理想
「大丈夫ですかイリス様? その服……」
「……怪我はしてない」
「ティア様が見えないようですが無事なのです?」
「……問題ない」
「それはよかった」
「そいつ、死んだのか?」
「いえ、使徒の力をリリス様に封印され意識を失っているようです」
「リリスが……そうか」
翌日、アブディエルは誰よりも遅く目を覚ました。
「ん……んん…………」
カーテンから漏れた光に重いまぶたを開くと質素な低い天井が目に入る。
ここは……? ベッド? 私、どうしてこんな所に。
「お目覚めになられたようで」
声が聞こえる足元へ目をやると、ドアの近くに立っていたのは仮面の男、マモン一人だった。
「最悪の目覚めね。で、あんた……何よ。こんな部屋に連れ込んで。強姦でもするつもり? ホントに外道だわ」
「あなたが目覚めるまで監視するよう承ったので」
「他の奴と乱交するつもり? 変態! ケダモノ!」
「元気そうで何よりです」
そう言い残し仮面の男は退室していった。
……何が元気よ。
以前のように念じても剣を具現化できない。神力も感じない。
私、本当に使徒じゃなくなったんだ。
少しして冴えない男と幼女がやってきた。
「なんじゃ辛気臭い顔しおって。せっかく生き長らえたのじゃ、もっと喜ばんか」
「死に損ないの間違いじゃないの。さっさと殺しなさいよ」
「話によればリリスはお前の処分を僕らに任せたらしい。今後の処遇はこちらで決める」
「アンタたちってホント馬鹿。使徒の力を失ってるからって油断しすぎじゃない? その気になれば不意打ちすることぐらい出来るわよ」
「好きにすればいい」
そう言い放つと彼は部屋を出ていった。
幼女がじっとこちらを見ている。
「何よ」
「お主ゲームはしたくないか? ババ抜きなんてどうじゃ? 我は強いぞ」
「二人じゃどっちがジョーカー持ってるかわかってつまらないじゃない」
「ならばチェスはどうじゃ?」
「チェスは……じゃなくて、するわけないでしょ。馴れ合うつもりはないわ」
幼女は残念そうな顔をして退室していった。
何……どいつもこいつも……私を虚仮にして。気に入らない……何もかも。
罪源の核は世界の楔。壊せば人間界は滅びる。だから私は……。
バカみたい。みんな死ねばいい。もうどうなっても私は知らないんだから……。
しばらく布団をかぶっていた私は、自問自答に疲れ部屋を出た。
「イリス……あんたどうして」
普通にテレビを見ているその姿に私は驚きを隠せなかった。
ありえなかった。予定ではルシファーに消されていたはず。じゃないとしてもリリスが彼女を見逃すわけもない。だって彼女は……。
「彼の仕業です。いえ、神の御業でしょうか」
……またあの執事野郎。
「ひたすら理想を追い求めた末に、彼は真理すら凌駕したのです」
「そんなはず!」
「それはあなたの価値観に過ぎません。もう少し視野を広げてみては?」
「私に指図しないで」
どうして世界はこんなに……私は現実を受け止めたのに、諦めたのに、こいつらはただのわがままを叶えたっていうの?
