ダブル・ブッキング
暦は立春を過ぎ、徐々に春らしくなるのかと思えばこちらの期待を見事に裏切ってくれた。春めくどころか冬に逆行しているような感覚さえある。
二月も終わりだというのについ先日は雪が降ったばかりだ。
夜半過ぎには雨になる。昼間見たテレビで天気予報士が言っていたのは当たったようだ。昼過ぎから蔭りだした空は完全に雨雲に覆われ、星空とは無縁になっている。
テレビをつけていても聞こえてくる雨音に、友井直(ともいすなお)は読んでいた雑誌から顔を上げ、窓へと視線を向けた。
「寒……っ」
窓から伝わる冷気に身体が震えた。もしかしたら今夜もまた白いものがちらつくのかもしれない。そうなったら、明日の交通機関はめちゃくちゃだろう。通勤・通学の人間が朝から険悪なムードで電車に乗り込むのだから、雪の情緒を楽しむ人間は限りなく少ないに違いない。
大変だな、と他人事で呟けるのは直が気ままな大学生だからだ。
後期試験が無事終わると同時に長い春休みに突入し、あとは来期の案内が来るのを待つばかり。明日のアルバイトは昼過ぎからのシフトだし、毎朝定時で出かける社会人とは気負い方が違う。
「……そういえば、傘持って出かけたのかな?」
ふと浮かんだのは同居人である柳瀬紘也(やなせひろや)の顔だ。生活リズムの異なる彼とは今朝も顔を見ていない。
彼、紘也とは同居人でありながら同意の上での生活を送る仲ではない。それどころか丁度一年前の今頃、不動産屋に呼び出されたときに初めてお互いの存在を知ったのである。
大学にバイクで通えて、電車で通うにもそこそこの距離で、しかも築十数年の2DK。通りに面したマンションの一階で入り口に近い部屋とはいえ、許容範囲の値段に飛びついたのがいけなかったのか。
不動産屋の契約ミス―――いわゆるダブル・ブッキングの事態に蒼褪め、慌てて不動産屋に駆け込んだ時に顔をあわせたのが最初だった。重苦しい雰囲気に包まれた狭い営業所の中で、不機嫌そうに腕を組む姿を今でも覚えている。
至急新しい部屋を探してくれと言えば、時期が悪く、他の目ぼしい物件はすでに契約済みとのこと。中途半端なところは建物自体が汚すぎるか、高すぎるか、行動の範囲外となってしまう。
あとは引っ越す算段を計算するだけだったのに、今からの新しい物件探しはかなり厳しいと言われてしまえばどうしようもない。
黙りこんだ二人に対し、「一年限りの同居生活」を不動産屋が提案してきた。その条件が敷金・礼金のカット、二人で住むとしても契約した一人分の家賃、そして一年後には優先的に物件を斡旋する、の三つ。
一人暮らしをするに当たって、少しでも先立つものがあれば憂いも少なくなる。互いにそんな打算をして受け入れた同居生活も、そろそろ期日を迎えようとしていた。
窓の外を見つめていた直は、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話を手に取る。液晶画面には留守電メッセージを示すイラストがある。昨日のアルバイト中に入っていたそれは件の不動産屋からで、物件を見にこないかというものだった。
待ち望んでいたはずの連絡なのに、胸の中が鉛を飲み込んだかのように重い。手の中の携帯電話を見つめながら、直は同居当初を思い出していた。
まったく見ず知らずの他人同士が一つ屋根の下で暮らす。それは想像よりも難しくて、同居三日で自らの選択を悔やんだ。
部屋をシェアすると言えば聞こえはいいが、好き勝手に生活できるほどそれぞれ人間ができていない。目の端に映る許容範囲外の行為は不満の元になって当然だろう。
だが、それも互いに寄り添おうとする意志があれば風向きも変わる。
少しでも居心地のいい場所に。
呪文のように呟きながら過ごし、なんとか同居生活が整えられたのは半月を迎える頃だった。
煙草はベランダで吸うこと、友人等他人を呼ばないこと、睡眠を邪魔しないこと。
