◇3
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はっきりとしない意識の中で、私は焼け付くような背中の痛みを感じた。
外からはやわらかな日差しが降り注いでいるらしい。
ぼんやりと視界を動かせば、知らない天井、知らないカーテン、知らないベッド、知らない、分からない、とにかく見知らぬものたちに囲まれていた。
――ここ、どこだろう。
私の記憶にはない場所だ。
ベッドに横たわったままきょろきょろとしていると、ふいにしゃがれた声が聞こえてきた。
おじいさんの声、なのかな。低くてよく響く声だ。
なんて言っているのかはよく分からないけれど、なんとなく、怒っているような気がする。近所の悪戯っ子たちを叱る時のおじいちゃんみたいな、そんな感じに。
「……いっ!?」
ズキン、ズキン、ズキン。
背中の痛みが明滅を繰り返し始めた。体が焼き切られそうだ。
「〜〜ッ!!!!」
思い切り唇を噛んで声を殺す。ここで声を出すことはできない。ぎゅっと思い切りシーツを握る。爪が食い込んで痛い。でもそれ以上に背中が痛くて熱い。
――我慢、我慢しなきゃ……ッ!!
歯を食いしばりながら耐えていると、次第に痛みも治まってきた。
良かったぁ、と胸を撫で下ろしていると、カーテンに人影が映った。
「……目が覚めたんじゃな」
カーテンを開けて目の前に現れたのは、さっきの声のおじいさんだった。迷彩柄のバンダナからは白髪が覗いていて、あご髭も真っ白だ。白衣を身に纏っていて聴診器もぶら下げている。見た目的に、お医者様っぽい。
「ヒッヒッヒ。なんじゃ、驚いて声も出せんのか? わしはセスナといって、ここで医者をやっちょる。お前さんは運ばれてきたんじゃよ」
そう言われて、一気に記憶が戻って来る。
どんよりと垂れ込めた空と、不気味な森と、目をぎらつかせた狼たち、それから、私を助けてくれた人。
思い出せば思い出すほど、目の前のおじいさんに聞きたいことがいっぱいいっぱい溢れてくる。
「あ、あの!」
何から聞くべき分からないけれど、気持ちが逸って落ち着けない。
「まぁ、そう慌てるもんじゃない。わしから話そう。その後でお前さんの質問は受け付ける。どうかのぉ?」
すると、おじいさんは両手で私を制した。ちょっぴり恥ずかしい。
「お、お願いしますっ」
半ばやけくそで思い切り頭を下げた。「ヒッヒッヒ」というちょっぴり不思議で不気味な笑い声が降ってくる。
「まず、ここはナルダン王国の首都ルゾー。その中にある騎士団の宿舎じゃ」
「え……っ!?」
まさか、そんな!!
だって私がいたのは隣国ブラドワールのロレーダで、ここから何百キロと離れている。
私、一体どれぐらい意識が無かったのかな。
「まぁ、驚くのも無理はない。お前さんを助けたのがうちんとこの三番隊のやつでな。それで色々あってこっちに帰ることになったもんで、お前さんも一緒に連れてきてしもーたんじゃ」
そう言いつつおじいさんはお茶を啜っている。座ればいいのになぁ、なんて思っていたら、おじいさんは手近にあった椅子を引き寄せて座った。
それにしても、私を助けてくれたあの人はナルダンの騎士様だったなんて。道理でお強いはずだ。
「……で、お前さんはかれこれ一週間以上眠ったままじゃった、というわけじゃよ」
お分かりかな、ヒッヒッヒ。
お茶を啜るおじいさんに苦笑いをしながら、私はなんとも不思議な気持ちだった。
助かって嬉しい。でも助けないで欲しかった。そんな矛盾した気持ちがぐるぐるぐるぐる。
助かって嬉しいはずなのに、どうしようもない虚しさを感じるばかり。
私が一人もんもんとしていると、おじいさんは私にもお茶を入れてくれたらしく湯飲みをもう一つ持ってこちらに近づいてきた。