認められなかった。認めてしまったら、それは私が歩んだ道を否定してしまうことになるのだから。
もういい、ここに居たら私はおかしくなってしまう。
あの男は好きにしろと言っていた。お望み通り好き勝手にしてやるんだから。
私の靴……どこにやったのよあいつら。
行く当てもなく、彼女は粗末な作りのサンダルを履いて家を出た。
しばらく歩くと頭に僅かな違和感、それは肌にも感じ、やがて雨だと気づく。
さっきまで晴れていたのに……。
雨宿り出来る場所を探し小走りで駆けていると足元で何かが弾けた。
「きゃっ……っ痛」
粗末な作りだったサンダルのベルトが切れ、道路に倒れ込む。
濡れた地面で衣服が汚れ、膝からは出血をする。
普通の女の子と変わりない身体は貧弱で、痛みに耐えながら立ち上がると再び駆け足で屋根を探した。
小さな交差点に差し掛かったとき、車のクラクションが鳴り響く。
驚きと共に脱力し尻餅をつく彼女の前にはトラックと、アブディエルを見下ろすドライバー。
「危ねぇじゃねーか! どこ見て歩いてんだ!」
加害者になりたくないという自己中心的な考えが彼女に罵声を浴びせ、言うだけ言うと走り去っていく。
それは彼女が守りたかった世界の住人。
雨を気にする気力もそぎ取られてしまった少女は水滴を浴びながらトボトボと歩いていた。
溢れる感情を堪え、何事もなかったかのように歩く彼女の頬を、雨ではない水滴が流れていたが、それを知る者は居やしない。
そんな彼女の横で、バサッっと何かが音を立てた。
卑屈になっていた彼女はその音にビクっとし立ち止まった。
大きな黒い影が頭上を覆い隠すと、頭に感じる水滴がパラパラと無数の小さな音に変わった。
「お前はもう使徒じゃないんだろ。風邪引きたいのか」
それは冴えないあの男だった。
「ほら」
言われるがままに傘を受け取ると、彼はホルスターから銃を取り出し彼女に向けた。
「わざわざご苦労な事ね……はは」
彼女は自らを嘲笑い、涙を流しながら目を瞑った。
響く遅鈍な銃声音。
放たれた魔弾は彼女を射抜いたが、絶命するどころか痛みも感じない。
次の言葉に彼女は再び目を開けた。
「足、怪我したのか」
しゃがみ込んだ彼はハンカチを取り出し傷口に当てた。
「傘、持っててやるから自分で縛ってくれ」
「どう、して」
「僕はマモンに頼まれて来ただけだ。お前に施した追尾の魔術を壊すためにな」
無神経な彼の言葉に、涙を浮かべながらムスっとした表情に変わった。
「な、何よそれ。この人で無し……」
文句を言いながらもしゃがみ込み彼の指示に従う彼女。
「どうした。それとも、頭を撫でながら慰められたかったのか」
心配りのない彼の言葉に、潤った瞳のまま今度は頬を真っ赤にした。
「そ、そんなわけないでしょ!」
傘を持った彼を見上げながら精一杯反論する。
彼女はハンカチを傷口に縛りながら彼の言葉に過去を追憶していた。
『なたの体内に寄生虫を埋め込みまし』『っかく生き長らえたのじゃ、もっと喜ばん』『に施した追尾の魔術を壊』
「帰るぞアブディエル。見ての通り僕は片腕だ。背負ってやる事は出来ないが」
それが裸足の彼女に対する精一杯の配慮だった。
彼は雨を浴びながらすたすたと引き返して行く。
──ホント、こいつらって……。
「……ばーか」
背中を向けた彼にそれは聞こえなかった。
振り返った彼は尋ねた。
「何か言ったか?」
「……エルでいいわよ。毎回アブディエルじゃ長いから」
「そっか」
そう言い再び前を向く横顔から、エルは一瞬だけ安心した彼の優しい表情を垣間見た。
そのまま歩き続ける彼を追い駆け、持っていた傘の下に入れるエル。
「アンタこそ使徒でもなんでもないくせに何カッコつけてんのよ」
その行動に彼は少し微笑んだ。
「な、何よ」
「フローラとアリスが言ってたんだ。お前は本当はいい奴だって」
「それって協会の犬と合法ロリの事?」
「あぁ。でも今なら僕もそう思える気がする」
「ば、ばっかじゃないの。男ってこれだから単純よね。私のせいで風邪を引かれても後味が悪いだけだし」
彼は目を背けながらそう言う彼女の心境を汲み取り、優しい嘘をついた。
「あー、そこまでは考えてなかった」
少しぎこちなく歩く二人。
「……普通こういうのって男性が傘を持つんじゃないの」
ボソっと言った彼女の言葉は彼に届かない。
「ん?」
「た、ただの独り言よ。いちいち反応しないでよねっ」




