただきます」


『ハァ!? なにバカな事言って――』


 要件を伝えると私は携帯の電源を切った。


「ふぅ、これでよし」


「よしじゃない!!」







 はじめはチョコを娘に返すだけの簡単なミッションだと思っていた。

 しかし、よくよく考えて見ると、私がこの開封済みのチョコレートを持っていったところで、娘はどう思うだろうか。親にひた隠しにしてきた想い人への恋文を読まれ、オマケに添削までされているなど。まぁ、添削はやり過ぎたな。親として反省している。

 とにかく、娘にチョコを届けた所で素直に〝めでたしめでたし〟とはならないだろう。下手すればまたしばらく口を利いてくれないこともあり得る。

 私は娘とお喋りしたい。できれば親子らしく週末の予定などについて語り合いたい。


「うむ」


 考えはまとまった。

 私が直接たっくんとやらにこのチョコレートを届けよう。

 手掛かりは〝たっくん〟という呼び名だけではあるが、私には38年の人生経験がある。なんとかなる。その筈だ。

 朝の校門前で決意の拳を固める私の横を、娘と同じ制服を着た生徒たちが急ぎ足で過ぎていく。ショートホームルームが近いのだろう。


「では」


 私は生徒たちに倣って校門を潜ろうとした。しかし、


「ちょ、ちょっとちょっと!」


 若い警備員が慌てたように私を呼びとめた。このうろたえよう、おそらくは新人だな。


「すみません。本校になにか御用でしょうか?」


 新人くんの表情は焦りと疑念が滲みでている。そうか、確かにな。考えて見れば私はアポをとっていない。得体の知れない大人が校内をうろつくというのは、客観的に見ておかしいことだ。私、ちょっぴり反省だ。

 私はあらためて新人くんに向き直るとネクタイの位置を正し、要件を手短に伝えた。


「2年A組、菅 亜美の父だ。本日はたっくんとやらに一つ、喰らわせに来た」


「拳をですか!?」


 なにを言っているのだろうね、この新人くんは。


「チョコレートに決まっているだろう。今日はバレンタインだぞ?」


 私の返答に新人くんは一瞬、キョトンとした表情となり、次第に青ざめる。そして、私のスーツの裾を掴むと必死の形相で言葉を吐いた。


「いけません!!」


「む? なにを言うか!? 私がバレンタインに男子学生にチョコを渡しに来たのだ。なにが悪い!」


「そのままの意味で色々ダメです!! お引き取りください!」


「ぬ、ぬぉおおお! えぇい離さぬか! 私は、私の使命を果たせねばならんのだ!!」


 私は新人警備員の異常な抵抗に遭い、戦略的撤退を余儀なくされた。

 しかしまだ手はある。用は既にたっくんの手にチョコレートを渡っていようが、後から私がネタばらしでもしながらチョコを渡せば良いのだ。放課後でも充分チャンスはある。 そうと決まれば張り込みだ。私は近くのコンビニで張り込み用の兵糧を調達することにした。







「はぁ……」


 アタシの不景気な溜息を聞いて、隣の席の真奈美が心配そうに眉を寄せた。


「どうしたのスガミン?」


 スガミンというのはアタシのあだ名で、〝すが あみ〟なのでスガミンらしい。呼び名に頓着はしないけど、スガミンって響きは柄じゃないと思う。


「別に、なんでもないよ」


 夜なべしてチョコを作ってきたは良いが、渡すタイミングを計りかねているとは、親友である真奈美にも言えない。アタシを良く気遣ってくれる子ではあるけど、噂好きなきらいがある。変な噂を流されてはたまったものではない。しかし、聡い子でもあった。


「はは~ん、例の彼にチョコを渡すんでしょ?」  


 鋭い指摘に、言葉が出なかった。

アタシがなにも言うなと、じっとりした視線で睨めば、真奈美は大きく笑いながら両手をヒラヒラさせた。


「大丈夫、誰にも言わないって。私、これでも口が堅いのよ?」


 それは知らなかった。アタシは真奈美の唇を親指と人差し指で挟み、アヒル口にさせてみた。

 柔らかかった。


「そうじゃないって。ま、頑張りなよ。私、応援してるから!」


 そう言って真奈美が前方に目を向ける。アタシも釣られるように、という前提をつけたうえで、視線を前に向ける。そこには短髪で小柄で、向日葵のように大きな笑みを見せる男の子がいる。ただ視界に入っただけなのに、アタシの頬は熱く胸が締め付けられるようだった。

