背中
「え、高校行かんの……」
玖瑠美が驚いた表情で成明の顔を覗き込む。
「ああ、俺は親父の仕事を継ぐんやから、高校なんて行っても無駄やろ……。まあ、勉強も嫌いやしよ」
成明は唇の端を持ち上げて笑った。
二人で差している一本の傘は既に意味も無く、玖瑠美と成明の白いシャツを濡らしていた。
「しかし、すごい風やな。とりあえず、うちの納屋まで行こう」
成明は玖瑠美の差す傘を抜け出して、雨の中を走り出す。
それを合図に玖瑠美も傘をたたんで雨の中を成明に付いて走った。
「これって台風が過ぎてから帰った方が良かったんちゃうんかな……」
玖瑠美は成明の後ろから言う。
「黙って走れ、今更言うても遅いわい」
成明は顔を顰めながら玖瑠美を振り返った。
昔、国道だった古い道を渡り、その集落の人しか通らない細い道に入っていく。
そして海の傍にある納屋と呼ばれる小屋の軒下に二人は駆け込んだ。
成明は玖瑠美の入れるスペースを開けると背負ったリュックを下ろし、中からタオルを取り出した。
「ほら、使えよ」
そのタオルを受け取り玖瑠美は雨水の滴る髪を荒々しく拭いた。
その様子を成明はじっと見ていた。
玖瑠美は濡れて透けてしまった白いブラウスの胸を隠し、
「見んといてよ……。スケベ」
そう言うと成明に背中を向ける。
「誰が見るか……、そんな小さい胸……」
「何か言うた」
「いいや、何も……」
成明も玖瑠美に背を向けて自分の前髪から滴る雨水を気にした。
「しかし今年は台風が多いな」
「うん。もう二十号やもんね……。直撃もしたし、今回も直撃やなんて……」
玖瑠美は濡れたブラウスの胸を拭きながら答える。
「台風が来ても涼しくならんし」
玖瑠美は自分の使ったタオルを成明に渡した。
「使えよ……」
「もう拭いたし、大丈夫」
玖瑠美は成明の胸に押し付ける様にタオルを返した。
成明はそれを受け取ると水の滴る髪を荒々しく拭く。
「でも、ほんまに行かへんの……、高校」
成明は髪を拭く手を止めて、雨の落ちてくる灰色の空を見上げた。
「ああ、早く金、稼ぎたいしな……。高校行ってもどうせ勉強もせんやろうし」
成明はタオルを首にかけてにやりと笑う。
「高校も一緒に行けると思っとったのに」
玖瑠美は制服のスカートの裾を絞る。
スカートからも水が滴る。
「このままじゃ、確実に風邪ひくな……」
「そろそろええかな……」
と二人の後ろの建付けの悪い戸が開いて、成明の父親、正成が顔を出した。
「何だよ……。親父、居ったんかよ」
正成はタバコを咥えたまま、二人の顔を交互に見た。
「玖瑠美。少しはおっぱい大きくなったか」
玖瑠美は濡れたブラウスの胸を隠しながら
「おじさん、それってセクハラ……」
そう言い、舌を出す。
正成はニヤニヤと笑いながら、煙を吐いた。
「いや、しばらく黙っとったらラブシーンでも見られるかと思ってたんやけど……」
「アホか。息子のラブシーン見て、何が楽しいんや……」
成明は正成の脇を抜けて納屋の中に入って行く。
その成明に付いて玖瑠美も納屋の中に入った。
静かな納屋の中は煤けた様な匂いと土の匂いが混ざって独特の匂いが充満している。
「何や、こんな天気やのに……、仕事しとったんか」
成明は正成が型にはめて作っている途中の瓦を見た。
数十枚の瓦が積まれているのを見て、朝から仕事をしていた事を成明は悟った。
「ああ、流石に焼き入れは出来んけど、型取りくらいは出来るからな……」
正成はタバコを消して、使い込んだ作業用の低い椅子に座る。