そのほかに、家事は時間のある直がほとんど担当する代わりに、生活費は紘也がほとんど担うことで決着がついた。もともと家事をすることに抵抗はないし、おまけにアルバイト代が浮くのだから文句などあろうはずもない。
ルールが作られてしまえば、紘也との生活は想像以上に居心地が良かった。
干渉しすぎるでもなく、ほど良く保たれた距離は直にとって好ましい。人の気配が気になるかと思えばそうでもなく。
今では時折このリビングで酒を飲み、映画を一緒に見ることもある。どちらかがビデオを借りて、気が向いたら隣りに陣取ることが多くなった。そのまま寝酒へと突入することもある。
そして一度だけ、キスをした。
正月休みを実家で過ごして戻ってきた日、先に戻っていた紘也がここで一人酒を飲んでいた。酔っ払いに言われるがままつまみを作り、なんとなく隣りに腰を下ろし。
実家のこと、友人のこと。普段話題にもならない過去と現在の恋愛話になって、気がついたら唇を寄せあっていた。
酔っ払っている。
それを免罪符に重なった唇は数度互いの弾力を楽しんだ後、程なくして紘也のほうから離れていった。直が我に返ったのは、ごめんと呟いた彼がリビングから出て行くのをぼんやりと見送ったあとのことだ。
男同士だというのに嫌悪感もなく、その温もりだけが直の中に残った。しかもあの時キスをしたのがごく自然なことのように思えてしまっている。
あれはどういう意味だったのだろう。理由を訊きたいのに、あれ以来彼とまともな時間帯に顔をあわせていない。
待ち伏せしようと思えばできるのに、そうしなかったのは彼の答えが恐かったから。
だが、躊躇っているうちにタイムリミットは近づいてくる。
「……訊かなきゃ」
部屋のこと、そしてキスのこと。
直の決意は呟きとして部屋に溶け込んでいった。
「…………い、友井」
「ん……――――?」
肩を揺さぶられる感覚に直は重い目蓋を持ち上げる。声のほうへ無意識に顔を向けると、注意を向けさせるように軽く頬が叩かれた。
「ほら、寝るなって。寝るなら部屋に行けよ。こんなところで寝てると風邪を引くだろう?」
「…………やな、せ……?」
「他に誰がいるんだ、まったく。いいから起きろよ」
降ってくる呆れたような声音を聞きながら、直は数度瞬きをした。眩しいほどのリビングの明かりが完全に目覚めていない瞳を刺激する。
「……お帰り」
ようやく戻ってきた視界の中でこちらを見下ろす紘也を見つめた。久しぶりに見る彼は少し痩せたような気がした。少し皺の寄ったスーツが彼の余裕のなさを表している。
「仕事忙しいの? ずいぶん疲れたって顔してる」
「ああ、ちょっと、な」
言葉少なに返事をすると、紘也はあっさりと直に背中を向けた。そのまま遠ざかろうとする彼のジャケットの裾を直は咄嗟に掴む。
肩越しに振り返る彼と視線がかち合い、直は初めて自分の指が何をしたのかに気づいた。自分の行為を誤魔化すために言葉を探し、浮かんだ言葉をそのまま紡ぐ。
「えっと、そう、今日不動産屋から電話があって」
それで……と先が続かなくなり、語尾を濁した直の耳に紘也の溜息が届いた。その意図を探ろうと顔をあげる前に、紘也の掌が頭に下りてくる。まるで幼い子をあやすように、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜられてしまった。
「ちょ、なんだよっ!?」
「おまえ、それで暗い顔してたのか」
乱された髪を整えようと両手を持ち上げた直は、続けられた言葉に動きを止めた。
「安心しろよ、今探してるから」
「…………え?」
反応が鈍かったのは、寝ぼけていたからではない。眠気など、今の一瞬で吹き飛んでしまった。
イマ、サガシテルカラ。
何度も頭の中で繰り返されて、ようやく音が文字に変換される言葉。何の躊躇いもなく発せられたそれは、鋭い鏃を持つ矢となって直の旨を直撃した。
まだどちらがこの部屋に残るとか全然話し合っていない。それなのに、彼は行動を起こしていた。
それはつまり、今の生活を終わらせたいと彼が以前から思っていたということで。
