愛しい声がわたしを呼ぶ。それは鏡からのようで
その声は、あなたを追ってくる。
「夏のホラー2026」参加作品です。
なにか夢を見ていた気がする。
ザーーーー。
不快なノイズと共に、目の前のブラウン管テレビが灰色の砂嵐を映し出している。
大切な宝物を失ってからの『わたし』は、まるで魂の半分が抜け落ちてしまったかのように無気力だった。気づけばいつも薄暗い部屋の中で、この無機質な砂嵐をただぼんやりと見つめている。
『おーいみっちゃん! 例の日めくりカレンダーだけど、アレ出来たからウチの工場までちょっと見に来てくれや!』
開け放たれた窓の外から響く声が、突如としてわたしを現実へと呼び戻した。
『はーい!今行きます!』
呼びに来てくれたのは近所の町工場のおじさん。
カレンダーを作っているちょっとふくよかなおじさんだ。
重い体を起こし、わたしはゆっくりと玄関の扉を開ける。
外は眩しいほどの青空だった。家を出てしばらく歩き広場に差し掛かると、同じ街に住むご近所さんたちが、丸い輪を作るようにして何かを囲んで屈みこんでいた。
その中心にいたのは、牛柄の愛嬌ある一匹のネコ。
たしか名前は「キーちゃん」。名前の由来は誰も知らないけれど、この街のちょっとしたアイドルだ。
白と黒の毛並みを揺らし、喉を鳴らす彼女の姿を見ると、自然と少しだけ口角が上がる。もちろんわたしも彼女を愛しているし、なにより、あの子もキーちゃんのことが大好きだった。
『お!みっちゃん来てくれたのか!ほら、これが要望の息子さんの描いた絵をつづった日めくりカレンダーだ。』
作業着姿のおじさんが、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに分厚いカレンダーを手渡してくれた。
『おじさん、ありがとうございます。』
『なぁみっちゃん。息子さんのことは残念だけど、それが最後の日を迎えるまでにはちゃんと歩き出してくれよ?みっちゃんが元気ないとおじさんも街のみんなも調子でないからよ』
ガハハと豪快に笑いながら、ポンと肩を叩いてくれるおじさん。その温かい手のひらの重みに、少しだけ胸の奥が熱くなった。
工場のおばさんもわたしを心配してよく夕方にご飯を作りに来てくれる。
いまでは夕方の台所からの『トントントン』という音が待ち遠しいくらいだ。
きっと息子も同じことを私に思っていたことだろう。
家に戻ったわたしは、さっそくいつでも見られるようにトイレの壁にカレンダーを掛けた。
息子が生前に描いた画用紙を綴った、世界に一つだけの特別なカレンダー。毎日めくるたびに、あの子の新しい絵に出会える。遺品を整理していたあの日、いつもポイとその辺においてあるのに不思議とまとめて置いてあったのが印象的だった。
画鋲で壁に留めてあるため、日を変えるにはいちいち外さなければならないけれど、その不便な手間すら今のわたしには愛おしかった。
そのささやかな異変は、カレンダーを掛けた日の午後に起きた。
トイレに入ろうとドアノブに手をかけた時だ。
扉の向こうから、『ブゥゥゥン……』と低い機械音が聞こえてきた。
ウォシュレットの脱臭ファンが回る音だ。もちろん、便座に誰かが座らなければ、このファンが作動することはない。
一人暮らしの家で、なぜ……?
首を傾げたその時だった。
『……ぱさり』
トイレの中から、紙が床に滑り落ちるような乾いた音が響いた。
ハッとして振り返ると、先ほど壁に掛けたはずのカレンダーが床に落ちている。
「もう、ちゃんと留まってなかったのかな……」
カレンダーを拾い上げようと一歩踏み出した瞬間。
なにか硬い木の板を踏んだような感覚がチクリという痛みとともにと右足の裏に走った。
カレンダーを留めていた画鋲を踏み抜いてしまったのだ。慌てて引き抜いたが、ジンジンとした痛みが足の裏に居座ってしまった。
ふと落ちたカレンダーに目をやると、めくれたページが『2/7』の日付を示していた。
あれ?今日は7/2のはずなんだけどな…。
そう思いながらよく見てみると、そのカレンダーの絵のなかの人物はみんな何がおかしいのか分からないけれど、何か違和感があった。
テレビを見ている女の人を眺めている男の子の絵だ。
その男の子のうしろに黒い手が伸びている。
手の前はちょうどカレンダーの端になっていて途切れていた。
その日を境に、わたしの足には常に重い違和感がつきまとうようになった。
そして奇妙なことに、トイレに入る前には必ず『ブゥゥゥン……』と脱臭ファンが鳴るようになったのだ。
最初は戸惑ったけれど、すぐにストンと腑に落ちた。
(そうだ、あの子だ。あの子がここに座っているのだ。)
そう思うと、機械の駆動音すら愛おしく感じられた。
数日が過ぎた頃。
夕暮れ時の台所から、今日も『トントントン……』とリズミカルな音が聞こえてきた。
おばさんが夕飯の支度に来てくれたのだ。わたしは右足の痛みを庇いながら、居間でゆっくりと目を閉じてその優しい音色に耳を傾けていた。
翌日の昼下がり、家の前を通りかかったおじさんに声をかけた。
「おじさん、いつもおばさんに夕飯を作ってもらってすみません。昨日のご飯もとっても美味しかったです」
笑顔でそう伝えたわたしを、おじさんは不思議そうな顔で見つめ返した。
「……え? みっちゃん、何言ってんだ? 昨日はうちのやつ、風邪引いて一日中ずっと家にいたぞ?」
ピタリと、心臓が嫌な音を立てた。
じゃあ、あの時。
台所で『トントントン』と包丁を叩いていたのは、誰?
