境界
行きはティアに片手を引っ張られて入ったアトリエだったが、出るだけならその必要はないようだ。
出口に繋がる光を目指して歩くトンネルの中、僕は先ほどの事を思い返していた。
『その手紙の封は如何なる場合も解かれることがありません。ただ一つの例外、我らの主に辿り着いた場合にのみそれは意味を成すでしょう』
話によればリリスには呪印が施されており、それ以上の支援、つまり神の意思とやらに反する行いは全て呪印によって阻まれるらしい。
もどかしさを感じつつも贅沢は言えなかった。使徒を従える者に遭遇さえしてしまえば手がかりの有無に関わらず主とやらを断定できるのは飛躍と言える。こんな馬鹿げた事は止めさせなければいけない。
「なんだ……あれ」
アトリエからの帰り道、異様な風景を目にした。
僕の視線の先を追ったティアも、それを目の当たりにして一瞬言葉を詰まらせた。
それは雲よりも高く、景色がかすれるほど遠くにある巨大な円柱。
圧倒的な存在感を醸し出しつつも、周囲の様子は至って平穏。僕ら以外には見えていないようだった。
「あたしもあんなもんは……。けど嫌な感じだ」
その場で答えが出るわけもない疑問に、僕らの選択肢は当初と変わらず帰宅する事だけだった。
自宅が見えてくると、外に立つマモンが遠くを眺めていた。彼の視線の先にはあの巨大な柱。
こちらに気づくと仮面の男は向きを変えた。
「お帰りなさいませ」
彼は傅くかのように右手を背中に、左手を胸に当て軽く頭を下げた。
「あれが何なのか知っているのか」
「ええ。ですが有余はあると思われます。皆様が揃ったところでお話しましょう」
体勢を崩さぬまま彼はそう答える。
竹花紫乃の安否を確認しに行ったフローラたちはまだ帰っていないらしい。
家に入るとアリスとエルが水槽の前で肩を寄せ合いながら何か揉めている。
水槽の主は硬い甲羅から首を伸ばし何かを催促しているようだった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。アンタちゃんとわかってるの?」
「妾を子供扱いするでないと何度言ったらわかるのじゃ」
「勝手なことしてどうなっても知らないわよ」
「じゃが此奴はこんなに首を長くしておるぞ。我らでやるしかなかろう」
アリスの手にはチョコレートがコーティングされた竹串程度の棒状菓子が握られている。その状況に大体は把握できた。
「なんだ、飼育にも興味があるのかアリス」
「か、帰っておったか。ま、まあ……いや、この娘がしつこくての」
こちらを振り返ったアリスはなぜか視線を横に逸らし、棒状菓子を背中の方へ隠している。
「ち、違うわよ。私は止めたんだけどこいつが勝手に」
「なんじゃと! 元はと言えばお主がこの者のただならぬ様子に『お腹空かせてるんじゃない?』なんて言いおるから」
幼稚な責任の擦り付け合いが始まった。
こいつらに悪気がないのは重々承知だ。
「別に咎める気はない。台座の引き出しに餌が入ってるからそれをあげればいい。ただし適量だ」
それを聞くと曇り空が三十倍速で晴れるかのようにその心境を表情に浮かべるエル。
「じゃあ私がっ」
「お主にはまだ早い。妾に貸さんか」
「な、何よ!」
二人の結末を尻目に僕はソファに腰を下ろした。
しばらくしてフローラたちが帰って来た。様子から察するに竹花紫乃は無事だったようだ。
「只今戻りました。それよりも大変です。得体の知れない巨大な構造物を確認しました」
「……対象まで約百キロ。推定高さ二千から三千メートル」
「あぁ。それについてこれから話すところだ」
各々は空いた客席に適当に座り、そこから孤立するように仮面の男は皆の前に立った。
皆が彼に視線を向ける中、ティアは棒キャンディをくわえ退屈そうな顔でテーブルに肘をついている。
「では、皆様揃いましたのであの柱についてお教えしましょう。ですが前提として話しておくことがあります──。
信じる信じないを別として、この世界に天国、地上、地獄という概念を持っている方が大半を占めていると思われます。それは間違いではないのですが、実際には少々ニュアンスが違います。
三つの並行世界、天界、地上、下界、全てがこの一つの世界に混在しているのです。
見えず、触れる事が出来ないだけで、今この場所に天使がいるのかもしれませんし、あなたの横に魔物がいるのかもしれない。
つまりは、互いが干渉するか否か、それがこの世界の境界なのです。
加えて天界が上にあると考える概念の根源には次の事実があります。
天界は下界に干渉することが可能ですが、下界が天界に干渉することは出来ず、地上の住人はそのどちらにも干渉することが出来ません」
「だとすればあの柱は……」
フローラは相変わらず察しが良く、状況の大半を理解したようだった。
気づくとアリスの視線はティアの棒キャンディに移行している。
「そう、我々とあちらが干渉しなかっただけであの柱は以前よりずっと前からあの場所に存在していた。そして、あれはこう呼ばれています──」
……『世界樹』、と。
「異なる次元を別つ境界線、世界樹を失えば異なる世界が常時繋がった状態となります。ここからは私の憶測ですが、度重なる罪源の核の破壊により次元の均衡が崩れあのような形で現れたのでしょう」
その場にいた彼以外には共通の疑問が生まれていた。僕が聞くまでもなくそれもフローラが総意を代弁していた。
「教えてください、異なる世界が繋がるとは、具体的にどうなるんです」
「下界の住人、我らのような魔のモノが際限なく地上に現れるでしょう。あなた方も知るように、彼らの基礎能力は人間を超越しています。弱肉強食の理に支配された地上の末路は言うまでもありません」
話を要約すれば神の意思とやらにこのまま従い続ければ予想通り人は滅びるようだ。わかっていたものの、その詳細を知った今の心境はこれまでにないほどリアルなモノになっていた。
人の世を守るなら罪源の核をこれ以上破壊するわけにはいかない。しかしそれでは協会、皮肉にも人間と敵対してしまうことになる。
だとすれば、想定するのは常に最悪の事態。僕らの戦力はイリス、フローラ、マモン、アリス。力を失ったエルは戦えず、使徒であるティアがこちらに付く保障はない。
対して敵は推定三百万人の協会、リリスを含む未知数の使徒たちと、実態の把握すらしていない神の意思とやらだ。結果は目に見えている。
少女の眼差しに気づいたティアは棒キャンディを左右に振り、視線が釘付けになったアリスは弄ばれていた。
「私が協会に掛け合って世界の浄化を止めさせます」
「……それは無駄。彼らは規則の元でしか動けない。神の意思がそうである限り、彼らはそれを全うする」
「しかし」
いや、違う。見失うな……論点はそこじゃない。そう、始めから間違っていた。
「白紙に戻そう。神の意思を」
愚策だと言わんばかりの表情を浮かべるフローラ。
「協会と敵対する必要はない。罪源の核を壊される前に使徒を従えてる奴を見つけ出すんだ」
「手がかりもなしに一体どうやって」
「一つだけあるだろう。僕らよりもずっと前から神の意思に抗っている奴がいたはずだ」
「まさか……危険すぎます」
「奴なら何か知っているかもしれない」