 ほう、と、アタシは再び息を漏らす。それが吐息なのか溜息なのか、自分自身判断がつかなかった。

 なんとか、放課後までには結論を出そう。そう思った。







 本日何度目かのチャイムが鳴り響き、私が左手の腕時計で時刻を確認すれば、時計の針は1時半をさしていた。がよくよく見ると秒針が止まっている。困ったことに、これでは娘の下校時間が計れないではないか。ただでさえ二月の寒さは露出している顔や手の肌に突き刺さり、老骨に染み入るというのに。


「キミキミ、今は何時かね?」


「うぇ!? まだいたんですかアンタ!?」


 丁度良い所にいた先程の新人くんがギョッとして振り返る。うむ、ずっといたぞ。正確には一度家に戻りコートを取ってきていたがな。


「このままだと娘が本命チョコを渡しそびれてしまうのだ」


「アンタ、そのために……?」


「うむ、会社を休んできたのだ」


「やりすぎだよ!!」


 そんなことを言われても仕方があるまい。せっかく親が子との絆を取り戻そうとしているのだ。だれにも私の邪魔はする権利はない。

 たとえ神であってもだ!


「それよりもキミ、時間を早く」


 急かす私に、新人くんが溜息と共に校舎の方を指差した。なんとも間抜けな事に、建物の壁面にデカデカと丸時計が取り付けられているではないか。娘の教室ばかり見ていて気が付かなかった。

 時刻は大体15時30分。もうすぐ終業の時間ではないだろうか。私が首を長くして待っていると、エントランスからチラホラと下校する生徒達が見え始めた。

 ようやくか、私は襟を正し、校舎へと足を向けた。しかし、


「む、なにをするか!?」


「だからダメですって! 怪しい人は入れません!」


 後ろから新人くんが羽交い締めにしてくるが、私のどこが怪しいというのだ。


「そんなチョビ髭にトレンチコートで一日中校門前に張り付いてるオッサンなんて!」


「何度も言っているが、私はここの生徒の保護者だぞ!? 入ってオッケー。なにをしてもオッケーイ!?」


 だめです! 入る! の押し問答になったが、私の鋭い眼光は校舎から歩いてくる見知った人影を見逃さなかった。あの顔は何度かウチに遊びに来ていた子だったと思う。名前はたしか……、


「真奈美くん! 真奈美くんではないか!」


 私が大きく手を振ると、向こうもこちらに気付いたようだ。彼女は手を振り返そうとしたが、私と羽交い締めにしている警備員を見て、その端正な表情を怪訝な色に曇らせた。


「スガミンパパ、……なにをやったんです?」


「ハッハッハ、やらかしたこと前提かね? なにをしているのかと訊いてほしいものだよ」


 しかし私は運が良い。想定よりも早い段階で娘の親友に接触できたのだから。これは〝たっくん〟とやらの情報を聞きだせるやもしれん。


「時に真奈美くんよ。亜美を知らんかね」


 私の問いに、真奈美くんの表情がパッと輝いた。それは、とっておきの情報を披露出来る事への期待の籠った、噂好き女子特有の表情である事を、私は経験上知っている。


「それがですねパパさん! スガミンったらついに愛しのたっくん――おっと」


 アタシの口よ堅くなれ。と真奈美くんはなにやら呪文を唱えている。口止めをされているのかもしれないが、今の私にその事情を汲んでやることはできない。


「ゴミクズ――じゃなかった、たっくんというのはどういう人物だい?」


「いま、ゴミクズって言いませんでした!?」


 なにを言っているのだろうね、この小娘は。


「冗談だとも。それよりも、教えてくれるかね? 情報通のキミならわかる筈だ」


 無論、世辞だ。「情報通……」と呟きながら真奈美くんは更に頭を抱え出した。かなり心が揺れているようだ。時折身体がクネクネしているところを見ると、もうひと押しと言ったところだろうか。私は財布の中から野口英世を取り出した。


