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私はただただ恐ろしかった。ガタガタと体が震える。突然現れた狼たちは、何度切られようと何度蹴り飛ばされようと、何度も何度もキッドさんとケビンさんに牙を向いている。
鮮やかな赤が庭の芝生を濡らしている。狼たちの皮膚は切られてもすぐに再生している。でも、切られた瞬間、狼たちは痛ましい鳴き声をあげるし、血だって流れている。
――たぶん、改造されたんだ……。
ただの狼でさえ、普通の人なら怖いと思うし、きっと太刀打ちもできない。それが再生能力を改造された状態ともなれば、並大抵の人では敵わないだろう。
――やっぱり怖いのは……キッドさん、それにケビンさん。
二人は狼を切ることに対して戸惑っていない。それが私は、たまらなく恐ろしい。
「テナちゃん、今のうちに逃げて!!」
キッドさんが必死の形相で私に叫んだ。
「で、でも……!!」
私は咄嗟に彼の言葉に反発していた。狙われているのは、私だから。
「いいから!! 早く医務室に戻ってセスナさんにこの事を伝えて!」
それなのにキッドさんは狼たちを切りつけながら、私に小さく笑いかけた。たぶん、彼自身は無意識なんだろうけど。私は震えながらも、なんとか立ち上がった。
「四番隊の援軍だ!」
するとケビンさんが叫んだ。ケビンさんの方を見れば、確かにキッドさんたちと同じ制服に身を包んだ数人の男の人がこちらにやってきていた。安堵したのも束の間、狼たちは突然高らかに鳴いた。遠吠えだ。
「なんだ、仲間を呼ぶつもりか……?」
ケビンさんの言葉に、緊張が走る。でも、狼たちは遠吠えをした以外、何かをしようとする気配がなかった。
「こいつら一体何を……」
「あっ!!」
キッドさんが声を上げた。狼たちは一斉に庭の茂みに向かって走り出していた。
「ケビン、この事を隊長たちに報告しといて!! 俺は狼を追いかける!!」
そう言ってキッドさんはすぐに走り出していた。
「おいキッド深追いするな!!」
ケビンさんが止めようとしたが、キッドさんは厳しい声音で叫んだ。
「もし市街地で事故があったら大変だ!! 街から出るのを確認したら、追跡は止める!!」
そのままキッドさんは茂みの中に消えていった。消えていった、はずだ。あまりにも速くて、私は自分の目を疑った。狼並みに、ううん、下手をしたらそれ以上の速度があの一瞬で出ていたんじゃないかな。
「テナちゃん、大丈夫か?」
私がキッドさんが消えた茂みを呆然と見ていると、ケビンさんに手を差し伸べられた。
「あの、キッドさんは……」
「あぁ、あいつの事だから大丈夫だとは思う。テナちゃんは心配しなくていい」
そう言いながら、ケビンさんの顔色は曇っている。眉根を寄せて、私と同じようにキッドさんが消えた茂みをじっと見つめている。
「……キッドさんて、とても足が速いんですね」
私は思ったことを素直に言葉にしていた。ケビンさんは少し目を丸くしてから、苦笑した。
「テナちゃんはそのままの感性でいてやってくれよ」
「え?」
どういう意味なんだろう。私が口を開こうとすると、ケビンさんはすぐに顔を逸らした。
「まぁ、あいつは騎士団ん中じゃ一番足が速いな。"俊足"なんて呼ばれるぐらいだからよ」
「そういえば、セスナさんも最初にキッドさんのこと"俊足"って……」
思い返せば、キッドさんが一番最初に医務室にやってきたとき、セスナさんがそう言って笑っていた。
「キッドの足なら狼を見失うこともないし、万が一何かあっても大丈夫だ。……んじゃ、テナちゃんは医務室に戻ろう」
ケビンさんは恭しく、私をエスコートするかのように手を差し出してきた。私は戸惑いがちに彼の手をとった。二人で宿舎の中を歩きながら、私は少しずつ体の震えが戻ってくるのを感じた。
「テナちゃん?」
ケビンさんが顔を覗きこんできた。
「テナちゃん顔真っ青だ!」
「……大丈夫、です」
「大丈夫じゃねぇよ!! い、今すぐセスナのじーさんとこ連れて行くからな!!」
ケビンさんはそう言って「あと少し頑張ってくれ!」と私の手をしっかりと握ってくれる。ケビンさんの手、とても温かい。
――人の手って、こんなにあったかいんだ……。
私は重くなっている瞼を必死に持ちあげて、ケビンさんのゴツゴツとしたたくましい手を見つめる。
「テナちゃん、ほら、医務室に着いたぞ!」
ケビンさんの言葉に、私は視線を持ち上げた。いつの間にか、医務室に辿り着いていた。
「おぉ、もう散歩から帰ってきたのか。もっとゆっくりしちょっても良かったのに……ってお前さんどうした!?」
私の顔を見た瞬間、セスナさんはこちらにすっ飛んできた。
「ケビン、なにがあった!?」
「庭にいたら、狼が現れたんだ」
「狼じゃと!?」
セスナさんの顔色がとたんに曇る。ケビンさんは声のトーンを低くした。
「俺はこれから隊長たちに報告に行ってくる。四番隊も狼に遭遇したみてーだから、ちょっと問題になると思う」
「そうか……。それで、キッドの奴は?」
「狼が街から出るのを確認するって言って、狼を追いかけてる」
「あのバカモンが……ッ!! あれほど無茶なことをするなと言っておったのに……!!」
「じゃぁ俺行くわ。あと頼むぜ、セスナのじーさん」
キッドさんはセスナさんに頭を下げると、すぐに走ってどこかに行ってしまった。私はセスナさんに引っ張られて椅子に座らされた。
「まさかこんな事になるとは……」
セスナさんは聴診器をつけながら、顔を歪めた。
「セスナさんのせいじゃありません。きっと、私がここにいるからなんです……」
ここにいる人には、何の非もない。全ての原因は、きっと私にあるんだ。
「セスナさん、お願いです。一刻も早く、私をここから出て行かせて下さい」
私はじっとセスナさんを見る。セスナさんは私の真意を探るように、じっと私の瞳を見ている。
「お前さんは、家に帰りたくないし、ここにも居たくないようじゃが……」
「我が儘なのは分かっているつもりです……。でも、これ以上ここにいたらもっと迷惑をかけてしまいます」
「なぜそう言いきれるんじゃ」
「それは……」
私にも確証はない。それでも狼が偶然現れるなんてことありえない。あんな異形を造り出せるのは、たぶん"彼"だけだから。
私が黙り込むと、セスナさんは小さく溜め息を吐いた。
「まったく、年頃の娘がそんな暗い顔をするもんじゃないわい」
セスナさんはそう言って私の頭を撫でてくれる。お祖父ちゃんがいたら、こんな感じなのかな……。
「お前さんは、今は何も心配するな。キッドの奴の帰りを待っちょればいいんじゃよ」
優しい言葉が、じんわりと胸に染み込む。本当に、ただただ私にはキッドさんの無事を祈ることしか出来ない。それがもどかしくて、申し訳なくて、私は唇を噛み締めた。