わたしは息を呑んだ。
嫌な予感がして、震える足でトイレに戻り、床に落ちたままのカレンダーを拾い上げた。
めくられた『2/7』のページ。
そこに描かれた絵は、昨日と明らかに変わっていた。
テレビを見る女の人の後ろにいた男の子。
その小さな身体が、背後の真っ黒な手にずるずると引きずり込まれ、すでに顔の半分以上がどす黒く塗りつぶされている。
その瞬間、誰もいないはずの台所の奥から、声が響いた。
『おかあさん……いたいよぉ……たすけて……』
息子の声だ。でも、違う。
あの子はあんな、底冷えするような湿った声で泣かない。
あれは息子じゃない。息子のフリをした『何か』だ。
背筋が凍りつき、わたしは弾かれたように玄関へ走り出し、画鋲を踏んだ足の痛みも忘れて外へと飛び出した。
ーーーその数時間後。
「みっちゃん、入るよー? またおかず持って……って、留守かい?」
心配して様子を見に来た工場のおばさんは、もぬけの殻となった家で、床に落ちたカレンダーを拾い上げていた。
「まったく、みっちゃんたらカレンダー落としたまま……ん?」
おばさんは首を傾げた。
カレンダーの絵が、奇妙な形に歪んでいる。
先ほどまで男の子を飲み込んでいた黒い手が、今度は、テレビを見る女の人の肩を、ガッチリと力強く掴んでいた。
「なんだい、この気味の悪い絵……」
訝しげに呟いたその瞬間。
おばさんの右肩に、氷のように冷たくて重い『手』が、ヌチャリと乗った。
ーーーーー
どれだけ走ったのだろう。
痛む足を庇いながら走ったせいか、足が変に痛みだしてきた。後ろからは、あの『ミシ……ミシ……』という歪な足音が、一定の距離を保ってずっと着いてきている。
息を切らして立ち止まった暗闇の中、ハッとするほど美しい緑色の瞳がこちらを見つめていた。
白と黒の牛柄の毛並み。キーちゃんだ。
彼女には、わたしを追いかける『それ』が見えているようだった。
キーちゃんは何かを見透かしたような目で小さく鳴くと、(こっちにおいで)と語りかけるように、夜の街へと走り出した。わたしはすがるような思いで、その後を追う。
気づくと日は完全に落ち切り、その建物に辿り着いたときにはすでにあたりは深い暗闇に包まれていた。
そこは、息子が好きでよくせがんでいた商業施設。
事故の日も、息子はここに来ようとしていたのだ。
見上げると、巨大な建物全体がすっぽりと灰色の防音布に覆い隠されていた。外壁の改修工事中なのだろう。夜風に煽られてバサバサと重い音を立てるその布は、まるで建物自体が巨大な怪物となり、呼吸をしているかのように見えた。
周囲を囲うバリケードの一部に、作業員が出入りするための仮設扉が少しだけ開いている。昼間なら絶対に入れない場所だが、背後から迫るあの『ミシ……ミシ……』という足音から逃れるためには、そこへ飛び込む以外の選択肢はなかった。
防音布の隙間を抜け、中へと滑り込む。
外観こそ工事中だが、一歩中へ入ればそこは息子と何度も歩いた見慣れた景色だった。ただ一つ、一切の光がない不気味なほどの静寂に支配されていることを除いて。
『……ミシッ』
扉の向こう側、すぐそこまで怪異が迫ってきている。
わたしはキーちゃんに導かれるように、すぐそばにあったエスカレーターへと足を向けた。普段なら人が近づけば人感センサーで滑らかに動き出すはずだが、閉館している今は完全に沈黙を保っている。
さながら、金属でできた段差の多い歪な階段だ。
キーちゃんは音もなくその段差を駆け上がり、振り返ってわたしを待っている。
わたしも痛む足を引きずり、歯を食いしばって必死に後を追った。カン、カン、と冷たい金属を踏みしめる音が、無人のフロアに不気味に反響する。
暗闇の中、やっとの思いで上のフロアへ駆け上がった先。
なぜかそこだけ、ぼうっと無機質な灯りが漏れている場所があった。
トイレだ。
これ以上走るのは無理だ。わたしは転がり込むように中へ入り、立ち並んだ個室の、唯一開いていた一番奥のドアへと飛び込み、内側からきつく鍵をかけた。
ーーー静まり返った個室。
息を殺して便座の上にうずくまるわたしの耳に、信じられない音が飛び込んできた。
『……ジャアァァーーー……』
隣の個室からだ。誰もいないはずの隣の洋式トイレから、突然『音姫』の流水音が鳴り響いたのだ。
ビクッと肩を震わせた直後。
『……ジャアァァーーー……』
今度は、一つ手前の個室から音が鳴った。
まるで、見えない何かが個室を順番に覗き込みながら、こちらへ近づいてきているかのように。
次は、わたしの番だ。
やばい、逃げなくちゃ!
