◇4
あれから暫くのことは、私の記憶にはほとんど残っていない。
セスナさんに診察してもらって、それから薬を飲んで、あとはひたすら窓の外を見ていた。あれから何時間経ったのだろう。もう太陽は西に沈もうとしていて、東の空は夜を迎えている。
医務室の外は人の足音がせわしなく響いていて、時々男の人たちの怒声のようなものさえ聞こえてくる。
キッドさんはおろか、ケビンさんさえあれから姿を見ていないのに、外の喧騒は増すばかりで。
――バカだな、私。そうやって結局、キッドさんが無事だって早く知って、自分が安心したいだけなんだ……。
こんな腐った考えじゃダメだってわかってるのに、止まらない。少しでも考えようとすると、暗いことしか思い浮かばない。
医務室のベッドで膝を抱えながら、私はぼんやりとまた窓の外を見る。決して大きくはない窓。空と、背の高い木々と、街の景色が見える。街では家の明かりが灯り始めている。
――私って、こんなに女々しかったんだ……。
ぎゅっと膝を抱えた。
――顔も知らないふつうの人たちにまで、嫉妬するなんて。羨ましいって、思うなんて……。
こんな醜い自分は嫌だ。私は私なのに、他人を羨むばかりで、他人に迷惑をかけてばかりなんて、耐えきれない。
私は自然とセスナさんの仕事机を見ていた。包帯を切ったりする、ハサミに目が留まる。ハサミだ。
私はゆっくりと立ち上がり、靴を引っ掛けながらセスナさんの仕事机に近づいていく。セスナさんは背中を向けていて、私には気づいていない。私が机の前にきてようやく、セスナさんは顔をこちらに向けた。
「お、なんじゃお前さん。どうしたんじゃ?」
セスナさんの声が、近くて遠い。私の手は勝手に動く。冷たいハサミの感覚が伝わってきた。
「お前さん、一体何を……!?」
セスナさんが叫んだのと、私がハサミを振り下ろしたのはほぼ同じだった。
「――……なんで、ですか」
ハサミを持った腕は、ぴくりとも動かない。
「なんでですか……――キッドさん」
私の腕を掴みながら歯を食いしばって俯いているキッドさんに、私は静かに問いかけた。私がハサミを手にしたとき、彼は部屋にいなかった。それなのに、たった一瞬で部屋に入って、私の腕を掴んでいる。
こみ上げてくる感情は恐怖心、なのだろうか。彼が常人ではないことへの、恐怖なのだろうか。
――違う、そうじゃない。怖いのはそこじゃない。そもそも、怖いんじゃない……。私は、分からないんだ……。
目の前にいるこの人は、私のことを大切にしてくれている。出会って間もないのに、こんなにも、こんなにも私のことで真剣になってくれる。
――それが一番、分からない……。
こんな無価値な自分を、こんなどうしようもない自分を、こんな自己撞着を繰り返している自分を、こんな、こんな私を。
「テナちゃんは、本当は死にたいなんて思ってないじゃないか」
ひどく冷たい声音だった。今までの優しい彼からは想像もできないほどの、底冷えするような雰囲気に、私は動けなくなった。
「……ごめん、痛かったね」
キッドさんは私の手を放す。私は自分の心のやわらかい部分に触られたような気がして、一歩も動けない。
いつだって、何度だって、思ってきた。死にたいと、いなくなってしまいたいと。自分さえいなければ良かったのにと、何度だって後悔して、それなのにずっと死ぬことは出来なくて。
――私に覚悟が足りないの? 死ぬってどういうことか、私は……。
瞬間、狼たちが斬られていた記憶がフラッシュバックした。あまりにも鮮明に残っている記憶に、胃から何かが込みあげてきた。
「うっ……」
「テナちゃん!?」
キッドさんに体を支えられる。セスナさんがバケツを差し出してきた。私は我慢できなくなって、バケツに顔を突っ込んだ。色々なものと一緒に、涙も出てきた。悲しいのか、恥ずかしいのか、もうぐちゃぐちゃだった。
ただ吐き出したものが、私自身の全てを物語っているようだった。
しばらくして落ち着いてからセスナさんに水を渡され、私はそれを一気に飲み干した。体中に水が染み渡っていく感覚に、私は漸く安心した。
「……あまり、無茶なことをせんでくれ。もしお前さんがまたこんな事をしたら、牢屋に入れるしかなくなってしまう」
悲痛な声で言うセスナさんの様子が、それは本当に心からの言葉なのだと教えてくれた。私はグラスをきつく握って俯いた。
「……ごめんさい。ごめんなさい」
