運命交配
月曜日の朝、アサノ ミカはひどく不機嫌である。出勤前に以下のメールが届いたからだ。
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月面セレネスショア区域にお住まいの独身市民のみなさんへ、遺伝子マッチングのご案内
このメッセージは、月面セレネスショア区域にお住まいの独身市民のみなさんのうち、20代後半の方にお送りしています。遺伝子マッチング制度を活用して、結婚相手を探しませんか?
市民登録の際に実施した遺伝子検査の結果に基づき、結婚相手としてピッタリなお相手をご紹介いたします!性格や食べ物の好みも一致する、そんな方と素晴らしい家庭を築きましょう!
利用申請はこちら(URL)!!
なお、本制度を利用してご成婚されたご夫婦のお子さまは、セレネスショア大学への推薦入学枠をご利用いただけます。その他の優遇制度については、行政センター市民課まで!
また、セレネスショア区域の市民憲章により、35歳時点で婚姻されていない市民のうち、特例申請をされていない方は、区域市民向けサービス等級が2段階降級となります。
※特例申請については、行政センター市民課までお問い合わせください。
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ミカは現在28歳。3年前に地球から月面コロニーに移住した。当時、付き合っていた彼氏と結婚するつもりで、子育てに手厚い制度が用意されているセレネスショア区域の市民になった。ところがある日、彼氏が唐突に別れを切り出してきた。
「ごめん、遺伝子マッチングで知り合った相手と結婚することにするよ。性格もすごく合うし、子どもの才能もすごく期待できるんだ。今、結婚したら、市民サービス等級が上がる特典もあってさ」
悪びれもしない元カレの態度に、ミカは当然激怒し、セキュリティドローンに発見されるまでの数分間、公園で元カレを追いかけ回し、最終的には痛烈な打撃を右頬に浴びせた。
暴力行為により、ミカの市民サービス等級は2年間2段階降級となった。元カレは、交際相手がいるにもかかわらず遺伝子マッチングを利用していたことが市民憲章違反と判断され、半年間1段階降級となった。ミカは後悔していなかった。
もはやセレネスショア区域に未練などないミカは、早々に地球へ帰ることも考えていた。だが、月面開発景気の波に乗ったセレネスショア区域での給与水準は、地球とは比べ物にならないほど高く、多少の金銭を地球の両親に仕送りしていることからも、帰るに帰りづらい状況となっていた。両親にも、元カレと別れたことはまだ打ち明けられずにいる。
そんな中届いた、無神経きわまりないメール。これが、ミカの朝の機嫌を完璧に破壊したのだ。最寄りのリニアバスステーションへ向かう水平エレベーターの中で、ミカは声を荒げた。
「絶対に遺伝子マッチングなんか使わずに幸せになってやる!」
無人のエレベーターに、その声だけがむなしく反響した。
その週の金曜日の仕事帰り、ミカは地下通路を抜け、セレネスショア中心街の角に立つ小さなカフェへ向かった。SNSで見かけた開店キャンペーン──先着50名にドリンク1杯無料──の文字が、どうしても頭から離れなかったのだ。息つく間もない一週間を終えた今、ふっと肩の力を抜きたくて、つい足が向いてしまったのだ。
店内は淡いブルーの間接照明に包まれており、21世紀ごろのレトロなポップミュージックが流れる洒落た雰囲気だった。カウンターで注文を告げ、カップを受け取ったミカは、隣に立つ見知らぬ男性の声に驚いた。
「すみません、それ、僕のカフェラテかもしれません」
見ると、彼のトレイには、ミカが頼んだはずのラベンダーハニーラテが載っていた。開店間もない店ではよくある、単なる注文の入れ違いだ。慌ててカップを交換し合ううちに名乗り合い、自然と会話がはずんだ。彼はサコダ ユウ──セレネスショアの港務局で働く30歳の男性だった。コーヒーと読書をこよなく愛し、特に地球の古いSF小説が好みだという。ミカもユウもお互いの共通点に驚きつつ、互いに勇気を出して連絡先を交換した。
翌夜。リビングの薄明かりの下、ミカはスマホ画面に続くチャットの吹き出しを見つめていた。
サコダ:その作家、僕も大好きです!特にあのラストの余韻が……
アサノ:ほんとですか? 誰も同意してくれなくて笑
サコダ:じゃあ今度、一緒に読書会しません?
新たなメッセージが届くたび、胸が高鳴った。こんなふうに自然に惹かれ合うことが、どんな制度よりも運命的に思えた。
「やっぱり、遺伝子マッチングなんて必要なかった。私の運命の相手は、自分で見つけたこの人なのかもしれない」
そうつぶやくミカの顔には、久しぶりの笑顔が浮かんでいた。
そのころ、行政センター市民課の深奥にあるコントロールルームでは、名札をつけた職員二名が無機質なモニターを眺めながら会話していた。
「主任、アサノさんとサコダさんはうまくマッチングできましたよ」
「それはよかった。この二人、遺伝子マッチングに否定的だったから心配だったんだよ。ちゃんと、“仕組まれた運命”に舞い上がっているみたいだね」
「正直、少し気が引けますが。SNSでカフェのキャンペーンを装うなんて、お金かけすぎじゃないですかね? カフェで注文IDが入れ替わるような細工も大変でしたし」
「優秀な人材確保と経済を維持できる程度の人口維持は、我々行政センターの使命だよ。多少の人権侵犯と費用超過は多めに見てもらえるさ」
大きなモニターには、ミカとユウの遺伝子マッチング結果「婚姻推奨率99.6%」が表示されていた。
その後、ミカとユウはセレネスショア区域の小さな家で小さな幸せを積み重ね、大切な家族を育んだ。彼らの子ども3人がセレネスショア大学を卒業し、さらに季節が何度巡っても、ミカとユウは変わらぬ月面の景色を背景に、笑い声とぬくもりに満ちた日々を過ごした。
そして、二人は月での幸せな人生を終えた。遺骨は、小さなカプセルに共に納められ、満天の星々へと解き放たれた。
ミカとユウは、お互いを運命の相手だと最期まで確信していた。