「薬湯じゃ。よく効くから全部飲むんじゃよ」
「ありがとうございます」
それを受け取って一口啜る。苦い。とても苦い。でも嫌いじゃない苦味で、私はゆっくりとそれを飲み干していく。なんだか体の芯から温まるような感じがする。
「で、何か質問はあるかのぉ?」
「質問というか、その、お礼を言わせて下さい。本当に、助けて下さってありがとうございました」
私が頭を下げると、おじいさんは目を丸くした。
「もうちょっと取り乱すかと思うたんじゃが、意外に、お前さん冷静じゃな」
「いえ……頭の中はぐちゃぐちゃです」
心と頭が一致しない。まさにそんな状態だ。感謝の気持ちも勿論あるけれど、それ以上にこの人たちに関わってしまったという後悔のほうが大きいかもれない。
「そういえば、まだお前さんの名前を聞いちょらんかったの」
おじいさんにそう言われ、確かに名乗ってすらいなかったと思う。
「私はテレンツィエナといいます」
「そうか、テレンツィエナか。テレンツィエナ、今日はゆっくり寝るんじゃ。また明日、お前を助けた男が面会に来る」
「……そう、ですか」
朦朧とする意識の中で覚えているのは、その男性が金髪で、とても優しい目をしていたことだけだ。彼にもお礼が言いたいのは勿論だが、それ以上にここに長く滞在することは遠慮したい。ここは私の故郷ブラドワールの隣国ナルダンだ。一刻も早く、もっと遠いところに逃げないと。
「なに、今は難しいことは考えないに越したことはないぞ。ヒッヒッヒッ、まずは傷を治させねばな」
「ありがとう……ございます」
「食欲はあるか? あと少ししたら食事を運ばせるからの、まぁそれまでまた眠っておくんじゃよ」
「はい……おやすみ、なさい」
私はゆっくりと布団をかぶり、再び目を閉じた。カーテンが閉められ、私だけの空間ができる。自分の心臓の音が聞こえる。どくどくと脈打つ、生きている証。けれどそれと同時に、背中がまた少しずつ疼き出す。
――あぁ、せめて悪夢は見ませんように……。
私の意識は、そこで闇に沈んだ。
次の日、少しずつお昼ごろに近づいてきたとき、私のいる医務室の扉がノックされた。
おじいさんは「お、きたか」と言って視線を扉に向けた。がらり、と扉が開かれる。金髪だった。癖の強い金髪の男性が医務室に入ってくる。
「おう、早かったのう。ヒッヒッヒ、流石は“俊足”じゃ」
「ちゃ、茶化さないで下さい。それより、その……」
男性は私にちらりと視線を向けた。私は思わずすぐに目をそらしてしまった。でも、この人だ。私を助けてくれたのは。
「……良かったぁ」
私を見ると、男性はへなへなと床に座りこんだ。まるで全身の力が抜けてしまったみたいだ。
「なんじゃ、お前さんそんなヘタレじゃったのか?」
おじいさんが茶化すと、「ち、違いますよっ。……でも、良かったぁ」と男性は柔らかい笑みを浮かべていた。私はなんだか恥ずかしくなって「あ、あの……」咄嗟に声をかけていた。
男性は顔をこちらに向けると、私に近寄ってきた。
「どうしたの?」
「……あの、あなた、ですよね? 私を、助けて下さったのは」
確かめるように、私は男性を見つめた。記憶にある、あの優しい目だ。
「そんな大袈裟な。俺は騎士として当然の事をしたまでだし」
照れくさそうに、けれど少し誇らしげに男性は言った。私はそんな彼の姿にどうしようもない罪悪感とやるせなさと、それからわずかな怒りさえ感じた、感じてしまった。
「……助けて下さった事にはお礼を言います。本当に、ありがとうございました」
自分でも、よく分からない。それでもこの人を見ていたら感情がぐちゃぐちゃになってきた。それでもそれを見抜かれたくなくて、精一杯男性を見上げて、告げる。
「でも、私なんか放って置いてくれれば良かったんです……!!」
