犬鳴伝説・消えた村
消えたはずの村には、まだ灯りがついている。
犬鳴谷は、すでに地図から消えていた。
福岡県宮若市、旧若宮町の山奥。犬鳴ダムが完成した1994年以降、谷底の集落は水没し、公式記録上は「無人化完了」とされた。
しかし、水没ラインをわずかに超えた高台にだけ、わずかな家々が残っていた。
行政は移転補償の難航を理由にその存在を「処理済み」とし、住民票を抹消した。
結果として、紙の上では存在しないはずの灯りが、夜毎、山中に浮かぶ。
地元ではそうした話を「消えた村の幽霊」と呼んでいたが、実際にそこに住む者たちがいたことを知る者は、ごくわずかだった。
大学生の和馬は、夏の終わりにある噂を聞きつけて車を走らせた。
「犬鳴ダムの奥に、まだ人が住んでるらしい」
「夜に灯りが見えるって。しかも地図には載ってない」
「入り口に『この先、日本国憲法は適用しません』って看板があるんだって」
友人数人と酒の勢いで決めた探索だった。
廃道を徒歩で進み、錆びた旧トンネルをくぐり、ダム湖のほとりを回り込む。
立入禁止のフェンスはすでに破られ、獣道のような細い道が続いていた。夜の十時を過ぎた頃、ようやく高台の集落が見えた。
三軒の家だけが、朽ちかけたまま肩を寄せ合うように立っている。どれも明かりが灯っていた。オレンジ色の、弱々しい電球の光だ。
人の気配は確かにあったが、奇妙に静かだった。
「マジで…住んでる」
誰かが息を飲んだ。和馬はスマホのライトを消し、木陰に身を潜めた。
好奇心が勝った。もう少し近づいてみようと思った瞬間、家のひとつから物音がした。戸が開く音。そして、ゆっくりと近づいてくる足音。
「誰だ」
低く、枯れた声だった。暗闇に浮かび上がったのは、七十過ぎに見える男だった。瘦せこけ、目が落ち窪んでいる。右手には鉈が握られていた。
刃は鈍く光り、何度も研いだ跡が残っている。
「ここはもう、お前らの来るところじゃない」
男はゆっくりと間を詰めた。
「行政の奴らも、もう来ない。警察も来ない。憲法も適用されない。ここは日本じゃないんだ」
和馬の背後で、友人の一人が後ずさった。枯れ葉を踏む音が、異様に大きく響いた。男は小さく笑った。笑いながら、ゆっくりと鉈を振り上げた。
「灯りを見たって、そう口々にみんな来るんだ。最初はダム工事の日雇い、次は若者、その次は好奇心の強いバカども…。
俺たちはもう何度も引っ越した。火事も出た。村人の半分は、お前等に怯えて逃げた。でも残った三家族は、もうどこにも行かない。」
そのとき、他の家からも扉が開く音がした。二つの人影が現れる。どちらも同じように瘦せ、目が死んでいる。
老女と、まだ十代後半に見える少年だった。少年も鉈を持っていた。
「もう、帰さないよ」
男が静かに言った。
「ここに住んでるって知られたら、また移動の話になる。役所の奴らが来る。
俺たちはもう、記録上は死んでいるんだ。死んだ人間が生きてるなんて、面倒なことになる」
和馬は必死に後退した。足がもつれ、尻餅をつく。スマホが手から滑り落ち、ライトが地面を這うように照らした。
その光の中に、男の足元が見えた。裸足で、爪が異様に長く伸び、土と血で汚れている。
「助けて…俺たちはただ、噂を確かめただけで…」
「みんなそう言う」
男は一歩近づいた。
「でも、灯りを見た時点で、もうお前らはこの村の一部だ。ここに足を踏み入れた時点で、行政の管轄外だ」
少年が横から動いた。驚くほど素早かった。和馬の友人の一人に覆いかぶさり、鉈の背で殴りつける。鈍い音が響き、悲鳴が上がった。
和馬は這うように逃げた。後ろで仲間たちの叫び声が聞こえたが、振り返る勇気はなかった。
廃道を転がるように下り、旧トンネルに飛び込んだ。息が切れ、喉が焼けるように痛んだ。出口が見えたとき、背後から声がした。
「ここは消えた村だ。ここに入った時点で、お前等はもう存在していない。」
翌朝、和馬は一人で警察に駆け込んだ。しかし、警察は首を傾げるだけだった。
「犬鳴谷? あそこはもうダム湖ですよ。人が住んでるわけないでしょう」
記録は完璧に消されていた。高台の三軒の家など、最初から存在しなかったことになっていた。
警官は疲れ果てた和馬を保護すると、その顔に見覚えのある笑みを浮かべた。
「老人に言われませんでしたか?ここは行政の管轄外だと――」
犬鳴谷は、今も消えていない。ただ、公式には、最初からなかっただけなのだ――
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