恐怖で弾かれたように鍵を開け、個室から転がり出る。飛び出た先は、暗闇に沈む男子トイレのエリアだった。
真っ暗な空間の中、壁にズラリと並んだ小便器の赤いセンサーランプだけが、無機質にこちらを見つめている。
外へ向かおうと一歩踏み出した、その瞬間だった。
『……ジャーーーッ!!!』
突然、入り口側にあった一番手前の小便器から激しい水が流れ出した。
ビクッとして立ち止まると、隣の小便器が、さらにその隣の小便器が、ドミノ倒しのように次々と轟音を立てて水を吐き出し始めた。
激しい水音が、もう後戻りはできないとでも言うようにこちらへ向かって迫ってくる。
ふと顔を上げると、目の前の大きな鏡の中に、カレンダーに描かれていたあの『真っ黒な手』が、わたしのすぐ背後まで迫っているのが映った。
「ヒッ……!」
振り返ることもできず、わたしは弾かれたようにトイレの別出口から飛び出し、真っ暗な商業施設のフロアへと駆け出した。
そんな『わたし』を息子が鏡の中からこちらを心配気に見つめていた。
主人公を追おうとする怪異は
『どうせお前にはなにもできない』
というように鏡の中の息子に笑みを浮かべて窓から飛び降りた。
息子が好きだったところを『わたし』は走って逃げていく。
大好きだった、3階のおもちゃ売り場。
一緒にご飯を食べて笑いあった、2階のフードコート。
「夏になったらやろうね」と約束していた、1階のお素麺の売り場。
フロアを駆け下りるたびに、あの子の笑顔が、あたたかい手の感触が、声が、頭をよぎっていく。暗闇の中で、幸せだった記憶だけが走馬灯のようにフラッシュバックしていた。
まだあの怪異は、きっとこの商業施設の中でわたしを追っているのだろう。
そう思いながら駆け抜けた先。ようやく、この商業施設の出口が見えた。
閉ざされたガラス扉の向こうに、外の景色が見える。
そういえば、あの日。息子が倒れていたのも、ここだった。
下校時間の途中にこの施設に立ち寄った息子は、ここで改装中だった正面玄関の足場が突然崩れ落ち、その下敷きになったのだ。
『グシャ』
そう、ちょうどこんな風に。
あぁ、なんでわたしは、ここで寝ているんだろう。
気がつくと、わたしはエントランスの冷たい床に横たわっていた。
痛みはない。ただ、静かな朝日が立ち昇り、目の前にある装飾用の大きな鏡を明るく照らし出している。
その鏡の中から、あの子が心配そうにこちらを見つめていた。
寝ている自分の無惨な身体を時折見下ろしながら、わたしはまるで吸い寄せられるように、鏡のほうへと歩いていく。
鏡に手を伸ばすと、冷たいはずのガラスの向こうから、温かいあの子の手がわたしの手をしっかりと握り返してくれた。
わたしは今、鏡の中に閉じ込められている。
でも、もう寂しくない。ここで息子と再会したわたしは、今日もまた、鏡の中で幸せに暮らしているのだから。
ザーーーーーッ。
そんな鏡の中の美しい情景を、すべて洗い流すかのように。
突然、あの小便器の激しい水音が鳴り響いた。
きっとまた、愚かなわたしは繰り返すのだろう。
次のわたしがまた、砂嵐のブラウン管テレビから、こちらをのぞいている。
そんな気がした。
やっぱり狭ければ狭いほど怖いよね!
そういえば音姫とかウォシュレットにはあったなーとかおもってトイレを基点に考えてみました♪
キーちゃん=「鍵」です。
あの暗闇の中で鏡の世界への扉へ導く「鍵」
牛柄の白黒は生と死、現実と異界の境界線…。
さて、ではみっちゃんの名前の由来はなんでしょうか?( ⑉>ᴗ<⑉)
少しでも「ゾクッとした」「切なかった」と感じていただけましたら、
ページ下部の【☆☆☆☆☆】から【★★★★★】と評価で応援していただけると、今後の執筆の大きな励みになります!
ブックマークやご感想もお待ちしております♪




