●1
ふと、若葉の香りが鼻を掠めた。
俺は窓の外を見やる。あー、この匂いがするって事は、もうそろそろカーニバルの時期も近いなぁ。
石造りのこの建物は、殺伐とした使い道に反して、意外なほどたくさんの緑に囲まれている。
俺は王城からほど近い場所にある、騎士団の演習場にいた。長い廊下を歩きながら、大きな窓から入ってくる柔らかな風を感じる。
ロディーラという世界の、南東に位置する大国ナルダン。別名「騎士の国」と呼ばれるこの国からは、優秀な騎士や剣士が何人も輩出されている。
いや、きっと何人どころではない。この国で騎士を目指す人々全てが、それだけで立派な騎士だ。
――とはいえ、この考えは憧れの人の受け売りなのだけれど。
とにかく、騎士や剣士がたくさんいるのは、この国を作った初代ナルダン国王から二千年間、今に至るまでずっと続いていることで。
俺はその事を、自分事ながら本当に誇りに思っている。なんて、内心で考えていたら馴染みの気配がこちらに近づいてきた。
「おいキッド!」
すると、案の定よく知った男に名前を呼ばれた。俺は後ろを振り返る。そこには、へらりとした笑みを浮かべた悪友ケビンがいた。
「なに、何の用?」
ケビンに関わると最近ろくな事がない。俺は気づかれないようにため息を吐く。
「何って何だよー。いくら今忙しい時期だからって俺にあたるなよなー」
「え、そんなんじゃないよ。ただ最近君に関わるとろくな事がないんだ」
「はぁ!? なんだそれ失礼な奴だなお前!」
失礼も何も、本当の事だからいいだろう。
俺がそう言い返そうした時、ケビンが「ま、いいや」と呟いたのが聞こえた。
「で、用事っつーか、伝言っつーか。セスナのじーさんがお前を呼んでたんだよ」
「セスナさんが?」
俺はそれを聞いて、脳裏にある一人の少女の顔が浮かんだ。
「でもお前がセスナのじーさんに呼ばれるなんて珍し――」
「ちょっとケビンごめん」
「うわっ!?」
俺は廊下のど真ん中に立っていたケビンを思わずどかし、医務室に向けて走り出していた。後ろからケビンの声が聞こえたけれど、今はとりあえずスルーだ。
渡り廊下を突っ切り、角を幾つも曲がっていく。宿舎の敷地にたどり着くと、茂みを突っ切って塀を飛び越えた。渡り廊下から宿舎の中に入る。
「キッド、お前は特に廊下走るなって言われてるだろ!」
「すみません! でも急いでるんです!」
先輩達の注意の声に何とか返事をし、長い廊下を突き進む。暫く突き進むと、一際大きな扉が見えた。
俺は息を整える。胸が、どうしようもなくドキドキしている。
――あぁもう、うるさいぞ俺の心臓……!!
それを無理矢理押さえつけながら二度ノックをし、医務室の中に入った。
「おう、早かったのう。ヒッヒッヒ、流石は“俊足”じゃ」
「ちゃ、茶化さないで下さい。それより、その……」
俺はカーテンに仕切られたベッドの一番奥を見た。そこには、穏やかな表情の少女がいた。まだどこか幼さの残る少女は、俺を見た瞬間、すぐに目をそらしてしまう。けれど。
「……良かったぁ」
一目見ただけでも充分だった。俺は全身から力が抜けて、へなへなと床に座り込む。
「なんじゃ、お前さんそんなヘタレじゃったのか?」
「ち、違いますよっ。……でも、良かったぁ」
俺がふにゃふにゃと笑っていると、少女は「あの……」と控えめに声をかけてきた。俺はできるだけ顔が緩まないように気をつけながら、少女へとのそのそ歩み寄る。
「どうしたの?」
「……あの、あなた、ですよね? 私を、助けて下さったのは」
様子を覗うように上目遣いで俺を見てくる少女。俺と違って指どおりの良さそうなふわふわの金髪に、思わず目がいってしまう。けれど少女の怯える瞳に、俺は一気に現実に引き戻された。
「そんな大袈裟な。俺は騎士として当然の事をしたまでだし」
騎士としての自分に俺は少し胸を張った。けれど。
「……助けて下さった事にはお礼を言います。本当に、ありがとうございました」
突き放すように、少女は言った。俺は僅かに眉をしかめる。少女の言葉には含みがある。すると、少女は一生懸命作った虚勢で俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「でも、私なんか放って置いてくれれば良かったんです……!!」
とても、傷ついた言葉だった。それが彼女の本心でないという事は明らかだ。俺が口を開こうとし、その前にセスナさんが「バカモンが!!」と怒号を飛ばしていた。本日二度目のへし折られだ。なんかちょっとだけへこむ。
