暗示
あまり寝ていないわりに目覚めはいい。昨晩の嫌な緊張感はイリスの無表情に流されたようだ。
いつも通りの彼女に一安心した僕はソファから起き上がり風呂場に向かう。
髪を洗いながらでもやはり考えてはしまう。神の使者といっても体調というものがあると知った僕は彼女をただの超越者として見れなくなっていた。
フックにかけたシャワーヘッドからお湯を出し洗剤を洗い流していると浴室のドアが開く音が聞こえる。
お湯とシャンプーが顔にかかる中、なんとか片目を開き後ろを振り返ると雪のように白い肌を晒した全裸の少女が立っている。いや、浴室に入って来ている。
「お、おい何してる!」
「……体を洗う」
「今は僕が入ってるだろうがっ」
「……昨日入れなかった」
それは僕がいるのに入ってくる理由にはなっていないんじゃないか。そもそも神の使者に羞恥心というものは存在しないのか? いやないんだろうな。
「もういい、わかった。シャンプーを流し終わったら先に上がるからそれまで待て」
「……その必要はない。私は体を洗う。浴槽は無人になる。あなたはそのまま浴槽に入っていた方が効率的」
何を言っているんだこいつは。しかし既に手遅れ感が浴室に漂っており、しぶしぶ彼女の提案に従い浴槽に浸かる。
全裸の少女に背を向けながら問いかけた。
「ひとつ聞いていいか」
「……何?」
「僕らは出会ってそう長くはない。どうしてそこまで無防備でいられる。ましてや僕は危険視するに値する能力を有しているんだ。なのに」
「……私にもわからない。ただ、一目見た時からあなたを他人とは思えなかった」
彼女はそう言ったがもちろん過去にそんな接点はないし、僕が記憶喪失だなんてこともない。僕に似た知り合いでも居たのだろうか。
開店にはまだ数時間あり、朝食を済ませゆっくりしていると思わぬ訪問者が現れた。
「おはようございます」
フローラだった。店の場所は教えていないはずだが。
「お前……どうしてここに」
「近況報告に参ったのですが、余計なお世話でしたか」
何の情報もなしに協会と敵対するのもまずい。とりあえず知るだけ知っておくべきか。
「いや、わざわざ悪いな。開店前だし入るといい」
「お邪魔します」
彼女を案内し、イリスを呼び、三人は客席の丸テーブルで向かい合うように座った。
「あの後、独自の調査を行いましたが目新しい進展はありませんでした。ですが罪源の核が壊された事については協会もかなり困惑しているようです」
困惑。だがイリスが言うには協会は使者の指示の元、世界の楔を破壊するように指示を受けているはずだが。
「お前はどうして僕らを擁護しようとする? 本来なら協会側に加担してすぐに僕らを罰するはずだ」
「別にあなたたちを擁護してるつもりはない。私はただ、真実を知りたい。自分が信じるべき正義を見失わないためにも」
そのまっすぐとした目に偽りはなかった。
午後にはイタリア本部へ最重要人として昨日の一件を伝えに向かうらしく、飛行機の予定に間に合わせるために店を出ようとするとイリスは彼女の服を掴んでいた。
「これは?」
彼女に手渡したのはイリスが身に着けていた腕輪だった。
「……あなたがもっているべき」
「私が? なぜ?」
「僕が知り限りイリスは根拠もなくそんな事は言わない。受け取った方がいいんじゃないか」
この娘との関係は芳しくない。罪源の核を壊す僕らと守る協会。敵対していると言ってもいい。だが同じ時間を共有した事で情が生じてしまったんだと思う。他人に気遣いなど、そんな余裕はないと言うのに。
「そ、そうですか。では、遠慮なく頂きます使者様」
使者は首を横に振った。
「……イリスでいい」
彼女がイタリア本部へ向かい数日が経った。
アスモデウスとの戦闘を終えたばかりというのもあり、イリスの体調を考慮してこの数日間は本業の喫茶店をしながらゆっくり過ごしていた。
お昼の小さなピークを終えた十五時頃、風変わりなお客がやってきた。
毛先までしなやかな長い髪。血のように濃い赤を基調としたゴシック調の洋服を着ており、身長は若干高く年齢は二十前後だろうか。常に目を閉じ瞳は見えない。
大きな胸に加え、非の打ち所のない美貌に見惚れてしまう。
「そこの下等種、イリスはどこです」
……それは僕の事ですか。
残念ながら究極の毒舌だった。彼女の凛々しさときたら、フローラの比じゃない。
それにしてもこの容姿にしてこの用件、まさか。
「もしかして」
そう言いかけていると彼女の次の言葉に流された。
「私は十二使徒のリリス。彼女に用があります。さっさと案内しなさい愚者。さもなくば壁に穴を開けながら直進して向かいますよ」
無慈悲な言動がたて続く。
これが神の使い? 悪魔の間違いじゃないのか。それより使徒って十二人もいたのか。
「……イリスならそこのドアから入った奥の部屋に座ってる」
そう伝えると彼女はズカズカと人の家にあがりこんだ。
「お久しぶりですね」
リリスの挨拶に少女は頷いた。
「この男は?」
「……私の従者」
「そうですか。わかっていると思いますが、用もなくこのような汚らしい店に好き好んで来る訳もないので率直に申し上げます。協会本部へ配属されていた使徒が殺害されました」
使徒が殺された? 俄かには信じ難い話だ。使徒といえばここにいるイリスと同等の力を持っているはず。それが殺されたのなら、犯人は相当の手足れという事になる。
「知っての通り我々の任は神の意思を如実に実現する事。インベリス協会には神の意思を伝え、罪源の核を探索させるつもりでした」
迷宮でイリスがフローラにした話だ。その話を疑う余地はない。だがフローラはその事実を知らず、彼女の話によれば協会も今回の件に困惑していたと聞く。
「しかし、配属された使徒からの連絡が途絶え、確認のため別の使徒を向かわせたところ今回の件が発覚したのです」
「……状況は把握した。私が知る限り協会は罪源の核を守ろうとしている」
「なるほど、それが事実なら協会にとって我々は邪魔者。ただ、罪源の核の存在を知っているのは気がかりですね」
協会の思わくはわからないが彼らは世界の浄化を望んでいない可能性が高い。あの娘、変間をやらかさなければいいが……。
「現在は情報収集の最中ですが、態勢が整い次第動きます。色欲の楔での功績を考慮しあなたには引き続き単独で動いてもらいます。何か進展があれば連絡を」
伝え終わるとリリスは早々に立ち去った。