「探してるって……」
反応の鈍い直をどう思ったのだろうか、彼は苦笑を浮かべる。
「一応学生のおまえよりは経済力はあるからな。ここはおまえに譲ってやるけれど、引越しの手伝いくらいはやってくれよ?」
触れていた温もりが離れていく。それを追って視線を向けると、不思議そうな表情の紘也がいた。
まだ寝ぼけているせいで、直が彼の言葉を理解していないと思ったのだろうか。
そんなはず、ないのに。
心の軋みが表情に出てしまいそうで、直はそっと俯いた。わかった、と頷く声は自分でも驚くほど小さい。
「友井?」
彼が訝るのも当然だと思う。つい先ほどまで普通に会話をしていたのだから。
直はゆっくりと呼吸を行い、歪な音を立てる血流を努めて落ち着かせる。
ここで感情的になったとしても解決策はないと理解できるほどには、自分をコントロールできる。
「あんたが探してくれるってんなら楽でいいや」
自分の声が震えていないことを確認して、直は立ち上がった。こちらを見つめている視線にどうにか作った笑顔を浮かべて応える。
「決まったら教えてくれよ。こっちも都合つけるから」
「……ああ」
頷く紘也の眉が微かに寄った。だが、それをじっくり見る余裕もなく、直は彼に背を向ける。
「友井?」
「眠いから寝てくる。食器は洗っておいてよ」
仕草だけでもその雰囲気を匂わせたくて、直は片腕をぐっと天井に向けて伸ばした。
扉を閉めた途端、部屋が暗闇を取り戻す。その中を一歩ずつ進んだ直は、だるい身体をベッドへ投げ出した。
掛け布団の上に寝転がり、枕に顔を埋める。ようやく、直は詰めていた息を吐き出した。
空調を効かせていない部屋はまだまだ冬の気配を色濃く感じさせる。寒いと思いつつも、その位置から動こうとは思わなかった。いや、それすらもどうでもいい。
まさか、こんなにショックを受けるとは自分でも思っていなかった。
「……ばかだな」
本当は、紘也に提案するつもりだったのだ。この生活を続けるつもりはないか、と。
山あり谷ありだったとはいえ、直にとってこの一年は不満だらけではなかった。見知らぬ相手と同じ屋根の下で暮らすことに戸惑いを覚えたものの、彼との生活は上手くいっていたと思う。
だから、留守電を聞いたときは全身が凍りついた。我に返ると同時に慌てて、そして気づいた。
――――離れたくない。
同じ男に対して抱く想いだろうか、と自問した結果はノー。それでも自分の心に正直になれば答えは逆になる。
何時の間にか胸の奥で芽生えていた想いが、急激に膨らんでその存在をアピールしてくる。自分の気持ちを紘也に伝えることはできないが、想いを封じてでも彼の側にいたい。
この生活を維持するためにはどうしたらいいのだろう。
どう伝えたら、彼が違和感を抱かずに済むのだろう。
どうすれば、彼と―――。
ずっと悩んで出した結論は、口に出すこともなくお蔵入りになってしまった。
「……ホント、ばかだ」
直との生活を続ければ、彼にとって制約が多く息苦しくなるだけだ。友人を呼ぶこともできなければ、彼女を呼ぶこともできない。もともと一人暮らしを望んでいたのだから、不動産屋の電話を今かと待ち構えていたに違いない。
どうして、彼が自分の意見に同意すると考えてしまったのか。
居心地のいい場所だと思えていたのが自分だけ。必死になって彼との生活を維持しようと躍起になっていた自分は、端から見ればさぞかし滑稽だったろう。
零れた笑みは自嘲へと変わり、じわりと目元が潤む。涙が頬を伝う感覚に、直は慌ててそれを枕に押し付けた。
裏切られたと思うのは八つ当たりだ。わかってはいても、悲しい、辛いと負の感情が胸の中で渦巻いている。
彼が新しい部屋を見つけてしまえば、連絡を取り合うどころか道ですれ違うこともなくなってしまうのだろう。きっと二人の関係は砂で作られた城のように綺麗に崩れてしまうに違いない。
いっそのこと自分がこの部屋を出てしまおうか。