「これでジュースでも買いなさい」


「わーい喋る喋る! たっくんはね。私たちと同じクラスで高田忠次たかだ ただつぐって言うんだよ」


「〝た〟が多い名前だね」


「うん、だからたっくん! スガミンの王子様!」


 ほう、と私は思わず目を細めた。それがどのような色を持っていたかは解らないが、真奈美くんは私の表情の変化を読み取り、己の失敗を悟ったのだろう。表情が青ざめ、次第に身体が震えだす。感情表現が豊かな子なのだろうと、最初はそう思った。

 しかしその怯え方は尋常ではなかった。


「や、やばい。このままだと、け、消され――」


 彼女が最後の言葉を言い終えることはなかった。

 彼女のコメカミにアルミ製のペンケースが直撃したからだ。スローモーションで横に崩れる真奈美くん。ペンケースの蓋が空中で開き、中身を盛大にぶちまけていく。私と警備員は散らばった文具の足場に、茫然と立ち尽くす他に無かった。


「……まったく、口が堅いと言ったのはどこの誰だったかしら?」


「亜美!」


 ブツブツ言いながらこっちに歩いてくるのは、スクールバッグを肩に引っ掛けた、我が愛しの娘、亜美だった。躊躇いなく友人に凶器を投げつけるその姿は、完全に母の血を受け継いでいるようだ。シクシクと横になって起きてこない真奈美くんに手を差しのべながら、娘は私に遠慮無しのジト目を向ける。実に可愛いな。


「で、パパはなんでここにいるの?」


 娘の詰問に、私は言葉を詰まらせた。本当の事を言っていいのだろうかと。私の頭の中で幾通りもの選択肢が浮かび上がるが、娘が鞄から文鎮を取り出し始めたので白状することにしました。はい。


「これを」


 私が懐よりチョコレートの箱を取り出すと、娘の眉毛が目に見えて歪んだ。逆ハの字である。


「中身、違っていたぞ」


 端的に、事実だけを告げる。ここで下手なフォローを口にすれば、それが火種になるかもしれん。年頃の娘と言うのは実に難しいものであるな。

 聡い我が娘は私の言わんとしている事に気付いたのだろう。「え、うそ」と短く呟き、己の鞄から赤い包装紙に包まれた箱を取り出した。リボンの色まで私の貰ったものと同じだが、違いは箱の隅に控えめに貼られたハート型のシールだ。おそらくは二つをラッピングした後に貼り付け、間違えたのだろう。我が娘ながら、そのオッチョコチョイぶりは誰に似たのか。


「うわ」


 慎重に包装を剥がし箱を開けると、そこにはフキダシのような形のチョコレートが入っており、表面に大きく白字で〝超義理〟と書かれている。あぁそうか、あれが私の貰う予定だったチョコレートか。父、ちょっぴりショック。

 娘が私の持つ箱と己の箱を手早く入れ替え、私が持っていた本命チョコの箱をシゲシゲと見つめる。安心するがいい。包装は痛めていない。


「……みた?」


 見なかった、という嘘は通じないだろう。間違いを察してここまで来たのだから。しかし、誰かに好意を寄せるという事は恥ではない。その証拠に、


「娘よ。パパとママが付き合い出したのは、バレンタインがきっかけなのだぞ」


「え」


 恥ずかしがる必要はなにも無い。年頃の娘だ。私にだってそのぐらいの理解はあるつもりだということを伝えたかった。娘が意外そうに眼を見開く。今まで話したことも無い事だからな。


