黒いナイフ1
晴耕雨読、という生活に憧れたことはないだろうか。私はある。小さな頃、まだゲームやらパソコンやらが発展しておらず、悪い遊びも覚える前の話だ。覚えた後は晴れには遊び、雨でも遊び、遊び呆けてたいと思った。人間とは愚かである。
それでは今はどうなのだ、と聞かれると、静かな生活も悪くないな、と思っている。
何せ私の周りはこの世界に来た日を境に騒がしいばかりだからだ。
晴れに畑仕事をして、雨が降れば窓の横に腰を下ろして水音を楽しみながら読書するのだ。
あぁ、いいなぁと寝ぼけながら市場を回っていると何やらおばさん達の噂話が聞こえてくる。
「あら、あの人新しくできた喫茶の店長さんよ」
「ああ、あそこの…」
「今度行ってみようかしら!」
「やめたほうがいいわよ、店員の柄が悪いって噂よ」
「それにあの若さで店を持つなんて、悪いことしたかお金持ちのおぼっちゃまよ」
ヒソヒソ話すならちゃんと聞こえないようにしてほしいなぁ、と思いながらおばさん達に会釈する。
噂話をやめて、逃げるように挨拶をして居なくなってしまった。人相は悪くない、というか平凡な顔で眠たそうな表情だから安心感があると言われてきたのだが、噂というのは厄介だ。私の評判はすこぶる悪い。
ため息をつきながら目的の店へ行っては大した会話もせずに必要なものを買っていく。店に出すもののために、毎朝買い出しに出かけなければいけないと言うのも面倒なものである。
「にいさんにいさん、いいもん入ったよ」
にこーっと人好きのする笑みを浮かべてがっちりと肩を掴まれる。
「なんですか、アントリオさ、ん!?」
振り向いて驚く。
目の前ほんの一センチに顔ぐらいの長さの刃渡のナイフがあった。
「な、何するんですか!あぶないな!」
抗議する私に何でも屋のアントリオさんがふっふっふと楽しそうに笑う。歳は40くらいだろうに、子供みたいに笑う人だ。変なことをするが嫌いになれない。
「大丈夫大丈夫、切れないんだよな、これ」
自分の手のひらにナイフを押し付けひくが、出血は見られない。しかしまぁ、心臓には悪い光景だ。なんと言っても見た目にはすごく鋭利なナイフなのだから。
しばらくその様子を見ているとアントリオさんがまた口を開く。
「で、買わない?」
買うよね、ってニュアンスを含んだ疑問系。見透かされているようで嫌な気分だが、仕方がない。
「...買いますよ、いくらですか」
「まーいどー、もってけ泥棒、3000レマン!」
「あー、3000レマンね、3000...って高すぎない?」
ジロリとアントリオさんを睨む。大体1レマンで露店の飲み物が買えることを考えると、日本円換算で30万くらいになるんだろうか。
「だって珍しいからな、それにおにーさん金持ちだろ?ケチケチすんなよ」
「別に金持ちなわけじゃないですよ…」
文句を言いながら3000レマンを渡して、ナイフを恐る恐るバッグに入れる。
おお、どうやら本当にきれなさそうだ。
「毎度ー!また頼むぜ、にーさん!」
相変わらず極上の笑顔で私を見送るアントリオさん。
そして今のやり取りを見ていた市井の皆さんはヒソヒソと噂を始める。
明日来た時はどんな噂が追加されてるのかと思うと頭が痛くなってきた。