「おじさん、ナルが高校行かんって言うんよ。おじさんからも何か言うて」
正成は玖瑠美を見ると歯を見せて笑い、桶の中から泥を掴み、瓦の型に叩き付ける様に入れた。
泥の中の空気を抜くために叩き付ける。
よく空気を抜かないと瓦の強度が保てない。
玖瑠美もいつか成明に聞いた事があった。
「行かんのか……」
正成は型に泥を押し付けながら訊いた。
「ん……。ああ、瓦焼くのに学はいらんしな……」
成明はリュックを納屋の隅に置いて、首にかけたタオルを玖瑠美の肩にかけた。
「そうか……」
正成はそれだけ言うと捏ねる様にして、型に泥を押し込んだ。
「学があればこんな仕事せんでも済むんやけどな……」
正成は成明を見上げる様に見るとまた歯を見せて笑う。
玖瑠美は傍にあった椅子に座り、まだ水の滴る濡れた髪を拭いた。
「俺が継がんと、この瓦屋が無くなるやろ……。誰が焼くんか……」
成明は納屋の一角に積んである土を桶に入れると水を入れた。
「こんな仕事かもしれんけど、瓦も蛸壺も欲しいって人、まだまだ居るんやから……」
成明は桶に手を入れ、その土を捏ね始めた。
「蛸壺も作ってるん」
玖瑠美はタオルを頭から被ったまま訊く。
「瓦と蛸壺は同じ土から作るんや……。今じゃ、プラスチック製の蛸壺にどんどん代わっていってるけどな……。瓦も同じや、西洋風のスレート瓦ってモンになっていってる」
玖瑠美は何度か小さく頷くと、また髪を拭いた。
それを見て正成はまたニヤリと笑う。
「だから無理に継ぐ事もない。こんな瓦屋なんて俺の代で終わっても痛くも痒くもない」
「親父……」
成明は捏ねた土の入った桶を抱えて、正成の前に置いた。
正成はその桶の中を覗き込み、
「今日は雨やから、もう少し水少なめかな」
と言い、成明の顔を見た。
「わかったよ……」
成明は次の桶を抱えて、土を入れた。
「見とれよ、次は完璧やからな……」
誰にも聞こえない程に小さな声だったが、その言葉は正成にも玖瑠美にもちゃんと聞こえていた。
自然に二人は顔を見合わせて微笑む。
屋根を叩く雨粒の音がどんどん激しくなっていく。
「玖瑠美。そこに携帯あるやろ……。オカンに電話入れとけ。後で送ったるから」
正成は手を桶で簡単に洗うと傍に置いたタバコを一本抜いて咥えた。
「こんな一番酷い時に帰る事もないやろう」
玖瑠美はコクリと頷くと立ち上がり、古い木製の机の上に置かれた正成の携帯電話を手に取った。
その液晶画面の上に前髪から垂れる水滴が落ちた。
それを首にかけた成明のタオルで拭く。
「この風も、もうじき止む。それまで少し待ってろ」
正成は煙を吐き、そう言うと、型から瓦を取り出し、自分の脇に積む。
玖瑠美はそんな正成を見て、手に持った携帯電話を机の上に戻した。
「電話せんのか……」
両手を泥で汚した成明が玖瑠美に言う。
「うん……。もうすぐ止むなら帰れるやろうし。どうせナルと一緒なんは知ってるやろうし……」
成明と玖瑠美はいつも一緒だった。
それだけにこれから進む道が違う事に玖瑠美は焦燥感に似たモノを感じていた。
「玖瑠美は高校行ってしたい事、あるんか」
正成はまた煙を吐きながら訊いた。
玖瑠美は土を捏ねる正成をゆっくりと視線を移した。
「別に無い。したい事なんてわからん。わからんから高校行くんかもしれん……」
正成はそれを聞いて小さく頷き、
「そんなモンだな……」
と呟くと泥だらけの指でタバコを摘まむと吸い殻を入れた缶に放り込む。