男性は目を見開き、すぐに何か言おうとしたが、その前におじいさんの「バカモンが!!」という怒号が飛んできた。
「お前さん、自分がどれほど危険な状態じゃったか分かっておらんな!? この男がここに連れてこなければ、お前さん死んじょったんじゃぞ!!」
「セ、セスナさん……何もそんなに怒鳴らなくても」
おじいさんはとても真剣に私を叱ってくれている。男性は一生懸命仲裁してくれようとしているが、私は二人から目をそらさずに「それでも、私は……」と言い募る。けれど、それは男性に遮られてしまった。
「君がどうして狼に追われていたのかは分からない。君がそこまで言うのかも、分からない」
でも、とさらに男性は続けた。
「俺は、君を放ってはおけなかった」
その瞬間、私は、とても、とても真剣な眼差しに射抜かれた。なぜここまでこの人が真剣なのかも分からない。なぜこんなにも熱のこもった瞳で私を射抜くのかも、分からない。全てが理解できなくて、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。
男性は手近にあった丸椅子を引き寄せて、そこに腰掛ける。
「まず、ここが何処だかセスナさんから聞いた?」
「……はい。ナルダンの騎士団の宿舎、だと」
「うん。じゃぁ、俺の事は?」
「騎士団の騎士様の一人だという事は聞きました」
男性はゆっくりと、確かめるように問いかけた。
「そう。俺はナルダン王国騎士団のキッドっていうんだ。えーと……」
「テレンツィエナ、と申します」
男性が視線を彷徨わせたので、私は咄嗟に名乗っていた。
「テレンツィエナちゃんか。よろしく」
ぎこちなく名前を呼ばれ、私は思わず笑いそうになるのを必死に堪えた。いつも初対面の人は大体こんな感じで、ぎこちない。おじいさんは私の名前を普通に呼べていたけれど、この人は噛まずに私の名前を言えたことにほっとしているらしい。
「よ、よろしければテナ、と呼んでください」
ようやく笑いを噛みこして、私は家族や友達から言われている愛称を教えた。男性は「じゃぁ、テナちゃんで」と苦く笑っている。
なんだか、少し可愛らしい人だな。年上であろう男性に対してこんな風に思うのは失礼かもしれないが、それでも人のよさが滲み出ているこの人を嫌いにはなれそうにない。
「さて、それじゃテナちゃん。悪いんだけど、もう少しだけそこにいてくれるかな?」
「え、でも私……」
「いいからいいから。ちゃんとよくなったら、家にも送り届けるし。俺はこれから上司とかに報告しなきゃいけないからさ」
その言葉に、私は一気に現実に引き戻される。そうだ、この人に情を移しても仕方ないんだ。私は起き上がろうとしたけれど、男性にやんわりと押し留められた。顔立ちは中性的で、優しい雰囲気の人ではあるが、やはり男の人だった。手に力がある。
「それじゃセスナさん。また何かあったら呼んで下さい」
「おう。お前さんも怪我したら承知せんからな」
「あはは……気をつけます」
そう言い残して、男性は医務室から出て行った。
私はぼんやりと彼の背中を見つめることしかできなかった。私が呆然としていると、先ほどまで男性が座っていた椅子におじいさんが腰掛けた。
「あいつも、一応いっぱしの騎士じゃからな。騎士とは女子供を守る存在だと、あいつは信じて疑っておらん。だからお前さんのことも放っておけんかったんじゃろう」
「……はい、あの人が善い人だってことは、よく分かりました」
「それだけ分かっておれば、今は良いじゃろう」
おじいさんも、あの男性も、なんて優しいんだろう。こんな名前しか分からない私を、助けてくれるだけじゃなく手当てまでしてくれるなんて。いや、彼らが騎士団で、私が庶民だからなんだろう。それでも私は、嬉しいんだ。
「……あの、聞いてもいいですか?」