「お前さん、自分がどれほど危険な状態じゃったか分かっておらんな!? この男がここに連れてこなければ、お前さん死んじょったんじゃぞ!!」
「セ、セスナさん……何もそんなに怒鳴らなくても」
俺が控えめに仲裁しようとすると、セスナさんは思い切り俺を睨んできた。凄まじい眼力に、俺も何だか逃げたくなる。しかし少女は目を逸らさずに「それでも、私は……」と言い募ろうとしている。
「君がどうして狼に追われていたのかは分からない。君がそこまで言うのかも、分からない」
でも、と俺は続けた。
「俺は、君を放ってはおけなかった」
瞬間、少女は訳が分からないと言った顔になる。確かにいきなりこんな事を言われたら誰だって不振がる。俺は手近な丸椅子を引き寄せると、少女のベッド脇に座った。
「まず、ここが何処だかセスナさんから聞いた?」
「……はい。ナルダンの騎士団の宿舎、だと」
「うん。じゃぁ、俺の事は?」
「騎士団の騎士様の一人だという事は聞きました」
少女は真っ直ぐに俺の目を見て受け答える。どうやら、芯はしっかりしたお嬢さんらしい。
「そう。俺はナルダン王国騎士団のキッドっていうんだ。えーと……」
「テレンツィエナ、と申します」
「テレンツィエナちゃんか。よろしく」
な、なんとか舌を噛まずに名前が言えた。平静を装っているけれど内心ドキドキもんだ。俺が手を差し出すと、テレンツィエナちゃんはおずおずとだが、握り返してくれる。
それにしても不思議な名前だ。何かいい愛称でも考えるべきだろうか。俺がそんな風に思っていると、テレンツィエナちゃんが口を開く。
「よ、よろしければテナ、と呼んでください」
一瞬どきりとした。俺は苦笑いを浮かべながら「じゃぁ、テナちゃんで」と付け加える。
「さて、それじゃテナちゃん。悪いんだけど、もう少しだけそこにいてくれるかな?」
「え、でも私……」
「いいからいいから。ちゃんとよくなったら、家にも送り届けるし。俺はこれから上司とかに報告しなきゃいけないからさ」
起き上がろうとしたテナちゃんを、俺は両手で押しとどめた。ふわふわで、それでいて細いと分かる感触。俺は慌てて彼女の肩から手を離す。まだ彼女は病み上がりだ。それに、彼女には言っていないけれど、彼女は一週間以上も眠り続けていたのだ。
――だから、俺としてはまだ安静にしていて欲しい。
「それじゃセスナさん。また何かあったら呼んで下さい」
「おう。お前さんも怪我したら承知せんからな」
「あはは……気をつけます」
俺はそう言って、テナちゃんに軽く手を振って医務室を後にした。扉を閉めて、数歩歩き出し、俺は盛大に脱力した。
「はぁぁあぁぁぁあ……」
声がテナちゃんに聞こえてしまわないように、なるべく小声で。なんだか心なしか耳や顔が熱いような気がしてきた。二十三年間生きてきたけれど、こんな風にドキドキしたのは生まれて初めてかもしれない。
――なんていうか、ちょっと目のやり場に困ったなぁ……。
少女とはいえ、ベッドに寝ているとなると、なんだか勝手に意識してしまう。それに、こういっては下世話だが、体つきはすっかり魅惑的な大人だったのだ。
――こんな俺、ケビンには見せられないなぁ。
そもそも見られた瞬間に、まず間違いなくドロップキックをキメている。それにしても、と俺は意識を現実へと引っ張った。俺が家に送ると言ったとき、彼女の表情に一瞬にして影が差した。狼に追われていた事も気になるし、何より問題なのは彼女がいた場所だ。
彼女がいた森は、ナルダンとブラドワールの国境付近。しかも、数キロ先には先日ブラドワールから割譲されたロレーダという地域もある。
あまり悪い事は想像したくない。
――でも、隊長達は凄いそこを気にしていた。無事に、帰してあげれるかな。
俺の懸念は、そこにある。たとえ彼女に何も非がなくても、状況が彼女を責め立ててしまわないか。
俺は自分が所属している三番隊の執務室に足を向ける。
なんだかなぁ、と軽く溜息を吐いた。すると、すぐ後ろから人の気配を感じて、俺は少しだけ顔を引き締める。
「お、キッドどうしたんだよ。溜息なんて吐いて。またケビンの奴か?」
「副隊長……」
おっす、と言いながら後ろから近づいてきたのは、俺の上司にあたる三番隊の副隊長だ。名前はクラウディー=ディワーディス。剣士の名門ディワーディス家の長男として生まれ、俺と一つしか違わないのに副隊長までやっている、超凄い人だ。
ふと視線を落とすと、クラウディー副隊長の手には、大量の書類が。
「それ、凄い量ですね……」
「だろー!?」
「手伝いますよ」