「この馬鹿も同じだ。自分で何がしたいんかわからんから瓦屋になるとか言いよる……」
「そうじゃない……。俺は親父みたいになりたいって思ったから瓦屋に……」
成明は土を捏ねる手を止めた。
そんな成明を見て正成は歯を見せた。
「こんな親父になりたいってどうやったら思えるんだ……」
正成はまた土を型に叩き付ける。
「毎日毎日泥に塗れて、来る日も来る日も土を捏ねて、そんな生活の何処に憧れるねん……。俺ならもっと今風の仕事がしたいと思うな。ちゃんと学校行って、それなりに稼げる仕事をしたいと思うな」
正成は顔も上げずにそう言う。
「玖瑠美を嫁にもらおうにも、こんな瓦屋じゃな……」
「何言うてんねん……。そんなんちゃうわ……」
喰い付く様に成明は正成に言うが、玖瑠美は俯いて何も言わなかった。
正成は顎で玖瑠美を指した。
成明は俯いた玖瑠美に気付き、眉を寄せる。
「玖瑠美……」
その言葉に玖瑠美は顔を上げた。
「そ、そうやで……。おじさんなに言うてんのよ。私みたいなイイオンナがナルみたいな奴と結婚するわけ無いやん。ええ加減にしてよ」
玖瑠美は首にかけたタオルを正成に投げ付けた。
それを泥だらけの手で掴むと正成はまた、歯を見せて笑った。
「ナルみたいな奴って言われてもな、一応、俺の息子なんやけど……」
玖瑠美は顔を真っ赤にして再び俯いた。
そしてそれを見た成明も同じ様に頬を赤く染める。
「まあ、人生なんてそれなりにアソビが必要なんや……。色々と経験せんと、モノの善し悪しもわからんしな……」
その時、強い風が吹き、納屋の壁が大きく揺れた。
「おっと……。強い風が来たな……。そろそろかな……」
正成は手を洗い、立ち上がった。
「何がそろそろなんだよ……」
成明も手を洗うと、壁にかけてあった汚れたタオルで手を拭く。
「台風ってのは、その雲の切れ間程、風が強いねん……。キツイのが来たって事はそろそろ雲が切れるって事やな」
成明と玖瑠美は顔を見合わせて頷いた。
「まあ、これも経験から知った事や。全ては自分の体で覚える。それが人生にとって一番大事な事や。そんなふうに経験に勝るモノはこの世には無い」
正成は納屋の戸をゆっくりと開けた。
目の前に広がる海は雲の切れ間から差す夕日に照らされて輝いていた。
「台風、行ってしまったんか……」
正成の後ろから成明が訊いた。
「いや、いわゆる中休み的なモンや……。台風の目に入ったんやな……」
「目……」
玖瑠美も横から顔を出した。
正成はゆっくりとぬかるむ足元を気にしながら納屋から表に出た。
「これも経験が教えてくれた事やな……」
正成は空を突き上げる様に背伸びをした。
その背中をオレンジ色の夕日が照らす。
「成明……」
正成に呼ばれ、成明はゆっくりと納屋を出る。
正成は振り返るとポケットからタバコを出してまた咥える。
「お前の人生はお前のモンや。誰かに言われて生き方を決めるなんてダサい事するんじゃねぇ。どうせ生きるなら、誰にも負けない格好良い生き方してみろ……。それなら喜んで玖瑠美も嫁に来てくれるだろうよ」
正成はそう言うと歯を見せた。
成明は苦笑しながら、正成の横に立った。
ふと気が付くと、玖瑠美もその横に居た。
まだ過ぎていない台風の中休みの中、三人は焼ける様な夕焼け空を見ていた。
玖瑠美はそんなオレンジに染まった二人をじっと見つめて微笑んだ。
成明も嬉しそうに微笑む玖瑠美を見て笑う。
「親父……。俺、やっぱり……」
成明は夕焼けに染まる海を真っ直ぐに見つめたまま言った。