そうすれば彼を意識する時間も減るだろうし、何よりもここに一人で残されるのはいつまでも彼と共有したこの一年を引きずってしまいそうだ。
自己嫌悪に陥る思考を止めるため、直は息を深く吸い込みゆっくりと吐き出す。再び深呼吸をしかけた直の意識を、扉のノック音が奪った。
扉の向こうに立つ人物を誰何する必要もない。この家に居るのは直ともう一人だけだ。
返事をする気はなく、ただ静かに彼が去るのを待つ。だが直の期待に反してノックが繰り返され、やがて許可なく扉が開かれた。
「友井? ……寝てるのか?」
暗闇の中、廊下の明かりが差し込む気配がある。その中心に立っているのだろう紘也の声は普段よりもわずかに低い。ベッドにうつ伏せたこちらを窺っているのか、その場から動く気配はない。
それどころか、扉の閉じると同時に彼が近づいてくるのを知る。彼の足音が自分のすぐ傍で止まるのを、直は身体を硬くしながら感じていた。
「具合でも悪いのか?」
少し躊躇うようにかけられた声に、直の心が波立つ。
そう思うなら放っておけよと頭の中で返事をした直後、彼の指が髪を撫でる感触に直は思わずそれを振り払った。
当たりが良かったのか、想像以上に大きな音が部屋の中に響きわたる。
お互いに息を呑み無言で出方を窺っていたが、気まずい沈黙を破ったのは直のほうだった。紘也の視線を感じながら身体を起こすと壁に背中を預け、ごめんと小さく呟く。
「……なんだか気が尖ってるみたいなんだ。試験が終わったから気が抜けたのかも」
予め考えていたかのように、言い訳が咄嗟に出てきた。立てた膝に肘をつき、掌を額に当ててしまえばダルそうに見えるだろうか。
体勢を変えようとした直の腕を、素早く伸びてきた指が力強く掴んだ。いきなりのことに反応できなかった直は、紘也の位置が予想以上に近かったことを知る。
「放せよっ」
「……泣いたのか?」
「な、何言って……っ」
空気が動いたかと思えば、紘也の指が直の頬を辿る。そっと涙の乾いた跡を辿る優しい感触に直の身体が震えた。それが紘也にも伝わったらしく、慈しむように大きな掌がそっと直の輪郭を撫でる。
「やめ……っ」
ただでさえ自分の中の感情が落ち着かないのに、彼の行為が直を更に追い詰める。それがわかるからこそ逃げようとすれば、逆に触れる彼の全てが直を捕らえて放さない。
伝わる熱が嬉しく、そして恨めしい。甘受しようとする心と拒絶しようとする理性が直の中で鬩ぎ合う。
「…………っ」
直の抱く複雑な感情は涙となって零れ落ちた。声もなくただ静かに涙を流す直に、紘也の呆れた声が届く。
「何泣いてんだよ」
「……あんたに、関係ない」
「目の前で泣かれても?」
柔らかい声音に含まれた微妙な困惑。今彼が浮かべているだろう表情を想像してしまう自分が嫌だ。そして、この彼の態度に期待してしまう自分を情けなく思う。
どうして、と直の口から小さく漏れた。
この優しさもどうせ今だけなのだ。来月には他人として直の前から姿を消し、二度と向けられることはない。
震える唇に意識を集め、直は必死で言葉を紡いだ。
「俺が泣こうが喚こうが気にしなければいいだろ!? どうせ出て行くくせにっ」
もはや取り繕うとか、そんな考えは一切消えていた。篭められるだけの力を声に乗せ、直は滲む視界でも目の前の相手を睨みつける。
暗闇の中、たしかに二人の視線が絡み合う。そして一瞬早く紘也のほうがそれを振り切ったかと思えば、直の身体を力強い腕が抱き寄せた。
厚い胸板に鼻がぶつかり、咄嗟に顔を反らせば更に押し付けられる。身動きできないほど拘束され、直は息苦しさに浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
「……ばかだな」
ふいに頭上から降ってきた言葉は、つい先ほどまで自分が呟いていたのと同じだった。
反射的に顔を上げようとすれば紘也の手がそれを遮る。届く声音はどことなく苛立ちと困惑を含んでいた。
「人がせっかく……」