「なんじゃ?」
「私の体は、あとどれぐらいでよくなりますか?」
「そう、じゃな……。早くても一週間てところかのぉ。お前さんの魔力がきっちり安定するまでは、安静にしてもらうぞ」
「一週間……」
ぎりぎりの日数だ。すると、おじいさんはとても言いにくそうに口を開いた。
「……お前さん、さっきキッドのやつに家に送る、と言われたとき何か言おうとしていなかったか?」
一瞬、どきりとした。聞かれたくない部分だけれど、言わなければ何も始まらない部分でもある。
「あの……私、家には帰りたくないんです。できたら、一刻も早くここからだっていなくなりたい……んです」
今言える精一杯を告げると、おじいさんは「そうか」と頷いた。
「お前さんにも色々事情があるんじゃろう。ただわしは医者じゃ。万全でないお前さんを外に出させるわけにはいかん」
おじいさんは断固として譲ってくれそうにない。それぐらい意志の強い眼差しをしている。どうやら簡単にここから出て行く事はできなさそうだ。
――でも、ここはナルダンの首都ルゾーだって言っていたから、“あそこ”からはだいぶ距離がある。まだ逃げる余地はある、かも……。
意識のない一週間と、これからの治療の一週間。二週間もあればブラドワールからこの首都ルゾーには来れてしまう。せめて願うのは、私がここにいるという情報が伝わらないことだけ。
「ま、今は治療に専念することじゃな。何をするにも体が資本。それからどうするかはお前さん次第じゃ」
「……はい」
それからおじいさんは用事があるらしく、「奥の部屋に本があるから、暇ならそれでも読むと良い」と言って医務室を出て行ってしまった。
一人取り残された私は、ゆっくりとベッドから起き上がる。まだ少しふらつくが、動かないと体が鈍ってしまいそうだ。一週間寝たきりだったので、すでに鈍っている気もするが。
医務室の奥にある部屋に入ると、椅子とローテーブルがあり、壁際に本棚が並んでいた。医学書がメインだが、そのうちのひとつは小説専用の棚らしく、背表紙や本の厚みが他の棚のものとは違った。私は適当に一冊を抜き出す。
「これって、確か“リディア”の御伽噺……?」
私たちが住んでいる世界ロディーラには、誰もが知っている御伽噺がある。一人の少女と七人の従者が旅をして、世界を救うという物語だ。少女を含めた八人は、後に八大国と呼ばれる現在の国の基礎を造り、世界に平和が訪れた。
――でも、従者の一人だったブラドワールが戦争に参加したことで、再び世界が危機に瀕してしまった……。
かつての従者たちは戦争を終わらせ、再び世界に平和が戻った。けれど、戦争を悪化させたブラドワールは、従者の証である宝玉を失ってしまった。世界を救った英雄である証を、ブラドワールは失ってしまった。失ったというよりは、かつての主人であった少女に剥奪された、という方が正しいのかもしれない。
――そんな二千年も前の出来事が原因で、今も他の国と仲が悪いなんて……。
それが私の祖国ブラドワール。でも自慢できるところもたくさんある。私の国は、何より科学技術が進んでいる。魔法が主流のこの世界だけれど、私の国には魔法に頼らない技術の研究がどこよりも進んでいる。他の国にはない機械や道具、生産技術。もちろん魔法に関する研究だって進んでいる。二百年前に魔力貯蔵器を発明したアナスタージオ=ヴォルタ=ビーンを筆頭に、代々公爵のビーン家が優秀な科学者を輩出している。
――それにお父さんだって……。
お父さんの顔を思い出して、私はそこで思考をやめた。今はこれ以上考えても仕方がない。
「……違う本を探そう」
リディアの御伽噺の本を棚に戻して、私は違う本を探した。しばらくするとおじいさんが昼食を持って戻ってきたので、二人でそれを食べたあと、私は読書に没頭した。