「お、サンキュー。助かるよ、全く」
俺は副隊長の持っている束から半分受け取る。書類だが、ずっしりとした重みが伝わってきた。俺は副隊長と並んで歩き出す。
「で、お前こんな所で何してたんだよ?」
副隊長の質問に、俺は事の顛末を話した。もちろん、副隊長もテナちゃんが運び込まれた事は知っている。
俺が話し終えると、副隊長は複雑そうな顔で「うー、難しいな」と唸った。
「こりゃ、お前だけの問題じゃ済みそうにねぇな」
「……すみません」
俺は反射的に謝っていた。すると、副隊長は「別に責めてるわけじゃねーよ」と笑って下さった。俺は、決してテナちゃんを助けた事を後悔していない。誰かが困っていたら、助けるのは人として、騎士として当然の事だ。それに――。
「それにしても、お前が助けたのが女の子だって事だけで騎士団中大騒ぎだもんなー」
「え? ……あ、あぁそうですね。これだけの男所帯ですから、当然っちゃ当然ですけど」
考え事をしていたせいで反応が遅れてしまった。けれど副隊長はそんな事気にも留めていないようで、「ほんっと、あいつら単純すぎて笑えるよ」と自分の同僚や部下の事を思い出し笑いしている。
確かに、正直俺もびっくりした。
俺がテナちゃんを騎士団の陣営に運び込んだとき、もう先輩から同僚から後輩から、とにかく何から何までものすっごい反応だった。
――なんか、ちょっと怖いぐらいだったしな。
幸い、あの時は三番隊だけだったからまだ良かった。それに医療関係の指揮がセスナさんだったお陰で、テナちゃんへの看護も迅速だった。
「ま、仕方ねぇか。普段俺たちが関わる女って言ったら……」
「食堂のおばちゃんぐらいですからね」
「はは、そうそう。って、これおばちゃん達に聞かれたら怒られそうだな!」
「ですね」
俺も思わず苦笑いだ。
俺たち騎士団の普段の食生活を管理してくれているおばちゃん達は、それはまぁパワーに溢れている。毎食五百人分以上の料理を作っているのだから、俺たちは頭が上がらない。
「王都に戻ってきてからは、余計に騒がしかったし、こりゃ目が覚めたと知れたら益々だな」
「俺たち三番隊だけならまだしも、十隊全部に知れ渡るわけですからね……」
若い女の子、しかも可愛い。他の隊に知れたら、きっととんでもない事になってしまうんだろう。
「ま、あの子の今後についてはこれから話し合いだな。ただの一般人なのかどうか。とりあえずは隊長に報告だ」
「……はい」
俺は少しだけ暗くなった気持ちで、隊長室に足を踏み入れた。扉を開けて正面奥に、書類の山に埋もれた机がある。相変わらずすごい量だ。そして机の横には隊長の愛剣フランベルジェが立て掛けられている。しかし、部屋の中に隊長の姿は見えない。たいてい眠たげに机で仕事をしているのに。
すると突然、机の下の方から「いでッ!!」という間抜けな声が聞こえた。
「隊長、なにしてんすか……」
副隊長が苦笑いしながら、机の下を覗き込んだ。そこには、頭を押さえながらうずくまっている隊長の姿があった。額から右頬にかけて伸びている傷跡、オールバックにした白髪、その地位を示す騎士団服と腕章。どれをとっても、中々にかっこいい中年のおっさんなのに、中身がどうにも少し抜けている。
「おぉ、クラウディーか。なに、ちとペンを落としてしまってな」
「……次は気をつけて下さいね」
副隊長はそう言って、大量の書類を机に置く。俺もそれに倣う。すると隊長が俺に視線を向けて「なんだ、キッドもいたのか」と豪快に笑った。
「そういえばお前が助けた、例の少女だが……目は覚ましたのか?」
「はい。つい先ほど。……それで、その」
俺が言いにくそうに言うと、隊長は「やっぱり、簡単には帰せないかもなぁ」と眉をしかめた。どうやら、テナちゃんを何事もなく家に帰すことはできないらしい。
「ま、早く家に帰せるかどうかは、彼女自身の問題だな」
隊長はどこか冷たくそう言い放つ。俺は胸がちくりと痛むのを感じた。実際俺も、なんで彼女があの森を走っていたのか、気にならないわけではない。それでも、問い詰めるようなことはしたくない。
「それについての詳細は、午後の会議で話し合う。キッド、お前も参加しろ」
「え!? 俺もですか!?」
「当たり前だろ、お前が発見したんだから。一番事情を理解しやすいのはお前だろ」
そ、そんな!!
ぽん、と副隊長に肩を叩かれた。なんだろう、すっごく、すっごく解せない。俺みたいな下っ端が、隊長たちの会議に参加できるなんて、とても名誉なことなのかもしれない。
それでも、できたら、俺は、本当に、遠慮したかった……。