「ママが、パパにチョコを渡したの? 告白しながら?」


「いや、私がママにチョコを渡した。告白しながら」


「「なにやってんだよ!」」


 娘と新人くんの声がハモった。


「兎にも角にもだ、娘よ。ここに本命のチョコがあり、想う相手がいるのなら、それを渡す他あるまい?」


 言って、私は娘に背を向ける。ひと際強い風が私と娘の間を音を立てて抜けていく。

 今の私、最高にシブいな。激シブだ。いや、最上級という意味で使わせてもらうなら、MAXでシブい。略してマキシブだ。

 背後での娘達の気配を感じながら、私は校門を背に歩き出した。冬の日暮れは早い。

 娘よ、あまり暗くなる前に帰ってこい。そして、


「良い結果報告を待っている」


 今夜は旨い酒が飲めそうだ。久々に妻と思い出話に花を咲かせるのも悪くない。なにか 、チョコレートに関する大事な事を忘れているような気がするが、


「頑張るがいいさ」


 今はただ、娘の勇姿にエールを送ろう。







「……あーあ」


 エントランスホールの壁に背を預け、アタシは溜息を吐いた。帰ろうと思っていたのに。どうしてアタシはここにいるんだろう。

 心の準備は出来て無いし、足はガクガク。今すぐこの場から離れてシャワーを浴びたい。

 それでも。


『良い結果報告を待っている』


 あれはきっと、アタシの告白の成功を祈った言葉ではない。私が逃げずに立ち向かったのだという報告を、パパは望んでいるのだ。


「ほんと、こんな時だけ父親らしいんだから……」


 まさかパパが応援してくれるなんて思ってなかったから、絶対に邪魔してくると思っていたから、拍子抜けというかなんというか、


「絶対に、やらなくちゃ」


 そう思った。

 視線を彷徨わせれば、校門の陰から真奈美が顔をだして、こちらにサインを送っている。


『3・2・1・キュー』


 まだ相手が来ていないわ。

 真奈美の隣で警備員のお兄さんもこちらをチラチラと見ている。目が合う度にこちらに向かって親指を立てて見せる。彼もパパに毒されたのだろう。アタシもそうだ。例え撃沈しても、骨は真奈美に拾ってもらう。大丈夫だ。思い込みによって自分を奮い立たせる。

 そこに、


「――――」


 来た。

 足音でわかる。小柄で華奢、栗色の髪の少年が、玄関を出てアタシの横を過ぎていく。

 アタシはすれ違いざまに彼の制服の裾を掴む。彼が驚いたように振り向くのに対して、アタシは自分が言葉を発せないでいる事に気付く。

 やばい、詰んだ。

 何一つ言葉が浮かばず、ただただ俯いてしまう自分が不甲斐ない。


「…………」


「どしたの?」


 俯くアタシの目にはパパが届けてくれたチョコレートが映っている。昨日の晩に沢山悩んで書いた恋文だ。口では言えなくても、渡すだけなら。


「あの、……これ」


 キョトンとしている彼の目の前に、アタシはチョコレートを差し出した。

 包装を解き、中身が、自分の気持ちが見えるように。

 少しの沈黙があり、アタシは顔を上げれない。しかし、不意に彼の笑い声が聞こえた。クスクスと小動物のような笑い方だ。アタシは思わず彼の顔を見た。そこには糸のように目を細め、柔和に笑う彼の表情があった。彼は言う。笑いの余韻を引きずりながら。


「ありがとう。でも」


 でも!? でもってなに? 嫌な予感が頭をよぎり、最悪の結末を想像しては膝から崩れそうになった。しかし、彼の言葉はアタシの想像を色んな意味で裏切った。


「どうして京都弁?」


 ふふ、とツボに入ったのか、彼はケタケタと子どものように笑う。嫌いな声ではない。だが不可解だった。アタシは茫然と自分の差し出しているチョコレートに目を向ける。そこには――。



『好きどす』



 単刀直入にシンプルな言葉が行書体でデカデカと書かれていた。実に男らしい字だった。

 昨日は溢れる想いをありったけ込めて書いたというのに、どうしてこんな事になっているのか。考えるまでも無い。


「あの、バカ親父……!」


 この日から、アタシの中でパパの呼び名が〝親父〟に変わった。

 今夜は血の雨を降らせる。そう心に誓い、アタシは彼の前から走り去った。

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