語尾を濁され、その代わりに抱き寄せる腕に力が篭められた。拘束する力に眉を顰めながら、微かに聞こえる早い心臓音に戸惑いを覚える。
「……柳瀬?」
どうして紘也が自分を抱きしめるのか、彼の言葉が何を示すのかがわからず、呆然と彼の名を呼んだ。言外に含まれた直の心理を読み取ったのだろう、紘也は困ったやつだと小さな笑みを浮かべる。
その表情に目を奪われた直は、次の瞬間届いた告白に目を瞠った。
「好きだよ、直」
予想をしていなかった展開、そして初めて呼ばれた名前に、直の心臓が大きく飛び跳ねた。どくどくと脈打つ鼓動が全身にまわり、その音に直自身が戸惑う。
「ちょ……待って、あの……」
思い出されるのはつい先ほどまでの紘也の態度だ。あんなに淡々と接していたのは彼のほうなのに、と思うと頭が混乱してくる。
目前にある胸板を両手で押すと、僅かに動けるスペースが与えられた。
―――今、聞いたのって……。
確かめるように恐る恐る視線を上げる。こちらを見やる真剣な眼差しとぶつかり、直は自分の頬が赤くなるのを感じた。
「直?」
促すようなそれに、直は顔を伏せる。
恥ずかしくて、視線を合わせたまま頷くことはできなかった。
「……あのさ」
「うん?」
「なんで、新しい部屋を探し始めたの?」
探すなら探すで、声を掛けてくれればいいじゃないか。
不満を声にすれば、返ってきたのは呆れたような視線だけだった。
「な、なんだよ?」
「鈍い鈍いと思ってはいたが、ここまでとはな」
「……なんだよ、それっ」
考えるも何も、彼自身から告げられた言葉はほとんどない。それから何を推測しろというのか。
直はもともと気の長いほうではないし、更に呆れたと言わんばかりの態度にカチンと来る。目の前の胸板に手をついて無理矢理距離を取ると、紘也をきつく睨んだ。
「あんたの何を見て考えればいいんだよ? 人にキスしたかと思えば、何の言い訳もしないじゃないか!しかも最近帰ってくるの遅いから顔を合わすこともないし、それで何を推測しろって?」
「……営業職に年明けのアフターファイブは存在しないんだよ」
間を置いてされた言い訳はどう考えても信憑性が低い。
疑う目で見つめれば、紘也が苦笑を浮かべた。
「本当だって。社内でも社外でも付き合いは必要だからな。ようやく新年会って名前の飲み会から解放されたところだったんだ」
解放されればその分溜まりかけていた書類整理が山積みとなって押し寄せてくる。こればかりはまだ押し付けられる後輩を持たない自分の仕事だ。おまけに年度末が近いせいで営業自体回転を良くする必要がある。
「俺が避けてると思ったのか?」
「…………違うのかよ」
口から出てきたのはどことなく拗ねた感じの声で。彼に咽喉で笑われ、直はふんっと顔を横に向ける。
仕事が忙しかったというのは認めるとしても、キスのいい訳くらいして欲しい。
正直に告げるのも癪で、直は意地のように視線を反らし続ける。彼が近づいてくる気配に気づくのと、伸ばされた腕が直を身体ごと抱き寄せるのはほぼ同時だった。
「半分当たりだ。でも、おまえのためだったんだぞ?」
「……なんだよ、それ」
「風呂上りに薄着でふらふらしてるとか、疲れて帰ってきたところに無防備で寝てるとか……俺としてはこちらの忍耐を試してるのかと聞きたくなったね」
「―――――知るかっ」
そんなことを言われても困る。
大体、紘也に見せつけるために行動をしていたわけではない。夏は暑いから薄着が好きだし、どちらかといえば朝型の直は夜になればうたた寝をすることも多いのだ。
頭の中で浮かんだ反論に、直はふと首を傾げる。
「薄着って、夏のこと? あんた、いつから俺をそんな目で見てたんだよ」
「さぁな」
「なんだよ、それ」
「あとでじっくり話してやるよ。今はそれよりも……」
耳元でそっと囁かれた言葉に直の頬は赤く染まった。こちらの反応を窺う紘也の前で真剣に躊躇い、そして微かに頷く。
小さな笑みを乗せた唇が目蓋の横に降ってくるのを感じ、直はそっと瞳を閉じた。