それしか言えない。今はもう、ただ大人しくしていることが最善なのだろう。一刻も早くここからいなくなりたいという気持ちは、少しだけ影を潜めてくれた。
「テナちゃん」
名前を呼ばれ顔を見上げれば、キッドさんは穏やかで優しい笑みを浮かべて手を差しのべてくれていた。
「ちょっとだけ、俺と話をしてほしいんだ」
拒絶する理由などなかった。私も彼と話したかった。常人とは思えないのに、人の温もりを私に与えてくれるキッドさんを、私はもっと知りたいと思った。
私はキッドさんにベッドまで導かれ、セスナさんは少しの間隣の小部屋に移動してくれた。キッドさんは椅子を持ってきて、ベッド脇に腰を下ろす。
「なにから、話そうかな……」
キッドさんは手持ち無沙汰になり、指を組むことを繰り返している。私はじっと彼の手を見た。
「……俺はね、両親の顔を知らないんだ」
「え……?」
唐突に話し始めた彼の言葉に、私は耳を疑った。しかし、キッドさんはなんてことのないように笑う。
「いきなりでごめん。でも、君には聞いてほしいんだ」
「どうしてですか?」
私が問えば、彼は困ったように眉根を少し寄せた。
「なんでだろう。でも、テナちゃんには、話さなければならない気がしたんだ……」
彼の寂しげな横顔に、私は胸が締め付けられた。なんだか、記憶の奥底のほうで、よく似た横顔がちらつく。
「……俺はね、実は出身はブラドワールなんだ。君とおんなじ」
おんなじ、と言ったキッドさんの言葉には、なにか含みがあった。でも私は、彼の言葉の上澄みしか拾えなかった。
「キッドさんも、ブラドワール出身……? でも、あなたはナルダンの騎士ですよね?」
「うん、不思議なことに。……本当に、俺がここにいるのは奇跡なんだと思う」
「あの、キッドさんはご両親なしでどうやって……?」
奇跡だと言った彼の言葉に、私は彼の半生の壮絶さを想像せずにはいられなかった。私も幼くして母を失ったが、父がいた。一人ぼっちではなかった。でも、目の前にいる人はどうなんだろう。
私が彼の言葉を待っていると、彼はゆっくりと言い聞かせるように「拾われたんだ」と言った。
「正確に言うと、物心つく頃までは施設みたいな場所にいたんだ。でもある日、施設の外に出たら、魔物に殺されそうになってさ。そこを、今の養父に助けてもらった」
「施設とは、孤児院のような……?」
「孤児院とは違うけど、俺と同じような子どもが何人にもいたよ。俺は自分が何者なのか知らないまま時を過ごしたけど、ある日、外の世界を知りたくなったんだ。いや、本当は逃げたかったんだと思う」
何から、とは聞けなかった。私もおんなじ気持ちを知っている。逃げたい気持ち。自分ではどうしようもない大きな流れがあって、けれどそれに逆らいたくて仕方ない気持ち。
「逃げた先に待っていたのは、どうしようもない"死"だった。いずれ誰もが出会わないといけないもの。それでも、あの時の俺に覚悟なんてなかった。ただ死が恐ろしく、死の原因になる魔物を憎むことしか出来なかった。そんな俺を、偶然とはいえ助けてくれた人がいた。その人のおかけで、俺はこうしてナルダンで騎士をやっているんだ」
ねぇテナちゃん。そう呼びかける声の哀しさに、私は顔を上げた。
「死ぬことと逃げることを同義にしちゃいけない。君は逃げたいって願っているだけで、死にたいわけじゃない。それを同じにしてはいけない。君が願っているのは、逃げてでも生きることだろう」
君は生きることを願っているんだよ。
キッドさんのその言葉は、すとんと私の胸の奥に入った。
死ぬことと、逃げること。確かに、私はそれを同じもののようにしていた。逃げたい。この場から消えてしまいたい。死んでしまいたい。いつの間にか歪んでしまった自分の思い。
私が願っていたことは、本当に望んでいたことは――。
「キッドさん……」
私の声は、声になっていただろうか。
喉は熱く、もうただ嗚咽を漏らすばかりだった。
「私は、生きていたい……」
私のことを、分かってくれる人なんていない。私の全てをさらけ出せる人なんていない。
それなのに、それなのに目の前の人は、こんなにも私を安心させてくれる。
――私でさえ見失っていた私の思いを、どうしてこんなに分かってくれるんだろう。
出会ってまだほんの少しなのに。私の全てなんて知りもしないくせに。こんな卑屈でどうしようもない私のことを、ひとかけらも知らない人なのに。
私が泣き続けている間、彼はただただそばにいてくれた。
三年ぶりの投稿に私が一番びっくりしています。すみません。