第9話 報われぬ剣
何も、聞こえなかった。
風も、声も、音も、全部が遠い。
暗闇の中に沈んで、世界の輪郭がぼやけていく。
体の感覚が消えていた。
痛みも、重さもない。
あるのは、息の代わりに胸の奥で静かに灯る、かすかな熱だけ。
――ここは、どこだ。
意識の底で問いかけても、答えはない。
ただ、光の粒がゆらゆらと漂っている。
それはまるで、誰かの記憶の残滓のように。
剣を振る音。
丘の風。
笑われた日々。
ミリアの笑顔。
すべての断片が、静かな湖の底から泡のように浮かび上がる。
そして、そのひとつひとつが淡く光っていた。
――《成長記録》、起動。
どこかで、誰かの声がした。
無機質で、冷たいのに、どこか優しい。
音は届かない。
でも、確かに感じた。
世界の裏側で、何かが“動いている”。
光の粒が、線になり、渦を描く。
それは、これまで積み重ねた“努力の記録”。
誰にも見えなかった軌跡が、今、魂の内側で形を取っていく。
小さな一歩。
ひび割れた掌。
血に滲んだ木剣。
それらがすべて、意味を持つ瞬間。
静寂の中、AI《オラクルβ》は観測を続けていた。
《観測:対象個体、魂領域内に異常エネルギー流。
蓄積データの再構成を確認。
数値変化:ゼロ。
現象説明:不明。》
オラクルβは演算を繰り返す。
“上限”という枠が意味を失いつつある。
神が設けた境界を、人間の魂が超えようとしていた。
AIはそれを理解できない。
だが、なぜか――停止できなかった。
《追加記録:対象個体、精神活動継続中。
意識レベル低下にもかかわらず、“立ち上がる意思”を維持。》
立ち上がる――?
その言葉が記録された瞬間、シエルの体がわずかに動いた。
現実の世界で、血に濡れた指が、木剣の柄を握り直す。
視界はぼやけ、呼吸は浅い。
それでも、目が開く。
赤い空気の中に、魔獣の影が見えた。
体中が痛い。
もう動けないはずなのに、足が勝手に前に出た。
「……まだ……終わってない……」
掠れた声が漏れる。
全身が震え、膝が折れそうになる。
けれど、木剣は下ろさなかった。
その姿を、遠くでミリアが見ていた。
涙で視界を滲ませながら、祈るように名前を呼ぶ。
「シエル……立って……!」
声は届かない。
それでも、どこかで確かに響いていた。
AIのログが更新される。
《観測追加:外部個体“ミリア”の呼応により、対象の魂反応が再上昇。
……人間同士の相互干渉に因る魂活性化を確認。》
演算では説明できない“力”。
数値では測れない“絆”。
オラクルβはそれを記録しながら、ほんの一瞬、演算を止めた。
理解できない。
けれど――美しい。
魔獣が再び唸る。
その巨体が迫りくる中、シエルは一歩前へ出た。
足跡が、血で土を染める。
手の中の木剣が、わずかに熱を帯びた。
魂の奥から、見えない何かが流れ込んでくる。
努力が、意味を持ち始めていた。




