第8話 魔獣襲来
十五の春を迎えた朝だった。
空は高く、風はやわらかい。
村の広場には子どもたちの笑い声が響き、
井戸のそばでは主婦たちが談笑している。
俺は丘の上で、いつものように木剣を振っていた。
手の皮はすっかり硬くなり、
柄の感触が掌に馴染んでいる。
数字には現れない日々。
それでも、剣を振るうたびに、
自分が生きている実感だけは確かだった。
努力が報われなくてもいい。
“動ける自分”でありたかった。
――その静けさは、唐突に破られた。
地の底から、低い唸りのような振動。
鳥たちが一斉に飛び立ち、森がざわめく。
焦げたような匂いが、風に混じって届いた。
「……なんだ?」
木剣を肩にかけたまま丘を下りる。
村の方角から、悲鳴が上がった。
心臓が跳ね、足が勝手に動いた。
坂を駆け下り、土煙を切り裂いて広場へ飛び込む。
そこで、目にした。
黒い影。
家々を薙ぎ払い、地面をえぐる巨大な獣。
鋼のような毛並み。
血のように赤い双眸。
――魔獣。
その存在感だけで、空気が震えていた。
地面の振動が膝を打ち、息が詰まる。
「逃げろっ! 森の外へ!」
「だめだ、子どもたちがまだ――!」
村人たちの声が錯綜する。
恐怖と混乱。
誰も、動けない。
そんな中で、自分だけが前へ出ていた。
「シエル! 下がって!」
ミリアの声が聞こえた。
けれど、止まらなかった。
胸の奥が熱い。
脳裏に、炎の中で救った少女の姿がよぎる。
――あの時と同じだ。
誰かが、助けを求めている。
反復スキル、起動。
千日を超える軌跡が、体の奥から蘇る。
足の角度、重心、呼吸。
訓練のすべてを重ね合わせ、一歩踏み出した。
木剣が唸りを上げ、空気を裂いた。
光の尾が走り、魔獣の肩をかすめる。
ジッ――と焦げる音。
黒い毛が焼け、白い煙が立ち上る。
わずかに、赤黒い線が走った。
届いた。
ほんのわずかでも、確かに。
五年間の努力が、形になった。
魔獣が咆哮を上げる。
空気が震え、耳が割れそうになる。
振り下ろされた腕を避けきれず、
衝撃で体が弾き飛ばされた。
地面を転がり、肺の中の空気が押し出される。
痛みで視界が揺れた。
それでも、立ち上がる。
膝が笑い、手が震えても、
足が、勝手に前へ出た。
「逃げるくらいなら……立ってた方がましだ!」
叫び、木剣を構え直す。
喉が焼ける。
それでも、声を張った。
オラクルβの観測ログが、
世界の裏で静かに流れていた。
《観測:対象個体、魂輝度上昇。
エネルギー種別――未定義。
仮称:“信念出力”。》
AIは理解できなかった。
論理も計算も超えた行動原理。
“なぜ動くのか”。
答えは一つ。
――守りたい。
魔獣が再び唸り、腕を振り上げる。
その影が迫る。
避けきれず、
再び体が宙に浮いた。
土の味がする。
視界が白く弾ける。
倒れながら、
誰かの声が聞こえた気がした。
ミリアの叫び。
涙の匂い。
――ああ、でも。
動けた。
それだけで、少し救われた気がした。
視界が暗くなっていく。
夜のような闇の中で、
微かな光が瞬いていた。
報われなくても、意味がある。
その確信だけを胸に、
意識が、静かに沈んでいった。




